第一章 第三話 過去
また時が過ぎて、放課後。
部活動に参加するために、運動用ジャージを着て、ウォーミングアップをする。
ジャージは、これもまた、主に黒色を中心にしていて、肩や、脚に、白色のラインが入っているという、不思議なデザインである。 私はウォーミングアップを終えると、ゆーちゃんに近付き、声をかけた。
「ゆーちゃん、タイム測ってくれないかな?」
「いいよ」
私は、今度の大会に向けて、記録を伸ばしている最中である。
種目は、百メートル走。
ゆーちゃんも、同じである。
ゆーちゃんは、ゴールの方まで行き、ピストルを、構えると、私に大きな声で呼びかけた。
「行くわよ!」
「うん!」
私は、スタートラインで、膝をつき、構える。
「用意!」
腰を上げ、後ろに下げている右足に力を込め、耳をすます。
(バンッ!)
その音が鳴り終わる前に、私は、地面を蹴り、全力で走った。
走っている間は、何も見えない。何も聴こえない。
走っている時にしか分からない風。
見えない空気を切りながら、走っていくこの感覚。
まるで自分が風になっているような感覚。
それが心地よくて、陸上部に入った。
走りが速くなるほど、その感覚はもっと心地よくなる。
いつの間にか、ゴールラインを越えていた。
「12秒34。また速くなったわね」
「や、やった…。」
私は、安堵して地面に倒れこむ。
息を調えていると、ゆーちゃんが近づいてきた。
「あまり、そこで寝ていると濡れるわよ」
ゆーちゃんがそう言いながら、手を差し伸べてきた。
「ありがと」
私は、その手を掴み、立ち上がる。
地面が、若干湿っていたのか、背中が濡れてしまった。
「由利に負けてられないわね」
「私もだよ」
「由利、私のタイムも測ってくれない?」
「もちろんいいよ!」
私は、ゴールの方へと向かい、右手にピストルを構え、左手にはストップウォッチを持つと、スタートの方で、既に膝をついているゆーちゃんに声をかける。
「用意!」
遠くだからよく見えないが、ゆーちゃんが僅かに動いた。
(バンッ!!!)
ピストルを撃った瞬間に、ストップウォッチを押す。
キーンと耳鳴りが響く。
こらえて、ゆーちゃんの走りに目をやる。
「すごい…」
速い。
速いのだ。
ゆーちゃんは、私より、速い。
しかし、今の走りは、とても良い。
速すぎて、空気と一体になって、飛んでいるかの様に。
ゆーちゃんが、ゴールすると同時に、ストップウォッチを止めた。
ゆーちゃんは、その場でうずくまった。
「…何秒?」
息を調えながら、ゆーちゃんは、私にそう言った。
「凄いよ!11秒74だよ!」
私は興奮のあまり、はしゃいでいると、ゆーちゃんが立ち上がって、私にチョップをかましてきた。
「痛いっ!」
「うるさいわよ」
「だって、こんなに速いタイム初めてだよ?」
「由利じゃないでしょ」
ゆーちゃんは、何故か、浮かない顔をしていた。
良いタイムが出たのだから、素直に喜ぶべきだと思う。
けれど、ゆーちゃんは、かなりのストイックである。
きっと、もっとタイムを伸ばすべく頑張らなきゃ、と思っているのだろう。
「由利、そろそろ下校の時間だから、片づけの声かけやってくれない?」
「分かった」
私は、そう言って、ゆーちゃんの元を離れて部員達の方に駆け寄った。
その時、ゆーちゃんが、どんな顔をしながら、私を見ていたのかも知らずに。
夜。
ゆーちゃんから電話がかかってきた。
『ごめん。遅くに電話かけちゃって』
「いいよ、全然気にしてないし。それよりどうしたの?」
『私…さ』
「うん」
『来週の大会に出ようと思うの』
「へ?」
あまりにも、間抜けな声を出してしまった。
『まぁ、そうなるよね』
「え、だって大会って、後4日しかないんだよ」
『分かってる。それでも、出たいの』
「…」
『それに、目標があった方が速く走れると思うの』
「そっか…。ゆーちゃんが出たいなら、いいと思うけど、申し込み間に合うかな?」
『明後日が締め切りだからギリギリセーフかな』
「そっか…。ゆーちゃんには、頑張って追い付かなきゃ」
『由利に負けられないわね』
その後、しばらく談笑して、電話を切った。
ゆーちゃんが、何で、いきなり大会に出ることを決めたのだろうか。
不思議に思ったが、ゆーちゃんの意思である。
私は、眠くなり、ベッドに潜り込んだ。
それから四日経った。
大会の日である。
私は、わくわくしながら、出番を待った。
皆が、自分の思いのままに走るその姿は、私にとっては芸術の様にも思えた。
百メートル走の種目の予選が始まった。
いろんな高校から来ている選手たちが、ウォーミングアップをする中には、ゆーちゃんもいた。
「ゆーちゃん!頑張ろうね!」
「え、頑張ろうね…」
ゆーちゃんは、とても怖い顔をしながら、違うところに歩いていった。
その時、
《ゼッケン番号411。斎藤由利。》
放送で呼ばれた。
いよいよ、私の出番である。
私は、スタートの方へ行くと、ゆーちゃんもいた。
ゆーちゃんは、私と目があったが、すぐにそらした。
そりゃそうである。
今は、ゆーちゃんと私は、走者としての敵である。だから、ゆーちゃんは、私に冷たいのだ。
私はそう思い込むと、膝をついた。
鼓動がやけに、大きく聞こえる。
「用意」
腰を上げ、右足に力を込める。
(バンッ!)
おもいっきり地面を蹴った。
ビュンビュンと、走っていくこの感覚。
回りなんか見えなくなっていた。
他の選手なんかどうでもよくなった。
ただゴールを目指して走った。
ゴールを越えた途端、一気に脱力した。
選手たちがバラバラと、ゴールにつく。
《一位。ゼッケン番号411。斎藤由利》
放送で呼ばれた。
タイムが発表されるこの時、息を飲んだ。
《記録、11秒32。》
「やった…」
それだけだった。
四日前は12秒台だったのに。
嬉しかった。
予選で、こんなに速いなんて。
《二位。ゼッケン番号415。吾妻友里。》
ゆーちゃんの記録が発表される。
《記録、11秒45。》
「…」
ゆーちゃんに勝った。
初めて。
勝った。
とてもとても。
嬉しかった。
胸が苦しくなるぐらい。
「由利、いつの間にあんなに速くなったの?」
ゆーちゃんが近づいてきた。
手には二つのドリンクボトルを持って。
「ゆーちゃんに、初めて勝ったよ!やっと、追い付いたよ!」
「私も、本当に負けられなくなったわね」
ゆーちゃんは苦笑しながら、私にドリンクボトルを差し出した。
「ありがとう、ゆーちゃん」
「二位までが、決勝進出みたいね」
「決勝でも負けないよ」
「その台詞、そのまま返すわ」
私は、ドリンクボトルに口をつけると、ゆーちゃんが凝視してきた。
「何?」
「いや、何でもないわ。私、そろそろ行くね」
「うん!」
私は、決勝に備えてのウォーミングアップを始めた。
いよいよ決勝である。
私は、緊張しながら、膝をつく。
心臓が今にも飛び出しそうである。
足がすくんできた。
でも、ここまで来たのだから、優勝したい。
ゆーちゃんに勝ちたい。
その一心で、持ち直し、前を見据える。
「用意」
腰を上げ、右足に力を込めた。
次の瞬間―。
「うっ!?」
お腹に、急に痛みが走った。
ぐるぐると唸り、今にもはち切れそうな位の痛みが、私を襲ってきた。
視界が、ぐにゃりと曲がり、耳からは雑音が聞こえた。
私は、そのまま意識を失った。
「…」
目が覚めると、真っ白な天井が視界に入った。
「大丈夫か」
次に田中先生が。
「先生…。どうしてここに…?」
「事務員から、斎藤が倒れたと聞いてな。」
「すいません。迷惑かけて」
「気にするな、それより親御さんに会ってやれ」
田中先生は、そう言うと歩き去っていった。
と思いきや、ずるっとコケた。
田中先生は、素早く立ち上がり、何事もなかった様に歩き去っていった。
あのまま行けば、充分かっこよかったのに、と思ってると、お母さんとお父さんが駆け寄ってきた。
「大丈夫か」とか「目眩はないか」など、心配してくれたが、今は本当に何ともないと、弁解していた。
お父さんとお母さんは一旦、部屋の外に出ると、私はベッドから立ち上がり、お腹をさすった。
あの時、意識を失うほどの痛みの中心は腹部である。
お腹でも壊したのか。
そう思ったが、そんなものは口にしていない。
昼食前に競技を行ったし、朝食に原因があるなら、予選で既になっている筈だ。
食べ物は口にしていない。
強いて言うなら水ぐらいだ。
「水…?」
私はそこで、思考を止めた。
「嘘だ…」
しかし、私はこれしか口にしていない。
だけど、辻褄が合ってしまうのだ。
何故か、大会の時、私を避けるような行動をしたのか。
何故、急に、予選が終わった時に近寄ってきたのか。
何故、ドリンクボトルを持ってきたのか。
何故、飲んでいるとき、私を凝視してきたのか。
私は、近くに置かれていた私の鞄の中からスマホを取り出し、電話をかけようとした、その時、部屋のドアが開けられた。
「…ゆーちゃん?」
ゆーちゃんが、そこに立っていた。
困惑と、悲しみと、怒りが混じったような空気が、部屋の中を包み込む。
ゆーちゃんのスマホから鳴り出す着信音が、静かに響いた。
「ゆーちゃん、答えて」
私は、静かに問う。
「ゆーちゃん、あの水に何も入れてないよね?」
最後の希望であった。
疑っている。けれど、懇願の思いで。
「…」
「ゆーちゃん、答えて」
必死の思いで、私はゆーちゃんに問い続ける。
「…もうわかっているんでしょ」
「…何が?」
「由利の想像している通りよ」
私の希望は、
「…一体どういう意味?」
「とぼけても無駄よ」
少しずつひび割れていき、
「ゆーちゃん」
「もういいから」
大きなひびが入り、
「ゆーちゃん、違うって言ってよ!!」
「いい加減にしなさいよ!!」
やがて―。
「わかってるんでしょうが!!私が―」
「ドリンクボトルに下剤を入れたって!!!」
粉々に、無惨に、崩れていった。
「何で、何で…」
困惑する私。
でも、ゆーちゃんは、それに構わず淡々と語り始めた。
「私ね、由利が怖かったの」
「最初は、ただ単に走るのが大好きなだけだったのに、速さを求め始めた由利が」
「そしたら、今まで伸びなかった由利のタイムが急に延び始めた時、由利を恐ろしく感じたの」
「私は、由利の憧れの存在でいようと必死だった」
「でも由利は、その必死さを壊すような才能を持っていたのよ」
「それが恐ろしくて、抜かされないように頑張っていたのに、スランプに陥ったのよ!」
ゆーちゃんが、語るほどに、感情が少しずつ高ぶっていた。
私は、悲しみでしかいられなかった。
「何で、大会に出ようと思ったか分かる?あなたに、私のベストを越されないように監視するためだったのよ!!」
「由利は、私の予想通り、タイムが速くなっていた。でもっ…!」
ゆーちゃんは、俯き、
「私より遅かったらそれでよかった、でも、あんたはっ…!!」
顔を上げて、私を、怒りの形相で睨み付け、
「あんたは、私を越えてしまった!!」
「私より越えてしまったら、私は、由利の憧れじゃいられなくなる。だからっ…!!」
今まで、黙って聞いていた私は、我慢の限界になり、口を開いた。
「だから…、私に下剤を飲ませたの?」
「…」
「何よ、すごい自分勝手じゃん」
「私の憧れの存在でいたかった?ふざけないでよ!!」
「そんなことで、私に下剤を飲ましたの?馬鹿だよっ!!」
「何で!何で、私の最後の大会だったのに…!!」
「え…?」
ゆーちゃんが驚きの表情で、こちらを見る。
そうだ。
私にとって、この大会は引退試合。
つまり、高校生活最後の大会であったのだ。
「先生にも、親にも言われたの。今の大学を目指しているなら、部活を辞めて、勉強に専念しろって…」
「…」
「だから、皆に内緒で…、最後にしようと思ったの…、だから、最後にゆーちゃんに勝てて嬉しかった…」
「…」
「今なら全力で走れるって…、そんな気がして…、だからっ…、頑張りたかったのに…」
ゆーちゃんは、黙り込む。
私は、話している内に涙が止まらなくなった。
「返してよっ…!あの時間を返してよ…!私のっ…!走る時間を…、返してっ…!」
部屋には、私の泣きじゃくる声だけが響き渡った。