第一章 第一話 斎藤由利
第一章 斎藤由利と吾妻友里
ぽっかりと穴が空いた。何の感情も、湧かなかった。
お母さんが、泣き止むと同時に、スーツ姿のお父さんが、病室に駆け込んできた。
お父さんは、私に「すまない」とずっと言っていた。
私は、足を叩いてみた。手には足を叩いた感覚があった。
けれど、足には、それがなかった。
もう一回叩いた。強くして叩いた。
でも、無かった。
私は、何度も叩いた。何度も何度も叩いた。お母さん達が止めるまで、ずっと叩いた。
頬に、暖かい何かがこぼれ落ちた。
涙だった。私は、いつの間にか泣いていたのだ。
そして、私は、お母さんよりも大きな声で泣きじゃくった。
――――――――――
夢を見た。あいつが、私を追いかけようとした瞬間に、トラックに跳ねられた様子を。
あいつが、病室で、家族がいる中で泣いていたこと。
「あなたの契約通りよ」
その声が、した瞬間に、暗い闇になった。
「これで、満足した?」
振り返ると、だぼだぼの黒いパーカーを着た、小さい子供が立っていた。
深く被ったフードからわずかに見える口元は、わずかに微笑んでいた。
「あら、お気に召さなかったかしら」
あんたが、やったの?
「えぇ。で、どう?感想は」
…本当にやるなんて思わなかった。
「あなたが呪ってほしいと願ったから、呪ってあげたのに」
そうね。確かに呪って欲しかったよ。
「ほら」
だからって、ここまでしてほしかった訳じゃない!
「でも、契約したのは、あなたよ」
それは…。
「それに、呪いは人の恨みによって、その内容が変わるのよ」
え…?
「つまり、あなたは、よっぽど彼女を恨んでた、ということよ」
私は…。
その時、光が差してきた。
「あら、もうそんな時間なのね」
…何で。どうしてこんな…。
「さぁ」
…。
「そんなこと、どうでもいいもの」
そんなことって…!
「まぁ、私としては、契約違反されなきゃそれでいいのよ」
契約違反?どういう意味なのよ。
「あら、規約をちゃんと読まなかったのね」
…規約?
「でもごめんなさい。もう説明してる時間はないの」
その時、強い追い風が吹き荒れた。
私は、そのまま意識を失った。
覚えていたのは、黄緑色の閃光だけだった。
「…」
目が覚めると、そこは、私の部屋だった。窓からは眩しいほどの光が差し込んでいる。
「ちょっと、お姉ちゃん!休みだからって寝過ぎだよ!」
ドアの前から、妹の声が聴こえた。
私は、ベッドから降りて、ドアを開ける。
「もう!やっと起きたっ!」
私と比べると頭一つ分小さい背。
長い黒髪を、後ろで団子結びにしていて、ふわふわしている。
「ごめん。裕佳梨」
「お母さんにも言ってよね。ご飯作ってくれてるんだから」
ちょっとムッとした顔のまま、階段を降りていく。
私は、部屋に戻って、さっさと着替えると、階段を降りていく。
階段を降りると、お母さんが仕事に行く準備をしていた。
「おはよう、お母さん」
「おはようって…、もう冷めちゃったから、ご飯は自分で温めてよね」
「ごめんごめん」
私は、朝食を暖めていると、電話が鳴り始めた。
私が出ようとすると、裕佳梨が「私出るから」と言って、電話に駆け寄る。
その間に私は、温め終えて、朝食を食べていた。
「あ、おはようございます。…あ、えぇ、いますけど…」
裕佳梨が話している声が、聞こえる。
「え!?…わかりました。えぇ、すぐに伝えます。はい…」
裕佳梨が、受話器を下ろすと、真っ青な顔で私の方に来て、
「お姉ちゃん!」
「何?」
「吾妻姉さんが…!!」
「交通事故にあったって…!!」
「田中先生っ…!」
「斎藤!」
息切れをしながら、病院にたどり着くと、田中先生がいた。
「来たのか…」
「ゆ…、ゆぅ…!」
息切れをしていて、うまく言葉が伝えられない。
田中先生は、私を椅子に座らせて「落ち着け」と、背中をさすってくれた。
「すいません…」
「いや、気にするな。もし俺もお前の立場だったら、同じことをしていたからな」
「ゆ…、吾妻さんは?」
「意識不明だそうだ」
「え…」
嘘だ。
そう思いたかった。そう言いたかった。
でも、田中先生の顔は、真実を語っていた。
「そ…、そんなことが…!」
視界が、潤んでいって、やがて、頬に伝っていった。
「そんなこと…!あっていいわけ…!」
「お前が泣くな。泣きたいのは吾妻だ」
「…はい」
服で拭っていると、
「田中先生…。と、斎藤さん?」
呼び掛けられた方を向くと、セミロングの黒髪に、切れ長の瞳。
一瞬で、ゆーちゃんのお母さんだと思った。
ただ、いつもと違うのは、腫れぼったい瞼と、疲れはてた顔。
「こんにちは、吾妻さん」
「わざわざ、すいません。」
おばさんは、私の方を向き、
「斎藤さんも、ごめんね。わざわざ来てくれて」
「いえ…。その…ゆーちゃんは…」
「その事を話したかったの」
おばさんは、ゆーちゃんとそっくりの、優しい笑みを浮かべた。
おばさんから、すべて聞いた。
医者によると、頭を強く打って、気を失っているだけらしい。
ただ、すぐには目が覚めない。
しかも、足がタイヤに巻き込まれて、複雑骨折を起こしているとか。
どっちみち、早く目覚めても、来週の大会には間に合わないらしい。
話を聞いているうちに、とても辛くなった。胸が苦しくなった。
おばさんが、淡々と話しているのも、田中先生が、黙々と聞いているのも、ものすごく腹がたってくる。
分かってる。今、この場で泣いてわめいたって、何の解決にもならない。
でも、頭で分かっていても、心は理解できてなくて。
私は、その場に居たくなくて。
気がつけば、逃げ出してしまった。
今、私がどこにいるのかわからない。
分かるのは、病院の中にいること。
人通りが少ない通路をとぼとぼ歩いていると、前から誰かが歩いてきた。
「…!野上さん?」
知ってる顔だった。確か、一年の部員の野上さん。
長い茶髪を緩くまとめた、背の低くて、気の弱い子だ。
「あ…。ゆ、由利姉さん…」
「どうしたの?」
「え。あ…、その、家族の見舞いを…」
「そう…」
ふと、彼女の手元を見ると、果物がたくさん中に入ったバスケットを抱えていた。
「…あの」
「何?」
「由利姉さんは、どうして…病院に…?」
「え…」
一瞬揺らいだ。固まってしまった。
彼女が、オロオロしているのは、どうでもよかった。
「部長が、轢かれたの」
「え」
彼女が、唖然としている。
「しばらく、目が覚めないって」
「そ、そうなんですか…」
彼女が、うつむいていた。
しばらくの間、沈黙の空気が漂った。
「あの…」
その沈黙を破ったのは彼女だった。
「何?」
「私、見舞いに行かなきゃ…いけなくて」
私は、我に帰った。
「ごめんね。なんか立ち止まらせちゃって」
「いいえ!気にしませんから」
そのまま彼女は、歩き去っていった。
「今の瞬間、後悔するわよ」
急に、誰かの声が聴こえた。
後ろを振り返っても、誰もいない。
私は、ただの空耳だと思って、歩き始めた。
―――――――――
「駄目ね」
「廊下だけ見ても意味無いじゃない」
「ちゃんと、窓の外も見なきゃ」
窓のすぐ側に大きな木がある。
その木の枝に、座って、由利を歩き去る姿を眺めていた。
小さな身体に、どう見ても大きすぎる黒いパーカー。
赤いブーツ。
フードを深く被った、小さな子供。
口は、わずかに微笑んでいて。
風が吹いたときに、見えたのは、爛々と輝いた黄緑色の瞳だった。
――――――――――
私は、ふと窓の方を向いた。
何か気配を感じて。
しかし何もなかった。
そこには、生い茂った木々しかなかった。
家に帰ると、裕佳梨が駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん…お帰り」
「ただいま」
泣きそうな顔になっている裕佳梨をギュッと抱き締める。
「大丈夫だよ。泣かないから」
ほどくと、裕佳梨は、
「それで、吾妻姉さんは?」
そこからは、すべてを話した。
おばさんから聞いた話を。
裕佳梨は、何も言わないで、黙々と聞いていた。
やがて、話終えると、裕佳梨がポツリと呟いた。
「タイミングが良すぎだと思う」
「え?」
「だって、大会まで一週間も切ったときに、事故で轢かれるなんておかしいよ。それに、足が複雑骨折だなんて。明らかに狙ってるみたいじゃん」
私は、それに同感した。でも。
「でも、事故を引き起こすわけできないでしょ」
「できるよ」
「そんなのあるわけ…」
言い切れなかった。途中で、裕佳梨の顔を見てしまったから。
裕佳梨の表情は、真剣そのものだったから。
「聞いたことがあるの。事件や事故を引き起こす呪いのサイトが」
「五葉のクローバーっていうの」
「本当にあったんだ…」
夜、私の部屋でスマホで調べてみた。
実際、調べてみると、それのリンクがたくさん出てきた。
『私のクラスの男の子に虐められていた女の子がいてね』
『女の子を誰も助けてあげなかったの』
『その男の子は、いわゆるガキ大将だったから』
『皆、目をつけられたくなくって、避けていたの』
『ある日、女の子は耐えきれなくて、五葉のクローバーに、その男の子の名前を書き込んだの』
『次の日の朝、全裸になって、磔にされた死体なってたって…』
裕佳梨の話が本当なら、これは、本物のサイトだ。
黒い壁紙の縁に赤いクローバー、五葉のクローバーが貼り付けられていて、一番上には黄緑色に色付けられた大きな文字
《五葉のクローバー》
と記されていた。
書き込みの部分を見ると、
〔○○○○○こいつを痛い目にあわせてください〕
[●●●● 私を虐めた奴です。永遠に苦しめる呪いをかけてください]
〈★★★★ こいつなんか、いなくてもいい〉
など、様々な書き込みがあった。
しばらくスクロールしていくと、
「あった…」
【吾妻友里 こいつの足を奪ってください】
とあった。
しかも、書き込まれた時間は、昨日の八時である。
ここに書き込みがあるということは、誰かが、《五葉のクローバー》に呪いを依頼したということになる。
ゆーちゃんに恨みを持って。
「でも…」
書き込みはあった。
確かにあった。
でも、誰が書いたかは分からない。
せいぜいペンネームの《紅葉》ぐらいしか分からない。
しばらく、またスクロールしていくと、《規約》が書き込まれていた。
黙々と見ていると、やがて、嫌な気分になった。
真っ黒な気持ちばかりが、膨らんできた。
最後まで読みきれず、サイトを閉じて、スマホを放り投げた。
瞬間に、気持ちが楽になった。
あの、嫌な感じは何だったのだろうか。
ただ、これ以上探ってはいけない気がしたので考えるのをやめた。
急に、眠気が襲ってきた。
部屋の電気を消して、ベッドに潜り込む。
一体誰が書き込んだのだろうか。
《紅葉》
分からない。
分からない。
ただ一言言えるなら―。
私は、《紅葉》を許さないということを―。
《規約》
一 呪いをかけたい人を(契約者)。
かけられる人を(生け贄)とする。
二 生け贄がいる場合、そのものの名前を、正確に書き込むこと。
間違えて書き込んだ場合、契約者の一番近くにいる、同姓同名の人が、代わりに受けることになる。
三 契約者が、生け贄を恨みの強さによって、生け贄にかかる呪いの強弱が変わる。
四 生け贄に呪いが成功した場合、その日から、生け贄に一週間あってはいけない。
あった場合、生け贄が受けた呪いが契約者に返ってくる。
《ここから先は、由利が見てないので、分からない》
《今、把握しているのはここまで》