第7話
恭一は、その日、珍しく寝坊をした。
普段は休日でも学校に行く日と同じ時間に起きるが、今日に限って何故か起きられなかった。
(なんで誰も起こしに来なかったんだ…)
恭一は不思議に思ったが、特に気にすることなく大きく伸びをして、縁側の方へ向かった。
そして、庭の梅の花が散っていることにふと気付いた。
(もうそんなに日が経っていたんだ…)
そして、ハルのことを思い出した。
(ハル…)
もうずっと長いこと、奥の暗い部屋で一人ぼっちで…
何もすることもなく、ただただそこにいるだけで、さぞさびしい思いをしていることだろう。
「…」
恭一は、散ってしまった梅の木をぼんやり眺めた。
すると、奥から女中がいつになく上機嫌な様子で、恭一の部屋に入ってきた。
「おはようございます、恭一さま」
「おはよう。でももう昼に近いよ」
「そうでございますね、よくお眠り遊ばしていらっしゃいましたよ」
「…まあね」
どうも、女中の様子がいつもより浮かれた感じであるので、恭一は怪訝そうな顔で尋ねた。
「お前、何かいいことでもあったのか?」
「あら、おわかりになります?」
「なんだよ」
「ええ、それがですね、トキとハルが、今朝がたお暇を頂きましてね…」
「えっ…」
恭一は驚いて、一瞬固まった。
ハルは…もういない?
「ハルのことがあってから、トキも居場所がなくなってしまいましてねえ。まあ当然と言えば当然ですよ」
「…」
「ま、わたくしから見たらトキもあの奥ゆかしい感じがなんとも鼻につくというか…とにもかくにも、親子ともどもいなくなってせいせいしているところでございますよ」
恭一は、女中の話など聞くことなく、だだだと廊下を駆けだした。
「恭一さま!!」
女中が止める隙もなく、恭一は父親の部屋へまっしぐらに走った。
「お父さん!!」
突然恭一が部屋に入ってきたので、父親は驚いて振り返った。
「恭一!まだ寝巻ではないか、はしたない!」
「ハ…トキがやめたって本当ですか!!」
「…本当だ。私が暇を出した」
「…うそ…」
父の言葉に、恭一は絶句した。
「ただ、暇と言っても次の奉公先を紹介してやったのだ。うちではもう働けないが、無責任なことはしたくないからな」
「どうして…」
「どうして、だと?全く、お前たちが招いたことではないか!」
「…」
恭一は、どこを見るでもなく、ただうつろに一点を見つめていた。
「今日、朝早く出て行ったよ。ハルはここへ来たときと全く変わらない様子だった」
「…」
「まあ、次の奉公先ではうまくやるだろう。お前もこれに懲りて、おかしな火遊びはやるんじゃないぞ!わかったな」
「…」
「さあ、早く部屋に戻って着替えなさい。いつまでそんな恰好をしているつもりだ」
恭一は、父親にうながされて廊下へ出た。
そして、そのままの格好で、裸足のままふらふらと表に出た。
庭中の梅の木は、どれも散って新緑が芽吹いていた。
そういえば、ここ最近あまり肌寒さを感じていなかった。
今も、薄着の寝巻のまま表に出ても、そうつらくはない。
ハルと庭で遊んでいた頃は、まだ寒いと感じることがあったのに。
恭一は、ぼんやりと辺りを眺めながら、庭をどんどん進んでいった。
目の前には、庭の中で一番背の高い樹木がそびえたっていた。
確か、ハルが初めてうちに来た日、木登りをしてみせたのがこの木だったような気がする。
ハル、と呼んでもあいつは困ったような顔をするばかりで、木に上ることはなかった。
でも、あいつはいつでも俺について回り、いつだって俺のすぐそばにいたんだ。
おかしな遊びを覚えてからも、ハルと呼べばいつでもすぐそこに…
恭一はハルとの遊びで知ったあの感覚を確かめるように、身を縮めこんだ。
けれど、何故か内側から溢れ出るような熱いものがどんなものだったのか、思い出せなかった。
あんなに、あんなに溢れそうなくらいだったのに…
あれが何なのかわからなくて、辛くて泣くほどだったのに、恭一は全然思い出すことができないのであった。
「ハル…」
恭一は、ぽつんとハルの名を呼んだ。
すると、一瞬心にともしびが灯るように、温かな気持ちになった。
―――…ハルもです…
ふと、ハルの声を思い出した。
無機質で可愛げのなかったはずの、ハルの穏やかで優しげな声を、恭一は何度も何度も頭の中で巡らせた。
「ハル…」
お前の名を呼べば、お前はまた応えてくれるだろう?
「ハル…」
また、温かいその肌で、俺を包み込んでくれるだろう?
「ハル…!」
また、その優しい声で、俺の名を呼んでくれるだろう?
「ハル!!!」
恭一が空に向かって叫んだ瞬間、ぶわっと強烈な向かい風が吹きすさんだ。
今年で一番暖かいその風は、恭一の全身を包み込んだ。
恭一は突然のことに目を見開いた。
ただただ、風のぬくもりに身を任せているだけであった。
一瞬で風は恭一をすり抜けて、またどこかへと去っていった。
恭一は、空を見上げたまま、その場に立ちつくした。
「…」
そのとき、恭一の目から一粒の涙がこぼれ落ちた。
それは頬を伝い、静かに地面にしみ込まれていった。
―――恭一さま…
風が自分を包み込んだとき、恭一は確かにハルの声を聞いた。
ハルと過ごした最後の日、ハルがこの春風のように自分を優しく抱きしめて、微笑むような声で自分を呼んだときと全く同じ感覚を、肌で感じた。
同心ごっこのときの高ぶりは一切思い出せないのに、ハルのぬくもりと声だけが、いつまでも恭一を包み込んでいた。
「ハル…」
恭一は、いつまでもハルの名前を呼び続けた。
もう二度と、ハルは自分に応えてくれないとわかっているのに、恭一は何度も何度もハルを呼んだ。
そしてハルの名を呼びながら、体の奥から、おかしな遊びのときのあの感覚とは明らかに違う感情が、溢れ出ていた。
悲しくて、つらくて、涙がとめどなく流れる。
恭一は、このあまりに切ない気持ちが、何なのかとっくに気付いていた。
あの体じゅうが熱くなって高ぶるような感覚など、もうどうでもいい。
ただもう、今は春風のようにまたたく間に去ってしまったあの子のことが…
梅の花が散る頃、小さな桜のつぼみが、ほころび始めていた。




