第1話
梅の花が咲く頃、隅田邸に二人の母子が迎え入れられた。
「本日からお世話になります、上田トキと申します」
みすぼらしい着物を身につけた、細身で控えめなその中年女は、深々とお辞儀をした。
この家の主である隅田は、うむとうなずいて、トキとその娘を見降ろした。
「連れの子は何と言う?」
「こちらはハルと申します。ほら、ハル」
トキは、母同様着古した着物姿の娘の背中をぽんと叩いて、あいさつするよううながした。
「…ハル…です。よろしくお願い致します…」
ハルは下を向いて、無表情でぼそりとつぶやいた。
「うむ。ではトキ、奥で他の女中にこの家のことを教えてもらいなさい。その子は…」
そのとき、渡り廊下をだだだと駆ける音が聞こえた。
皆が庭の方を振り返ると、庭の岩の隙間から12歳ほどの少年が楽しそうな表情で、廊下を全力で走っているのが見えた。
後ろから、若い女中が困り果てた表情で必死になって追いかけている。
「恭一さま!おうちの中で走るのはおやめなさいと申したではありませんか!」
「知らないよ!捕まえられるものなら捕まえてみな!」
少年は笑って、勢いよく縁側から裸足のまま飛び降りた。
「こら恭一!!裸足で外に出るなと何度言ったらわかるんだ!!」
隅田が恭一に向かって大声で怒鳴ると、威勢のよかった恭一は動くのをぴたりと止めた。
「お、お父さん…」
「恭一、靴を履いてこちらに来なさい」
「はい!」
これ以上怒られることもなさそうな様子を察知した恭一は、元気よく返事をして縁側に飛び乗り、こちらに向かうため走りだした。
ほどなくして恭一は玄関で靴を履き、母子の前に現れた。
ブラウスに釣りズボンという、ハイカラな出で立ちであった。
「今日から女中として働いてもらうことになった、トキだ」
「ふうん」
「トキと申します。よろしくお願い致します、恭一さま」
「それでこっちが…ええと」
「ハル」
もう一度、母親がうながすと、ハルは小さな声でこう言った。
「ハル…です…」
先ほどと同じく、視線を下に落としたままつぶやいている。
「ハル、お前はいくつだい」
「…」
「こら、ハル…。申し訳ございません、先日12になったばかりでございます」
「なるほど、それでは恭一と同じ年なのだな、ふむ」
隅田は手に顎をやって、微笑んだ。
「恭一、お前はこの子と遊んでやりなさい」
「ええっ」
父の言葉に、恭一はあからさまに嫌そうな顔をした。
「なぜ女と遊ばなければならないのですか!女は木登りができないではありませんか!」
「この子もずっと一人ではつまらないだろう。いいね、恭一」
「…はい」
父親に念を押され、恭一はふてくされたような顔をして返事をした。
「おい、スエ!トキを奥へ案内してやっておくれ」
「はい、旦那さま!」
奥から年配の女中がやってきて、トキを連れて行った。
隅田は満足そうな顔でそれを目で追ったあと、恭一の方を見た。
「では、私は部屋に戻るが、無茶はするんじゃないぞ、恭一」
「わかってます」
隅田はうなずいて、すたすたと自室へと戻って行った。
ぽつんと残された子供たちの間には、しばし沈黙が流れた。
しばらくして恭一は、ハルを一瞥してこう言った。
「お前の顔、真っ白だな」
「…」
「雪女みたい、変なの!」
恭一はへへっと意地悪く笑うや否や、突然駆けだした。
「おいハル!悔しかったらここまでおいで!」
恭一は手を振って、ハルを呼んだ。
ハルは突然のことに戸惑うようなそぶりを見せたが、すぐに恭一の元へ駆けて行った。
◇
恭一は、広大な庭をどこまでも駆けて行く。
ハルはやんちゃな若旦那について行くのが精いっぱいで、はあはあと息を切らして走っていた。
「おいハル!もうお手上げか?!情けないよなあ、これだから女ってやつは!」
恭一は立ち止り、一丁前な口を叩いた。
恭一が立ち止まったので、ハルは少しだけほっとしたような顔になった。
「お前、木登りできるか?」
「…」
「できるかって、聞いてるんだよ!」
「…できません」
ハルは蚊の鳴くような声でつぶやいた。
恭一ははあとため息をついて、つまらなそうな顔をした。
「なんだよ、やっぱりか。じゃあそこで見てろよ。俺がお手本を見せてやるから!」
そう言い放って、恭一はそばにそびえたつ大きな木の枝に、猿のようにひょいっとつかまった。
そしてするすると軽い身のこなしで、あっという間に一番高いところまで上りつめた。
「はは!どうだい、すごいだろ!」
恭一は楽しそうにハルに手を振る。
ハルは首を思い切り伸ばして、そんな恭一を黙って見つめていた。
「ほら、ハルもおいで!大丈夫だよ、手を貸してやるから!」
「…む、無理です!」
「まったく…」
恭一はちえっと舌打ちをして、仕方なく下へ降りた。
「お前、何にも出来ないんだな、足も遅いし…」
恭一がハルに文句を言っている間じゅう、それが全く耳に入っていないかのように、ハルは恭一の顔を凝視していた。
恭一は最初は気にしないでいたが、ハルがあまりにも自分を見てくるので、気味悪がってこう言った。
「おい、さっきから何見てるんだよ!気持ち悪…」
そう言いかけた瞬間、ハルは思い切り恭一の頬に張り手を食らわせた。
「いっ…」
恭一は突然のことに目を見開いて、ハルを見た。
ハル自身も驚いたような顔をして、自分の手を見つめていた。
「な、何するんだよ!いきなり!」
「も、申し訳ございません…あの…」
手で頬をかばいながら恭一が怒鳴ると、ハルはがくがくと震えながら話し始めた。
「あの…お顔に…毛虫がついていらしたので…つい…」
「え…」
そう言われて恭一がふと地面を見ると、ハルの張り手で潰れかかった毛虫が、くねくねともがき苦しんでいた。
ハルは、助けるためとはいえ若旦那を殴ってしまったことを後悔しているのか、震えが止まらないようであった。
恭一はハルの肩にぽんと手を置いて、こう言った。
「そんなにおびえなくていいよ、ありがとな」
「…」
「木に登った時、上から落ちてくっついたんだろう、こんな季節なのに毛虫なんているんだな。気持ち悪いからあっちへ行こう!」
「…はい」
恭一は笑って、また駆けだした。
ハルも慌てて、彼について行った。




