一話
「勝手を申しましてに失礼とは存じますが、もし谷崎高等学校へいらっしゃるのでしたら、ご一緒にとお願いさせて頂くわけには参りませんでしょうか」
これが、俺と勾玉鏡子さんとの最初の出会いであり、その勾玉さんの口にした最初の一言であった。
この長ったらしく馬鹿丁寧な口調に、俺は思わず、「……はい?」と間の抜けた声を出してしまった。
「申し遅れました。わたくし、姓は勾玉、名は鏡子と申します。先日この街に引越ししたばかりであり、本日が谷崎高等学校への初登校日と相成ります。学年は二年生でございます」と、透き通るような声で自己紹介をした。
俺は一年生なので、この人は一応先輩に当たるのだな、と了解した。この勾玉さんと名乗る女子高生は、俺の学校の制服を身に着けていた。腰のあたりまで伸びるさらりとした長い黒髪で、身長は俺よりやや低い程度であるが、女子としてはまあまあの高さである。肌は色白で、端正な顔つきをしている。ただ表情がどうも暗く、目線もどこか浮ついており、まるで俺と目を合わせることを避けているようにも見えることと、胸のあたりが寂しいことが残念なところである。
確かに俺は、この女子高生の言うとおり、谷崎高校の生徒である。時刻は午前8時前後。天気は驚くほど爽やかな快晴。俺はちょうど高校の最寄り駅から高校へ向かって歩いているところである。
「あの……すみません、突然そんな事を言われて、正直戸惑っているのですが……ええと……つまり、初めて学校に行く日なので、途中で道に迷ったら困るので付き添って欲しい、という事ですか?」
「はい」
「そうですか。わかりました。なら、付いて来て下さい。ちなみに俺は風間健二と言いまして、学年は一年です。ですので、敬語なんて使わなくてもいいですよ」と、俺はこの女子高生の申し出を受け容れた。
「はい。ありがとうございます」この女子高生は深々と頭を下げた。
こうして俺は、この勾玉さんと名乗る女子と一緒に学校まで歩くことになった。ちなみに駅から学校までは徒歩十五分ほどの距離である。
それにしても、なんという幸運だろう。これほど長い黒髪の似合う端正な顔つきの美しい女子高生に声を掛けられるどころか、さらに学校までご一緒にできるだなんて。たかが移動時間に換算して十五分程度ではあるが、こんな綺麗な女子高生と同伴できることに、俺はある種の優越感を覚えていた。
これで、やれ女だ女だ、出会いが無い出会いが無いだと飢えて騒いでいる冴えない男子連中から一歩リードしたな、俺はそう確信した。昨日までの俺はその冴えない男子連中の一人であったが、今日の俺は違う。そんな連中と一緒にしないでもらいたいな、と慢心の意で頭が一杯となった。
しかし、ここで妙なことに気付いた。この勾玉さんという女子、俺と一緒に学校まで歩きたいと自分で言っておきながら、俺から二メートルは後ろに離れたところから、まるで後を付けるかのように付いてくるではないか。妙に思ったので、俺は立ち止まった。すると勾玉さんも同時に立ち止まった。俺は勾玉さんのいる方向へ二、三歩前進した。すると、俺の動きに合わせるように、勾玉さんは後ろに二、三歩後退した。どういう事だ。これはまるで俺を避けているようしか思えない。
もう一つ妙なことに気付いた。この勾玉さんという女子は、これほどまで天気が快晴にも関わらず、傘を持参している。テレビの気象情報士の意見に耳を傾けるまでもなく、本日の降水確率はゼロパーセントで間違いなしであろうというのに。
そしてさらに妙なことに、彼女の腕や足には、無数の包帯が巻かれていたり絆創膏が貼られていたりしていた。何だろう。このお方、妙なところを探そうと思えば、まるで金山でも掘り当てたかのようにザクザクと見つかる。
しかし、傘や包帯のことも気になったのは確かだが、まず気になったのは、何故この人は、まるで俺のことを避けるかのように俺と距離を取ろうとするのかである。
「どうしたんです? 何故そんなに俺と距離を取ろうとするんですか? 別に俺、悪い感染病なんて持っていませんよ」
すると勾玉さんは慌てて手を振った。そして、「申し訳ありません。感染病だなんて、滅相もありません。あなたに不快な思いをさせたのなら、この通りお詫び申し上げます」と深く頭を下げた。
「いや、感染病がどうとか、そういう話ではなくてですね。何故そんなに俺と距離をとりたがるんですかって事を聞きたいんですよ。こんなに離れていたのなら、そのうちはぐれてしまい、あなたの心配どおり迷子になってしまいますよ」と、やや苛立った口調で喋ってしまった。というのも、さっきまで俺はこの女子高生から同伴登校を求められたことによる優越感というか勝利感というか、そんなようなものを抱いていたが、露骨に距離を取られたことによって、その優越感は憤慨へと変化したからである。
そして事態は、さらに訳の分からない方向へと進展する。
「わたくしは、決して貴方にご迷惑をお掛けしたくはないのです。わたくしにあまり近づくと危険でございます。ですから、こうして距離を取らせて頂いております。はぐれてしまうのではないかと、わたくしのことをご心配なさって下さるのであれば、そのお心遣いには感謝の言葉もありません。しかし、ご心配はご無用です。この程度の距離であれば、道に迷うこともはぐれることもありませんでしょう」
俺にはこの勾玉さんの発言の意図がまるで理解できなかった。
俺は再び、少なからぬ苛立ちを覚えた。「そんなに俺に近づくのが嫌なら、家族の誰かに一緒に付いてきてもらえばよかったんじゃないですか」
勾玉さんの返事は、俺にとっては予想外のものであった。
「いいえ、わたくしには家族はおりません。私が物心をつく前に、事故で亡くしてしまったのでございます」
しまった、まずい事を聞いてしまったな、と俺は後悔した。この勾玉さんの重い発言によって、気まずい雰囲気が漂った。俺はこの嫌な空気を振り払いたいと思い、無理矢理ではあるが話題を変えることにした。
「勾玉さん、と言いましたよね? 何故、そんなに丁寧な喋り方をするんですか? さっきも言いましたとおり、俺は高校一年です。つまり、あなたの後輩に当たります。ですので敬語を使う必要はまったくありませんよ」
「怖いのです」勾玉さんは体を縮ませ、神妙な表情を示した。「人に嫌われるのが怖いのです。わたくしは生まれつき臆病な人間です。そのため、どうしても、誰に対してもこのように謙った喋りをしてしまうのです。お気に障りましたでしょうか?」
俺は心の中で、そんな変な喋り方をしていては、ますます周りから変な人だと思われはしませんかね、と思った。
「人から嫌われたくないって気持ちは分からなくもないですけど、まあ、転校したばっかりで知り合いも誰もいないというのはさぞかし不安でしょう。何にしても、早く友達ができるといいですね」
「いいえ」勾玉さんは答える「わたくしには友達がおりません」
「いやいや、それは転校したばかりだから当たり前でしょう」
「いいえ、そのような意味ではございません」勾玉さんは、さっきまででさえ暗い表情をしていたのに、さらに表情に影を落とした。「わたくしには、この世に生を受けてからずっと、友達と呼べるような人がいないのです。前の学校でも、その前の学校でも……」
俺は、再びまずい事を聞いてしまったのか、と頭を悩ませた。この勾玉さんの痛い発言に対し、どのように返答するべきなのか判断に困った。そこで再び、ささ、行きましょう、あんまり長話をしていると遅刻してしまいます、と強引に話題を変えて、学校へと足を進めることにした。
それにしても、この勾玉さんの発言が本当である、つまり物心の付く前に家族を失い、おまけに生まれてこのかた友達ができたことがないというのなら、どれだけ寂しい人生を送ってきたのだろうか。これだけ寂しい人生を送ってきたことが原因で、せっかくの綺麗な長い黒髪のよく似合う可憐な少女にも関わらず、どこか妙なところがある女子となってしまったのか、それとも妙なところがあるから、友達ができないのか。卵が先か、鳥が先か、という不毛な問いを俺は頭に巡らせた。
このような事を考えながら俺と勾玉さんは学校に向かっていたその時、さらに妙な出来事が訪れた。
突然、空が濃い灰色の雨雲に覆われた。と思った矢先、激しい大雨が降り注いだ。え、何で? と俺は混乱した。さっきまでの快晴が、唐突に大雨へと変貌したという事実を、俺はなかなか受け容れることができなかった。周りに歩いている他の学生たちも大慌てである。それもそのはず。こんな見事な快晴の日に、傘を用意している人などほとんどいない。
そこへ勾玉さんは俺のもとに近づき、自分の手にしていた傘を俺に差し出した。
「これを使ってもいい、という事ですか?」
「はい」
「しかし、これではあなたが雨に濡れてしまうではないですか。何なら、一緒に傘に入っていきますか」
「いいえ、そのようなご心配はなさらなくても構いません」
勾玉さんはそう口にすると、鞄の中から折り畳み傘を取り出し、それを差した。この行為には、あなたの一緒の傘には入りたくたくありませんの、という暗黙の主張のようなものを感じ、俺はさらに不機嫌を募らせた。
しかし、さっきまであれほど鮮やかな快晴だったのに突然大雨が降り注ぐのも妙な事だが、勾玉さんが傘を、それも二本も(いや、鞄の中にさらにこれ以上の傘を持っているという可能性もある)用意していたのも、これまた妙な話である。
俺は率直な質問をぶつけてみた。
「勾玉さんって、ひょっとして、どんな天気だろうと傘を持ち歩くタイプの人なんですか?」
「はい、その通りでございます。テレビジョンの気象情報士がどのような予測を下そうとも、雨が降るかもしれないという不安は消えません。ですから、このように傘をいつでも持参しているのでございます」
不安が消えない? だから傘を持参している? 不安だから傘を持っているという話なら分からなくもないが、この発言にもどこか妙なニュアンスを感じる。さっきから、勾玉さんの言動や行為の意図するところが今一つ理解できない。
勾玉さんは「そして、おそらく……」と何かを口にしようとしたその時、勾玉さんは自分の差していた傘を横に向けた。大雨が激しく降り注いでいる中でそのような事をしたおかげで、当然ながら勾玉さんは空から降る雨を激しく浴びた。
「何をしているんですか、濡れてしまいますよ」と俺は注意した。
すると、そこにトラックが勢いよくこちらに向かって走ってきた。気が付くと、道路にはいつの間にか大きな水たまりができていた。トラックはその水たまりを横断する。すると水が跳ねる。俺はその跳ねた水を正面から浴びてしまった。一方、勾玉さんは傘を横に向けて防御していたため、水を浴びずに済んだ。ここまでわずか数秒の出来事である。
俺はずぶ濡れになりながらも、いぶかしげに勾玉さんに尋ねた。
「勾玉さん、あなた予知能力でもあるんですか? 何ですか今の、まるでトラックが水を跳ねるのがはじめから分かっていたかのような行動は?」
「いいえ、これは決して予知能力ではありません」と答える勾玉さんの表情はつとめて真剣であった。
「いや、本当に予知能力だったら困るんですけどね」と言いつつ、冗談半分で「予知能力」だなんて単語を使ったことに対し、俺は恥ずかしくなった。何だよ、予知能力だなんて。そんなオカルトめいた概念を口に出した自分を責めたくなった。
そして災難はさらに続いた。
突如、さしていた傘が吹き飛ばされるのではないかという位の強風が襲った。事実、俺の使っていた傘は、その強風によって裏表がひっくり返ってしまい、もはや使い物にはならなくなった。
そして、その強風によって、『交通ルールを守りましょう』と書かれた小さな立て看板が飛来してきた。その立て看板は、勾玉さん目掛けて襲ってきた。
俺はずぶ濡れのなか、危ない! と叫びながら、勾玉さんの体を突き倒した。勾玉さんの華奢な体は突き飛ばされ、立て看板と衝突することは回避された。しかしその代わり、地面の水たまり目掛けて突き飛ばしてしまったため、勾玉さんの体もまたずぶ濡れになってしまった。
一方、勾玉さんを突き飛ばした俺はどうなったのかというと、案の定、飛んでくる立て看板にぶつかり背中を強打した。
俺は地面に倒れて悶絶した。雨でずぶ濡れの上に、強風で飛ばされた立て看板と衝突してしまうだなんて、畜生、なんて不幸な日だ。
そこへ勾玉さんが、再び俺に深々と頭を下げた。
「申し訳ございません、わたくしのせいでこんな事に」
「いや、なあに、あなたさえ無事なら」などと思い出すだけで体が痒くなる程の男らしい台詞を口にしてしまった。なんて恥ずかしい台詞なのだと、自己嫌悪に陥りそうになった。しかし、今は雨でずぶ濡れの上に背中に激痛が走っているというヘビーな状況だ。そんな事を気にしていられる場合ではない。
「いいえ、これらの出来事は、すべてわたくしが悪いのです」勾玉さんは再度頭を下げる。
その発言に、俺は、ん、と疑問を感じた。てっきり俺は、飛んでくる立て看板から勾玉さんを守って、代わりに自分が立て看板と激突したので、「わたくしのせいでこんな事に」という謝罪の言葉を口にしたのかと思った。ところが、どうもそういう事を言いたいのではなさそうである。勾玉さんは「これらの出来事は、すべてわたくしが悪い」と言っている。立て看板についてはともかく、突然の大雨やトラックが水を跳ねたことについては、勾玉さんのせいでも何でもない。ただの自然現象、あるいは事故だ。それにも関わらず、勾玉さんはそれらの出来事についてもすべて自分に責任があると述べているようにも聞こえる。
ここで、先の疑問が再び甦る。勾玉さんは、雨が降ることやトラックが水を跳ねることを、まるであらかじめ知っていたかのような行動をとっていた。どういう事だ? それに加え、立て看板が吹き飛んでくることについては、どうも予知能力(本当にそんなものがあるのかはともかく)のようなものでも予測できなかったようである。あるいは予知能力ではないとするなら、この女子高生には、実は未来からやって来たためこの一日に起きる出来事はすべて知り尽くしているという、言わば「時をかける少女」とでも呼ぶべきような設定でもあるのだろうか。まあこれも、予知能力と負けず劣らずの馬鹿馬鹿しい仮説ではある。
いずれにしても、訳が分からないことが多すぎる。俺の脳の処理能力を超えるほどの理解不能な出来事が次々と起きている。
この謎多き先輩に言いたいこと、尋ねたいことは数多くあるが、まずは次のように尋ねてみた。
「さっき『わたくしのせいでこんな事に』とか『これらの出来事は、すべてわたくしが悪い』とか言いましたよね、それって、どういう意味ですか?」
「そ、それは……一体どう説明すればいいのやら……」と、勾玉さんは眉毛を八の字に歪め、目元を震わせ、言葉を詰まらせた。やはり、何か事情があるように思える。
雨風はいまだ強く降り注いでいる。ずぶ濡れになりながら背中を強打した上に、このさっぱり意図の掴めない勾玉さんの言動によって、当初感じていたこの美しき女子高生との同伴登校というウキウキ感は俺の頭から完全に姿を消していた。そして感情を抑えることができなくなった。
「はっきり説明してください! さっきから一体何なのですか? 予知能力だか何だか知りませんけど、あなたは俺に何かを隠していませんか? この理不尽な出来事について?」
勾玉さんは俺が突き飛ばしたおかげで地面に倒れてずぶ濡れである。制服が濡れたおかげで、下着のラインが丸見えなのだが、残念なことに胸のあたりの突起は寂しい。
いや、こんな事を考えている場合ではない。そもそも、ずぶ濡れなのは俺も同じことである。余計な同情など必要ない。
勾玉さんは俺の質問に対し、ひどく頭を悩ませているような表情をしている。
「え、ええと……順を追って説明させて頂きますと、わたくしは幼い頃からひどく臆病な性格で……」
俺はこの要領を得ない勾玉さんの返答に対し、苛立ちとじれったさを感じ、思わず乱暴な声を上げた。
「それはさっき聞いた! いや、そんなことを聞いているんじゃありません! この大雨やトラックや立て看板は一体何なんですかと聞いているんですよ!」
「で、ですが、このことを了承して頂かなければ、この一連の現象ついて説明することはできないのでございます」
「『このこと』ってのは、何なのですか? あなたが小さい頃から臆病だったって事ですか? 意味がさっぱり分かりませんよ! あなたの性格と、この大雨と、一体何の関係があるというのですか? 分かるように説明してください!」
勾玉さんは俺の詰問に対し、う、あの、その……と言葉を濁す。
そして、「も、申し訳ございません……」と再度深々と頭を下げて、傘も差さずに学校の方向に走り去ってしまった。
こうして、勾玉さんは姿を消した。
俺は取り残されたまま、ただただ呆然とした。解明されぬ謎だけが俺の頭に放置された。ひょっとして謎なんてどこにも無く、ただの偶然の積み重ねなのだろうか? いや、あの妙な先輩は、俺に何かを隠しているような素振りにも見えた。結果的には俺があまり強く責めたおかげで逃げられてしまったのではあるが。
俺はあの先輩が一人で無事に学校にたどり着けるか心配になったが、よくよく考えれば、あの高校に向かって歩いているのは俺一人ではない。同じ制服の人間を見つけて、その人の後をこっそり付けていけば、おのずと学校にはたどり着けるはずだ。
……ということは、あの先輩に道案内をしてあげようとした俺の立場って一体何なんだ。無理に俺が道案内の役に買って出なくてもよかったという事ではないか。結果的に俺は、ずぶ濡れになった上に立て看板と衝突したという不幸を味わった上に、最後はひとりぼっち。なんて不幸な一日の始まりだろう。あの謎の先輩と出会ってしまった事が、そもそもの不幸の始まりだったという事だろうか?
勾玉さんの姿は見えなくなったが、雨は未だ激しく降り続けている。俺はあの奇妙な先輩が立ち去ったことに対する複雑な感情と、俺を襲ったこれら理不尽としか思えない一連の不幸に対する不満とで、何だかよく分からない、ある種の混乱にも近い心理状態になった。
いや、深く考えるな。今は学校へ向かおう。勾玉さんから借りた傘は既に使い物にならなくなっていた。俺はこの大雨の中、全速力で学校へ駆け出した。