移り言葉
「お前誰だ、俺はなんでこんな場所にいる。誰か、母さん。母さんを呼んでくれ」
少しずつ、ほつれ始めた記憶の糸を二度と同じ様には編み戻せない。
「あなた、私のことを忘れてしまったの。一緒に頑張ってきたでしょう、もうすぐ子供の生まれるのに」
子供ができたとわかって数日後、夫は少しづつ記憶を失いつつある。最初は些細な忘れ物で済んでいたのに、いつしか仕事の内容を忘れ、車の乗り方を忘れ、道を忘れ、今や私の顔すら忘れてしまった。
「奥さんの事忘れちまったんじゃ、俺のことも覚えちゃいないか」
「ほら、今日は会社の仲谷さんも来てくださったんですよ。あなた、覚えているでしょう」
夫は二人の顔を見比べ、「仲谷、仲谷か。誰だったかな、あんた俺の友達かい」とぼんやりとした顔で答えた。
「そうだよ、友達だ。何年も一緒に仕事しただろう、思い出せ」
仲谷さんは夫の手を握り、必死に話しかけるけれど、夫は興味を失ったのか、空を舞う鳥に目を向け始めてしまった。
「だめか、すみませんね。どうも今回も役たたずだ」
「そんな、構いません。夫も内心喜んでくれているはずですから」
数ヶ月が過ぎ、子供が生まれると、夫の病状は更に酷くなってしまった。今では言葉もろくに話せない。私の子はこれから少しずつ言葉を覚えてゆくのに、夫は逆に言葉を忘れてゆくのだ。
「どうだい、旦那の調子は」
「もう、駄目かもしれない」
「逆に良かったじゃないか、これで面倒が起こることもない」
「でも、本当に良いのかな、これで」
「わかりゃしない、こいつはもう俺が何を言っているかも理解できないんだ。この子だって賢そうで俺似だろう」
「この子、あなたの子供だものね」
私はずっとこの人と浮気をしていた。仕事に真面目すぎた夫、徹夜続きであまり相手もしてもらえず寂しかった。誘われて、つい踏み出してしまった泥沼に浸かりきり、抜け出せなくなってしまっていた。
「仕事も家族も俺が引き継いでやるから安心してくれ」
仲谷さんがそう言うと、「騙していたんだな」と夫の声がした。
顔から血の気が失せた、彼を見ると同様に青い顔をして夫を見ている。けれど何もない空を見ているだけだ。
「騙していたんだな」
再び声が部屋に響く、二人の視線は赤ちゃんに注がれた。
以来あの子は絶対に許さない、呪ってやる、苦しめなどの単語を教えても居ないのに少しずつ覚えていった、夫とは逆に。
仲谷は私を置いて会社からも姿を消してしまった。私はいつかこの子を絞め殺してしまいそうで、その日の訪れを恐れている。




