影月の巨人
鈍色の月が水面を泳いでいた。揺れ、波打つ水に浮かんだ紋がまるで生き物のように月を動かしている。空には煌々と光を湛える、黄月が見下ろしていた。
作治はただ、水田に映る月を前に呆然と立ち尽くしている。父が逝去してから、独り畦守を続けていた。晴れた満月の夜に限り、水田に水を足し入れてはならず、夜を通して村の水田を見守る、それが作治に求められた村のしきたりだった。
風が唸り、鈍色の上に逆巻くと水が巻き上げられ、白糸の流れが重なり合い、やがて巨大な円柱に変わると、頂きに灰の月を据えて立ち登る。僅かの間に側面が割れ、二本の腕が突き出ると、辺に水滴が散った。
作治は目の前で四肢を備えた黒水の巨人を見上げていた。飛沫をあげ、巨体を揺すらせ、水田を跨ぐ巨人は、稲苗には影響を与えず、例年であれば泥に足跡だけを残してやがて沈み去る。
しるしの残された水田は豊作が約束されていた。作治はその巨人を信仰しない、豊穣をもたらすものが神ではないと考えていた。
巨人の放つ水滴が全て、人間の顔に変わるのを目の当たりにし、その中に苦悶の表情を浮かべる父が含まれている事を知ってしまったからだ。いずれ、自分もあの巨人の一部になる、作治にはその結末が恐ろしくて堪らない。飢えを知らない作治には、生き抜くためだと割り切れなかった。
禁忌を破った作治の前で巨人は戦慄くと、屈んで弾け、苗は枯れ果てた。それきり鈍色の月は二度と水面に戻りはしなかった。大凶作が訪れ、作治は抗いきれない飢えを知る。村を放逐され、数年もすれば苦悶の表情が顔に張りついたまま外せなくなり、やがて泥の中に墜ちた。
川底の泥の中に灰色の月が覗いている、晒した骨の頭頂部ばかりが黄月に照らし出されていた。
以前、あるコンテストに出品した作品です。悲しいかな実力不足で掠りもせず。戒めとして残しておきます。