さかなのうた
リノリウムの上を青い光がたゆたっている。
私は強化ガラスの向こうで優雅に踊る魚達の前でブラシを手に掃除していた。
閉館後の水族館は表の街とは別世界のように静かだった。
夢中になっていると、建物の角から人影が現れた。そのシルエットから館長だとわかる。静かに私に近づいて「魚の歌を聞いたことがあるか」と聞いた。
私は当然ありませんと答える。魚の歌ってなんだろう、魚の種別を詩にした歌? それとも以前流行った魚食を促す歌かな?
「それってどんな歌ですか?」
「一人でいると聞こえる事があるんだよ。狭いガラスのケースの中で、魚達が歌うのだ。けれどもこれは、本当に魚の事が好きな人物にしか聞こえない、例えば、一生海の中でも生きて行けるような、魚の生まれ変わりのような人間でないと」
顎をさすり、神妙な面持ちで館長は一人頷いている。
そんな事ってあるだろうか、魚は元々歌えない。泳ぎの喩えならわからなくもないけれど。
けれども、なんだか曖昧な表現だけれど、私がそう評価されたことは嬉しかった。幼い頃から海とずっと一緒だった。
潮風と波の音、地平線に見える空と海との境界、塩水に浮かんで空を眺めるのが好きだった。
「海の広さを思い出して悲しんでいるのかもしれない。魚にだってストレスがあるのは君も知っているでしょう、環境が変わればすぐに死んでしまう気の弱い魚もいる。眠りは癒しだ、けれども彼らは完全には眠らない。泳ぎながらの半休睡眠、完全には眠れない。だから、歌うのだろう。時間が経てば君にもわかるようになる」
それきり館長は黙り込んで、こちらから話しかけても反応もせずに水槽を眺めつづけた。自分の世界に入ってしまったのかも、きっとそうだろう。
それから何日か過ぎた頃、水槽前で掃除中、私は立ち眩みを起こした。
すると歌が聞こえた、砂嵐の音のようで、せせらぎのようでもあって、例えがとても難しく、どんな風にも表現できない気がして。
驚きながら、耳を傾けていると、四メートル近くも高さのある水槽の前で、魚達の姿が交差し、何重にもなって、体の鱗色が光の反射で目まぐるしく変わりはじめた。
強化ガラスが熱に煽られた飴のようにたわんで空気の中に消えていく、塩水が、中の魚達が溢れるように飛び出した。
壁もライトも何もかも、暗く深い青に飲み込まれていった。
何の音もない静かな海。魚達の影だけが波の中でうねっていた。
不思議な暖かさと冷たさが交互に体を包み込み、青の波長が私の体を浸透する。
ゆっくりと溶けてゆくような感覚。
とても気持ちが良くて私は目を閉じてしまう。
同僚に揺すらされて、微睡みかから覚めると私は同じ場所に立っていた。水槽の中の魚達は何事もなかったかのように気持ちよさそうに泳いでいた。
「君、大丈夫? 今、立って目を開いたまま寝てたよ」
同僚にそんな事を言われて少し恥ずかしくなった。ありがとうとお礼を言うと、潮の香りに誘われたのだと教えてくれた。
そんな私を見て、奥から計ったように姿を見せた館長が、片目を閉じて合図した。