頚木鎖を引く男
男は鎖を引いていた。
先端を両手で掴み背中に乗せて、丁度背丈の二倍程の長さの、太く大きな輪の鎖。
歩く度に金属音が騒ぎ立て、男の確かな歩を知らせる。
筋肉質でタイヤのような手足が、汗で所々鈍い光を放っている。
伸びきった髭、汚れがかさぶたのように体中に張りついていて、上体が揺れる度、ぼろぼろと道上に落ていた。
かつて身に付けていた服も、体に同化して、どこからが男の肉なのか、それとも汚れの集りなのかが分からない。
もう何日、そうして鎖を引いて歩き続けているのか、男以外に誰にもわからなかった。
行き合いで、すれ違うものは皆、男を狂人だと思った。
それも仕方がない。獣のような臭いを発し、そのものが不浄だと思わせてしまう強烈な印象を、誰が無視できるだろう。
男は嫌われていた、しかし行きずりの旅、同じ道を戻る事はない。
いつしか男は人の気を引いていた、全てを捨て、無心でただ、足を進め鎖を引き続ける、男に何があったのか。
しかし、誰が声をかけても反応もせず、悪戯に攻撃されても意に返さない。やがて男の存在は広く知られ、聖人と崇めるものすら現れていた。
奇跡の行者、神の使徒。奇跡は既に起きていた。男は既に飲まず食わずでもう数ヶ月はそうしていたからだ。
擦り切れた靴の底が抜け、足が擦り切れ血が流れても、男は歩を止めはしない。ある人が彼はもう死んでいる、そこにあるのは抜け殻なのだと言った。
無造作に伸びた髪が抜け、肉がこそげ落ちても、持った鎖は離さない。ある人が彼を人ではない、神の使いなのだと言った。
見えているのかわからない、弱々しい目のかがやきが骸骨のような男の唯一の意思を湛えている。ある人が彼は人の業を代わりに背負っているのだと言った。
鎖が錆びて外れ、輪が減って、音が無くなる。ある人が彼は凶兆を知らしめるために歩んでいるのだと言った。
肩の摩擦ですり減った金属の疲労痕が、ついに限界を迎え、鎖がちぎれる。すると男は歩を止めた。取り巻く人々がざわめいて、男の挙動を見逃すまいと息をのむ。
男は、静かに唇を動かす。やっとお前達から解放されたと声無き声で伝えると、鎖と共に地に伏せて、それきりもう二度と動かなかった。