生踏切
暑い夏の日、人の波に押されて踏切の横に立つ蚊柱に体ごと突っ込まされ、私は躓きながら線路の上を駆け抜けた。
歪んで見える店並び、ひさしの下で一息つくと、僅かな寒気が背筋を伝い、暗く、薄いフィルムが射にかかる。
軽いめまいで視界が揺れた。
足が、がくがくと震えた。
体一つで乗り越えてきた数々のできごとも、今では一人で乗り越えられる気がしない。
私は自分が思う以上に彼に寄りかかっていたんだ、彼の存在に本当に頼りきりだったんだと、失ってからはじめて気がついた。
これまでに失恋も何度か経験し、恋愛を楽しんできたつもりだった。
けれど、今回ばかりは本気で、彼と結婚をして一生寄り添って生きて行けると思っていたのに。
全ては夢でしかなかったのか、人並みの幸せに届くはずだったのに。
何故、一体私の何が悪い、どこで間違ってしまったんだろう、何もかもが恨めしくて私は全てを呪った。
自分も、他人も、世界も、全て。
数日泣き続け、こうしていても何も変わらないのだと解っていながら現実に目を背け、数ヶ月間は泥人形に変わるまで、自身で課した厳しい現実の中に溺れた。
睡眠すら惜しみ働く毎日。忙しい日常の中で考えることを止め、仕事に流されることで辛さを押し流そうと、これまでの経験と同じようにそれでいずれはこの傷も癒えてゆくのだろうと、そう考えていた。
でも、傷は深くなるばかりで癒えはしなかった。
むしろ時が経つにつれ、あの日から遠ざかるほどに痛みは増し、きりきりと私の心を締め付け、苛んだ。
そうだ、私には全てをなげうっても殺したい相手がいた。
彼を追いやった犯人、心を病ませ、自殺へと向かわせたその男だけは何があっても許せない。
私は誓った、犯人に直接裁きを下す事を。
彼が死んだその時に、私の全ても死んだのだ。
時間は私にはもう拷問でしかない、この苦痛を少しでも早く犯人に、あの男に味あわせなければ、何もかもが報われないままだ。
私は人ごみに紛れ、駅に佇むあの男を後ろから押した。
あっけない最後だ、命が途切れるその瞬間まで、あの男は自分に何が起きたのかわからない、そんな顔をしていた。
騒然となる人の合間を抜けて足早に駅からさると、空を見上げた。
不思議と心は晴れないままだ。
踏切の遮断機が降り、警報機のサイレンが鳴る。
私は全てをこの瞬間に終わらせるつもりだ。
これまでに成し得たことを、後悔したりはしない。
だからこそ、犯人が犯した過ち、その償いと同列の裁きを、私自身も受けなければならない。
時間が迫る、電車の姿が見え始めた。
震える右手を支えながら私は、線路に向けての一歩を踏み出した。
俯いていた顔を線路に向ける、と、踏切の線路の上で、彼が笑っていた。
私は静かに遮断機を超えると、あの頃の、生前のありのままの笑顔を浮かべた彼の胸の中に飛び込んだ。
はっとして自分を取り戻す、未だ夏の太陽が青空の頂点に眩しく居座っていた。
そうだ、私に恋人などいない、私は額の汗を拭うと踏切に目をやった。
蚊柱の代わりに、海草のようにゆらゆらと、人型の影が揺らいでいた。