07.黄の方に薔薇の香りはあらねども
ユーグにとって、異世界から来たというその女はとにかく変な女だった。
見合いの席で、ユーグが吹雪のような雰囲気で威圧しても少しもゆるがず、むしろ楽しそうに受け流す。睨みつけても、目をそらしもしない。普通の女ならば、一度睨まれれば決して目線も合わせようとはせずに震えているというのに。
その飄々とした態度から、自分に恋情を抱いていないとは、すぐにユーグも感じ取った。
加えて、異世界人であるという出自。つまりは後でしゃしゃり出てくる親類縁者が存在しない、という重要事項。
もしどうしても付き合うフリをする女を、見合いした中から選ばなくてはいけなくなったら、この女に協力を仰いではどうだろうか。
ユーグはそう考えたのである。
だがそれを口にしようとした瞬間、その女が予想もつかないことを言い放ったのだ。
「でも私、たぶん、今はあなたのことが好きですよ」
この言葉で、ユーグは目の前にいる女がいっきにわからなくなった。
『あなたをお慕いしております、ユーグ様』といった趣旨のセリフなら腐るほど聞いてきた。それは色めいた眼差しと、ユーグの容姿やら地位やらに対する欲、淑やかなふりでごまかした媚、などというものがふんだんに含まれていて、吐き気をもよおすものだったというのに。
この女の言葉には、ねばつくものが少しもなかった。
子供のような無邪気さ、とも少し違う。強いて言うならば、雪解けの後に草木が芽吹くように自然な、ごく自然な口調。そのあまりの気負いのなさに、ユーグはどうしていいかわからない。
(……わけがわからない。本当に)
呆然としながらそう思うと、陽だまりの中で女が微笑んだ。
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たどりついた広場はユーグも知っている場所であった。木立に囲まれて人目につきにくいわりに、陽だまりはぬくく、昼寝に絶好の場所なのだ。芝生とベンチの他には、ごく小さな東屋しかない簡素な庭である。
中央にある東屋は、八つある柱に誘引された蔓が屋根までからみついている。その蔓は、春には東屋を覆い隠すほどに大量の淡い黄色の花をつけることまで知っていた。
ただ、その花が薔薇であるとは知らなかっただけで。
「やー、本当に綺麗な薔薇ですよね」
「……これは薔薇なのか? 棘がないぞ」
「これも薔薇ですよ。……おや、母君からお聞きしていたのでは?」
いたずら気に言う女に、ユーグは憮然とするしかない。
ユーグの見栄にそれ以上は突っ込まず、彼女はしなだれる蔓に房飾りのように群れて咲く薔薇を愛おしげになでた。バタークリームみたいにあまやかな黄味の花は八重咲きで、しっとりとやわらかである。花のひとつひとつは小さく、それらが固まっていることで玉房のように見えるのだ。
「棘がなくて扱いやすく、病気にも害虫にも強いんですよ。初夏の薔薇の時期にさきがけて、こんなに可愛い姿を見せてくれる、私の大好きな薔薇です。モッコウバラ……いえ、ロサ・バンクシア・ルテアと言います」
薔薇の名を、ユーグには聞き覚えのない音でつぶやいた後に、女は慌てて言い直した。
「東方との貿易でもたらされた薔薇のひとつです。黄色い蔓薔薇はこの大陸にはなかったものですから」
「東のサロニカ帝国より遥か遠方の、ファンロン大陸から輸入された植物だったのか。東方との貿易が盛んになったのは、陛下が即位されサロニカとの関係が好転してからだからな……まだ15年に満たないはずだが」
言外に、この蔓薔薇がこれほど大きくなっているのはなぜだ、とにじませる。
確かに東屋を覆い隠さんばかりの花の滝は、それほどの勢いがあった。
「ロサ・バンクシア・ルテアは成長の早い薔薇なんですよ。八年もあれば立派な若木と同じくらいの幹になります。ほら、柱の脇から生えた幹の太いこと。ここまで大きなものは王立薔薇園にも数本しかありません。ずいぶんと早くに、この薔薇を入手して植えられたんでしょうね」
「そのわりには、母上はこの薔薇にこだわらなかったようだな。ここ以外には植えられていない。……棘も香りもなければ、やはり薔薇とは思えなかったのだろう」
ユーグの言うとおり、この薔薇には香りがなかった。これほど大量に花が咲いているというに、辺りにただようのは爽やかな青葉の匂いのみである。
ふつう薔薇と言えば、その甘く芳しい香も魅力のひとつだ。いくら花つきが見事で見ごたえがあるしても、薔薇としての魅力を備えていない花に母はそれほど熱をあげなかったのだろうと、ユーグは推測した。同時に、目の前の蔓薔薇の群れは可憐で心落ち着く色合いをしているとも思ったが。
「ああ、確かに。……でも、黄色い八重には香りがありませんが、白いものには香りがあるんですよ」
「そうなのか? ここには植えられていないが」
「ええ。ロサ・バンクシア・アルバという名がつけられていまして、開花時期は黄色よりも少し遅いんですけどね。王立薔薇園ではちらほら咲き始めています。……あ、そういえば」
女が後頭部へ手をやるのを見て、ユーグはぎょっとした。髪に飾られている花を取ろうとする仕草に見えたのだ。シェーヌ王国では人前で装飾品を外すのは下品とされている。なぜなら、それは娼婦の振舞いであるからだ。
(とぼけた振りをして男を誘う類の女なのか? ……いや、単に髪を直そうとしているのかもしれん……)
落ちつこうとはしてみても、一度跳ねた心臓はそれを許してくれない。ユーグは思わずまじまじと女を見てしまう。
最初に見た時から小柄だと感じていた体は、深い藍色をしたベルベットのドレスで包まれている。貴族の娘ほど豪華なドレスでは決してないが、上質さと趣味の良さは際立っている品だ。藍色の湖に白鳥が映えるように、ドレスの大部分を占める藍色と裾からのぞく白いシフォンのアンダースカートとの対比が鮮やかである。
襟元や袖口に縁取られた純白のレースは、華奢な首や細い手首を強調しており、目の前の生き物が『女』であるということをユーグに強く意識させた。あまつさえ今は右腕を上げて、髪に手をやっているのだ。ふんわりとした胸のふくらみに目が行ってしまう姿勢であることは否めない。
ユーグはそちらに行きそうになる目線を戻して、女の顔を見た。王都でもたまにしか見かけない異国情緒を備えた彫りの浅い顔立ちは、サロニカ帝国に住む少数民族に似ていた。違う点といえば肌の色だ。その少数民族はオリーブのように浅黒い肌をしているが、この女はやや黄味を帯びたクリーム色の肌をしている。つい先ほど女が紹介した蔓薔薇の花びらを、もっと淡くしたような色合いだ。
凝った形に結い上げられた黒髪を、慎重な手つきでいじっているためか、その表情は硬い。ふせられた睫毛の奥にある黒い瞳は無垢にすぎて、ユーグには女が何を考えているのか読み取ることはできず、混乱が深まった。
「ああ……やっと取れた。……ちぎれてないかな?」
結われた箇所に編みこまれていた白い花を、女が手にしているのを見た瞬間、ユーグの中で古い記憶の泡がはじけた。
その場所は喧騒と、脂粉と、むせかえるような女の匂いに満ちていた。
騎士になったばかりの10代のユーグが、上司にひきずられるようにして連れて来られたのは、男が一夜の夢を買う館。潔癖なユーグは真っ赤になって、すぐさま帰ろうとしたのだ。けれど、
『ねぇ、あなた。女の子みたいな顔してるわね! すっごく綺麗!』
無礼な言葉に怒って、思わず言い返してしまったのが敗因。
己のテリトリーにひょいっと侵入されてしまう、あの感覚。子猫とか子犬とか、そういう邪気のなさで懐に飛び込まれて、どうしたらいいのかわからなくて。
一度、懐にいれてしまったぬくもりが、決して自分のものにはならないと知った時の喪失感を、何で埋めればよかったのだろうか。
初めての想いと、高揚、そして行き場のないむなしさ。
渦を巻いて混濁する感情の、その全ての、始まりとなったのは、花。
白く細い指先が、可憐な花を差し出す。
花は女性の象徴。
己が身を飾る品を外す行為は、性的な意味を付加する。
娼婦が髪や胸元に飾った花を外して差し出すのは誘惑のしるしであり、客がそれを受け取れば交渉は成立したとみなされる。娼館で当たり前のように繰り返される、そのやり取り。
記憶の澱から湧き出した情景に、ユーグは目の前の白い花をなぎ払っていた。
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小さな、髪飾りにするにはあまりにも小さな白い蔓薔薇は、あまり飛びもせずに足元にぼたりと落ちた。リッカは何が起こったのかわからず、ただぼんやりとしてしまう。黄色い八重のモッコウバラは日本にいた時から彼女のお気に入りで、その美味しそうな色合いを眺めるたびに遠い幼い日を思い出す。香りがないのが残念で、白いモッコウバラにはほのかな香りがあると聞いた時、すぐさま祖母にせがんだこと。黄色と隣り合わせになるように植えて、花の時期には飽かず眺めていたこと。
足元に落ちた花が、ただ不思議で、見合い相手の顔に目を向けるのが遅くなった。
「ええと……顔色が真っ青ですが大丈夫ですか?」
もとからが白皙の美貌の白騎士の頬は、血の気が失せて、本当に具合が悪そうだった。人間、自分の疑問よりも具合の悪い人を優先するのは当然である。
「…………意味を、知らないのか?」
ユーグは目をみはっていた。その混じり気のない灰色の瞳はどこか傷ついていて、雨の中に置き去りにされた子供みたいに見えた。リッカをぼんやりと映していた目は、ついで中空で止まったままの己の右手を見、不思議そうにまばたきした。なぜこんな中途半端なところに手があるのか、心底不思議に思っているようであった。
「意味、ですか? 花の?」
リッカの返答に、ユーグの右手がびくっと震えた。
指を握っては閉じる動作を数度繰り返してから、彼はようやく低い声をもらす。
「…………そう、だったな。……お前は異世界から来た。知らぬのが当然、か。……………………悪かった」
なかば自分に言い聞かせるような言葉と共に、ユーグはきびすを返し、リッカに背を向ける。消え入るような最後の言葉だけがリッカの耳朶を打った。
彼女が、謝られたのだと理解したのは、ユーグの背が完全に見えなくなってからのことである。それは同時に、見合いが終わったのだと理解した瞬間でもあった。