26.味わえぬ晩餐会は剣呑で
前ブルシュティン公妃アグネシュカの館。王都の外れにある丘に壮麗に立ちそびえるこの屋敷は、王立薔薇園と同じく、もとは王家の離宮であった。その当時の王がブルシュティン公国から妃を迎え、外観も内装もブルシュティン風に建造されている。
公妃でなくなってからの十年、アグネシュカはこの館をたまわり、祖国にはほとんど戻らずに過ごしていた。
高く作られた天井に神話のレリーフが彫りこまれ、神々の目が食事をする人々を見下ろす晩餐の間。そこで、客人は四人のみというごく私的な宴が、表面上は和やかに進んでいた。
「琥珀は海の女神の涙と言われているのをご存じ?」
薄紅に色づいた唇をほころばせ、前ブルシュティン公妃アグネシュカはつややかに微笑んだ。ゆるやかに波打つ黒髪は背に流れて豪奢な滝を作り、濃い紫のドレスに包まれた身体を優雅にふちどっている。形の良いひたいを出すように髪を留めているのは、琥珀の盛り付けられたカチューシャ。同じく琥珀色の大きな瞳はどこか甘やかで、夢見る少女のような恍惚とした光をたたえていた。
「ブルシュティンでは琥珀は嵐の後に海底から浮かび上がってくるのですわ。あるものは浜へ打ち上げられ、または海面から網ですくわれ、そうして集められるのです。伝説では人間の男に恋した海の女神が、叶わなかった恋に心臓を締め上げられ涙をこぼし続けているとか」
「……それはまたずいぶんとひどい話ですね」
思わずつぶやいてしまってから、リッカはまずいと冷や汗をかいた。ここはロマンチックですね、と話題に合わせた反応をするべきだったと思ったのだ。
だが意外にもアグネシュカは大きくうなずいて、嬉しそうに言う。
「そう、わたくしもぞっとするようなひどい話だと思うのです。だってこんなにも美しい宝石が女の涙だなんて、それがもし真実なら気持ちが悪くてとても身に着けてなどいられないですもの」
ひどい話、の意味合いがまったく噛み合っていない。
リッカはアグネシュカの不興を買わなかったことには胸をなでおろしつつも、違和感が大きくふくらむのを抑えることができなかった。
肺が奥からじょじょにつまっていくような、そんな違和感がこの贅を凝らされた晩餐の間に入った瞬間からリッカを苛んでいる。より正確に言うならば、麗しき女主人アグネシュカの儚げな微笑を見た瞬間から。
(なんだろう……言葉の内容と表情にひどい食い違いがあるような……)
リッカの困惑をよそに、アグネシュカは邪気のない笑みを浮かべたまま話し続ける。少女めいた可憐な笑みはとても二十代後半の女性のものとは思えず、どこまでも浮世離れしている。
「たとえそれが女神のものであろうと、他人の涙など汚らわしいだけですもの。ブルシュティンが陥落した時、わたくしはまだ十七でしたが、涙を流して命乞いをする侍女たちの醜い姿がいまだに忘れられませんの。わたくしはドゥルリアダの将軍に捕らえられましたけど、彼女たちはその場で殺されてしまいましたわ」
まったく変わらぬ笑顔のまま紡ぎ出される言葉がリッカを絶句させる。あまりにも軽やかに言われたために、話の内容を理解するのに数秒が必要だった。
(……身分ゆえの傲慢さというのとも少し違う……まるでアリを踏み潰す幼児みたいな……善悪の区別をどこかに置き忘れたような……そんな物言いに聞こえる)
燭台の炎を照り返してきらめくシャンデリアのもと、広大なテーブルには鶏の蒸し肉、子ウサギのロースト、鮭のゼリー寄せ、チーズ入りのパイなど凝った料理がところせましと並んでいるが、リッカの食事の手は完全に止まってしまった。
見かねたように口を挟んできたのはユーグである。
「アグネシュカ様、失礼ですがリッカをお呼びになった理由をお聞かせ願えませんか?」
マナーの教本に載っていそうな折り目正しさでナイフとフォークを操っている銀髪の騎士は、リッカの右隣に座っている。テーブルの上座のお誕生日席には最も位の高いアグネシュカ。馬車の時と同じように、青騎士セルジュと神官ギーはリッカから見て向かい側の席だ。ちなみにギーは食事に夢中で珍しいキノコ料理ばかり口へ放り込んでおり、セルジュはこの世の何にも関心はないという素振りで淡々と食事を続けている。アグネシュカの言動に動揺しているのはリッカのみのようだ。
「リッカさんをお呼びした理由? もちろん降霊会に参加していただくためですわ。本当はぜひとも『リッカさんがこの世界に来た時に初めて出会った人物』も参加していただきたかったのですが……」
アグネシュカはそこで言葉を切り、意味ありげな視線をギーへと投げる。
視線に気づいたギーは珍味と言われている水色のキノコをフォークに刺したまま、あっけらかんと頭をかいた。
「勘違いでした、あははは!」
「ええ、夕刻に確かめさせていただきましたけれど、どうやらそのようですわね」
もうばれてたのかぁあああ! とリッカは絶叫したくなった。そうならそうと、ギーには事前に申告してもらいたかった。晩餐の間に来る前に立ち話をする時間くらいはあったというのに。
「まぁ勘違いは誰にでもあるもの。ですがリッカさん、もう一度よく思い出して、初めてお会いしたのはどんな殿方だったのか教えていただけませんこと?」
アグネシュカの琥珀色の瞳は溶かした砂糖のように甘く、口元の笑みは柔らかい。けれどリッカは背中に氷の針を突き刺されたような冷気を確かに感じ取った。鼓動が早くなって、嫌な汗がひたいから噴き出す。
口調が変わったわけではない。
まとう雰囲気が変わったわけでもない。
ただ、どうしようもなくアグネシュカという女性が『壊れている』ことを、今この時、リッカは理解させられた。この質問に虚偽で答えた瞬間、なにか恐ろしいことが待っていると直感的に悟ったのだ。
リッカはごくりと生唾を飲み込んだ。
「……分かりません。ギーさんがそうでないなら……あの場にはたくさん人がいたので……」
この世界に来た時に最初に出会ったのはたった一人で、その人のこともよく覚えている。だがリッカはあえて偽りを口にした。事実をアグネシュカに知られるということは、必然的に狙われる人物を一人増やすということだと痛感したからだ。
アグネシュカは瞬きもせずにリッカをじっと見つめてきた。
その琥珀色の瞳を見返すと、リッカの脳裏に、もといた世界の図鑑で見た虫のことが浮かんだ。樹液の甘い匂いに引き寄せられ、からめとられ、閉じ込められて琥珀の一部となってしまった大昔に生きた虫のこと。
(……吸い込まれそうというよりも、ひきずり込まれそうな目の色……)
ぼうっとしていたリッカの身体がぐらりと傾いだ。耳元を鋭い音を立てて、なにかがかすめる。背後で薄い氷が砕けるような華奢な音が響いて、おそるおそる目を向けると、大理石の床には繊細なガラスの杯だったものが、柄だけを残して粉々になっていた。そこでようやくリッカはアグネシュカが何の前触れもなくガラスの杯を投げつけてきたことを知った。
誰かに腕をつかまれているなと思ったら、いつのまにか立ち上がっていたユーグが抱き寄せてくれている。どうやって察知したものか、間一髪のところで危機を救ってくれたようだ。そうでなければ顔面に直撃していただろう。
「…………わたくし、嘘を吐かれるのが大嫌いなんですの」
さらに重みを増した空気に、リッカは冷や汗が頬を伝うのを感じた。アグネシュカの顔に邪気のない笑みが浮かび続けていることがひたすら恐ろしい。
アグネシュカは例えるならば、粉々に砕け散ったガラス細工を芸術家が執念で復元したヒビだらけの美術品のようなものなのだ。光を乱反射して美しいが、一度完全に壊れてしまったものは外観がいくら美しくても壊れたまま。
無邪気な微笑みこそが、アグネシュカの狂気の証だった。
「うふふふ、いけない子ですわねリッカさん」
「……すみません」
「まあ、素直ですこと。ますますアナタが大嫌いになりましたわ。気分が悪くなってしまったので、これで晩餐はおしまいにしましょう」
もてなす側の作法としてあるまじきことだったが、アグネシュカはあくまで優雅に席を立った。上体を動かさない貴婦人特有の身ごなしで奥の扉へと歩いていってしまう。
腰まで届く巻き毛の黒髪をはらって振り向いた顔には、変わらない微笑がはりついたままだ。
「では御機嫌よう。降霊会は夜明けと共に始まりますので、その時にまたお会いしましょう」
女主人の唐突な退出に、晩餐の間にはしばらくの沈黙が降りた。
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ところ変わってユーグに与えられた客間。
一堂に会したリッカ、ユーグ、セルジュ、ギーの四人は食後の会議中だった。
「いったいなんなんだ、あの女は」
憤懣やるかたないといった調子で口火を切ったのはユーグである。
「あの女が狂っているのは元からだ。憤ることでもあるまい」
「心を病んでいて多少、奇矯な振る舞いがあるとは聞いていたが……」
まだ苦々しげな表情のユーグを、セルジュは冷然とした青の瞳を細めて見ながら馬鹿にしたように笑った。
「貴様は社交の場でも、あの女が作る派手な集団には一切近寄らなかったからな。えり好みできる立場とは結構なことだ」
「……青騎士、貴様も立場は俺と同格だろう。避けたいのであればそうしたらどうだ」
「あいにく仕事でな。愛人のふりもできん貴様には回ってこない役回りだが」
白騎士と青騎士、会話をすれば三秒で空気は急転直下だ。
これはもう自然現象としてスルーするのがベストだとリッカは悟ってしまったが、悪くなった空気をものともせず、神官ギーは自分の疑問を口にする。
「ところでリッカさん、あなたが異世界に来て初めて出会った人物について、もう一度詳しく教えてもらえませんか?」
「ああ、はい……。前にも言ったと思うんですけど、今はどこにいるのかも分からない人なんですよ。その時に一度会ったきりで」
「それは聞いたんですけどねぇ……アグネシュカ様がはっきりと『殿方』と限定していたのが僕には気になるんですよ。あちらの持っている知識からその人は男性だと判断できるのか、あるいは……」
「そのことなんですが……」
リッカは困惑に眉根をよせて、首を傾げながら言う。
「私がこちらの世界に来て初めて会ったのは金髪碧眼の美女でしたよ」




