死神は、命の価値を知らない
世界には、限りがある。
命も。
時間も。
そして、人を生かすための光も。
だから天使は選ぶ。
誰に生を与え、誰の生を終わらせるかを。
死神は選ばない。
ただ、その決定を受け入れ、寿命を迎えた魂を静かに送るだけ。
それが、この世界の秩序だった。
◇
白い大理石が果てなく続く神殿に、足音だけが響いていた。
新人死神アベルは黒い外套の裾を整え、前を歩く天使の背を見つめる。
純白の翼。
雪よりも白い長髪。
感情を映さない金色の瞳。
生命を司る上級天使、セラ。
彼女は一度も振り返ることなく歩き続ける。
「緊張していますか」
静かな声だった。
「少しだけです」
「なら問題ありません」
それだけ言うと、セラは巨大な扉の前で立ち止まった。
扉には無数の光が流れ、まるで夜空の星々が閉じ込められているようだった。
「ここが生命管理室です」
扉が音もなく開く。
室内いっぱいに、光の粒が漂っていた。
一つ一つが命。
生まれたばかりの光。
今にも消えそうな光。
それらを眺めても、アベルの心は揺れなかった。
幼い頃から教えられてきた。
世界は平等ではない。
すべてを救おうとすれば、すべてを失う。
だから命は選ばれる。
それは残酷ではなく、必要なことなのだと。
「アベル」
「はい」
「あなたは死神ですが、まず覚えるべきことがあります」
セラは一つの光を手に取る。
それは小さく揺れながら、彼女の掌で優しく瞬いていた。
「私たちは命を奪いません」
「……はい」
「命を終わらせるのは、私たちではありません」
「では、誰が」
「未来です」
アベルはわずかに眉を動かした。
セラは光を見つめたまま続ける。
「未来には限りがあります」
「一つの命を長く生かせば、その分だけ別の命は短くなります」
「世界へ与えられる生命の光には、限界があるからです」
そう言って、壁一面に浮かぶ無数の文字へ視線を向けた。
名前、年齢、寿命、未来予測。
そして、一番大きく表示された数字。
『生命価値指数』
アベルは資料を見て頷く。
養成所でも学んだ項目だ。
未来で救う命。
残す功績。
世界への影響。
それらを総合して算出される数字。
高ければ高いほど、多くの生命の光が与えられる。
「合理的ですね」
自然と口から漏れた。
セラは初めて小さく微笑む。
「ええ」
「だから世界は滅びません」
その言葉に迷いはなかった。
何万年も命を見続けた者だけが持つ確信だった。
アベルは胸の奥で静かに憧れる。
いつか自分も、目の前の感情に惑わされず、世界全体を見渡せる存在になりたい。
それが良い死神なのだと信じていた。
「では、最初の任務です」
セラが指先を払う。
一枚の命令書が光の中から現れた。
アベルはそれを受け取る。
そこに記されていたのは、一人の少女の情報だった。
氏名 エマ
年齢 十二歳
残り寿命 七日
視線を下へ落とす。
最後の項目。
『生命価値指数 3』
思わず息を止めた。
養成所で見た中でも、これほど低い数字は珍しい。
セラは淡々と言う。
「未来予測では、大きな功績を残しません」
「医師にも、学者にも、王にもならない」
「彼女へ生命の光を使えば、より多くの命を救える子どもへ光を与えられなくなります」
アベルは命令書を閉じた。
疑問は浮かばなかった。
いや、浮かべる必要すらないと思った。
一人より百人。
百人より一万人。
それは誰が考えても正しい答えだ。
「理解しました」
「七日後、エマの魂を迎えます」
セラは静かに頷く。
「その前に彼女を観察してください」
「死神は、迎える相手を知る義務があります」
「ただし、感情を持ってはいけません」
アベルは迷いなく答えた。
「はい」
黒い外套がふわりと揺れる。
次の瞬間、彼の姿は神殿から消えていた。
これが、死神アベルの最初の仕事。
そして、彼が初めて「生命価値指数3」の少女――エマと出会う七日前だった。
◇
初めてエマを見た日、空は雲一つない青だった。
アベルは屋根の上に立ち、眼下の小さな町を見下ろしていた。
死神は生者に姿を見られない。
風の音も、足音も残さず、人々の暮らしを見守るだけの存在だった。
やがて、一軒の古びた家の扉が開く。
小柄な少女が、ゆっくりと外へ出てきた。
肩まで伸びた栗色の髪。
少し大きめの帽子。
痩せた身体は風に吹かれるだけで倒れてしまいそうだった。
それでも、その足取りには不思議な軽さがあった。
(あれがエマか)
命令書と見比べる。
間違いない。
余命七日。
生命価値指数、三。
彼女は胸元を押さえ、小さく咳き込んだ。
顔色は悪く、呼吸も浅い。
長く生きられないことは、医師でなくとも分かった。
それでもエマは家へ戻らず、坂道をゆっくり歩いていく。
向かった先は、小さなパン屋だった。
「おじいさん、おはよう」
店先を掃いていた老人が顔を上げる。
「おお、エマちゃん。今日は調子が良さそうだね」
「うん。少しだけ」
老人は焼きたての丸パンを紙袋へ入れると、エマへ差し出した。
「はい、おまけ」
「だめだよ。この前ももらったもん」
「いいから、いいから」
老人は笑って紙袋を押し付ける。
エマは困ったように笑うと、小さく頭を下げた。
「ありがとう」
その笑顔を見て、老人も目尻を下げる。
アベルは黙って見つめていた。
(親しい間柄なのだろう)
ただ、それだけだった。
しばらく歩くと、今度は道端に座り込んだ幼い男の子が目に入る。
どうやら転んだらしい。
膝を擦りむき、大粒の涙をこぼしている。
エマは迷わず駆け寄った。
「痛かったね」
服の裾を破り、小さく裂いて膝へ巻く。
「これで大丈夫」
男の子は泣き止み、笑った。
「ありがとう、お姉ちゃん」
その母親が慌てて駆け寄ってくる。
「エマちゃん、ごめんなさいね」
「ううん。傷、すぐ治るよ」
そう言って手を振る。
別れ際まで、エマは笑っていた。
アベルは命令書を開く。
未来予測。
功績なし。
世界への影響、極小。
指数三。
数字を見つめる指先が、わずかに止まった。
転んだ子どもを助けた。それだけのことだ。
世界は変わらない。
未来の医師なら何万人も救う。
未来の農学者なら飢えをなくすかもしれない。
王なら国を導く。
限られた命なら、そちらへ与えるべきだ。
数字は正しい。
そのはずだった。
昼過ぎ。
エマは川辺の土手へ腰を下ろした。
苦しそうに息を整えながら、紙袋を開く。
中には老人にもらった丸パンが二つ。
彼女は一つを口へ運びかけ、不意に手を止めた。
視線の先には、一匹の痩せた野良犬がいた。
肋骨が浮き出るほど痩せている。
エマは迷うことなくパンを半分に割る。
「お腹すいたよね」
犬は警戒しながら近づき、差し出されたパンを食べ始めた。
エマはその様子を嬉しそうに眺め、自分は残った半分だけを口にする。
食べ終える頃には、また咳き込んでいた。
アベルは小さく息をつく。
(自分の身体も満足に保てないのに)
割に合わない。
そのパンを食べれば、今日を少しでも楽に過ごせたはずだ。
半分を与えたところで、犬の人生が変わるわけでもない。
数字にすれば、価値はほとんどない。
そう考えた瞬間だった。
「ありがとうね」
エマは犬へ微笑みかけた。
犬は小さく尻尾を振り、何度も彼女を振り返りながら去っていく。
その姿を見送るエマの笑顔は、まるで自分が何かをもらったかのように穏やかだった。
アベルは理由の分からない違和感を覚える。
胸の奥に、小さな棘が刺さるような感覚。
命令書を見れば、数字は変わらない。
生命価値指数、三。
それでも彼は、もう一度だけエマへ視線を戻した。
少女は青空を見上げ、静かに笑っていた。
その笑顔が、なぜか数字よりも強く心に残った。
◇
四日目。
アベルは違和感の正体を、まだ言葉にできずにいた。
死神は感情を持たない。
少なくとも、仕事の間は。
養成所で何度も教えられた教えを思い返しながら、今日もエマの後を追う。
朝の町は活気に満ちていた。
市場では商人が声を張り上げ、子どもたちが駆け回る。
その人混みの中を、エマはゆっくりと歩いていた。
途中で何度も立ち止まり、苦しそうに胸へ手を当てる。
それでも家へ帰ろうとはしなかった。
「エマちゃん」
八百屋の女主人が手を振る。
「今日は無理しちゃだめだよ」
「少し歩きたかっただけ」
「ほら、これ持っていきな」
籠から赤い林檎を一つ差し出す。
「お代はいらないから」
「でも……」
「病気なんだから遠慮しない」
エマは少し考え、小さく頭を下げた。
「ありがとう」
女主人は満足そうに笑う。
それだけのやり取りだった。
アベルはその光景を見ながら、資料を開く。
未来予測。
変更なし。
生命価値指数。
変更なし。
世界への貢献。
変更なし。
(当然だ)
林檎を一つもらった程度で、未来は変わらない。
数字とは、もっと大きなものを測るためにある。
そう自分へ言い聞かせる。
そのときだった。
路地裏から、小さな泣き声が聞こえた。
幼い少女が、割れた花瓶を前に立ち尽くしている。
「どうしよう……」
母親へ届けるはずだった花らしい。
花瓶は砕け、花も泥にまみれていた。
エマは迷わずしゃがみ込む。
「大丈夫?」
少女は涙をこぼしながら首を振る。
「お母さんに怒られる」
「そうなんだ」
エマは少し考え、手にしていた林檎を少女へ差し出した。
「これ、お母さんに渡したらどうかな」
「でも、エマちゃんのじゃないの」
「私はまた食べられるから」
本当は違う。
病気の身体には、その一つが貴重な栄養になる。
それでもエマは笑っていた。
少女は何度も頭を下げながら帰っていく。
その背中を見送り、エマは小さく息を吐いた。
「困ってる人を見ると、放っておけないんだよね」
誰に言うでもない、独り言のような声だった。
アベルはその声だけを、資料には書けないまま胸に留めた。
直後、激しい咳が込み上げる。
膝をつき、肩を震わせる。
白いハンカチには、赤い染みが滲んでいた。
アベルは表情を変えない。
変えられない。
だが、視線だけは逸らせなかった。
(なぜ、自分を削る)
理解できない。
未来に残るものは何もない。
指数は三。
この行動一つで世界が変わることはない。
間違っているのは、数字なのか。
自分の目なのか。
夕刻。
神殿へ戻ったアベルは、生命管理室でセラへ報告を行う。
「対象を観察しました」
「異常はありません」
報告はそれだけで終わるはずだった。
しかし口が勝手に開く。
「質問があります」
セラは書類から顔を上げた。
「どうぞ」
「生命価値指数は、日々の善行も評価されていますか」
「されています。ですが、その比重はご存知の通りです」
説明を待たず、セラは話を進めた。
一枚の光の板が空中へ浮かぶ。
そこには幾つもの数字が並んでいた。
「笑顔を与える。困っている人を助ける」
「善行には意味があります」
「ですが、その影響は限定的です」
数字が切り替わる。
一人の医師。
救われる患者の数。
何万人。
一人の農学者。
飢餓から救われる人々。
何十万人。
一人の王。
戦争を防ぎ、生き延びる民。
何百万人。
「限られた生命の光を使う以上、私たちは結果を選ばなければなりません」
「一人の善人より、多くを救う一人を生かす」
「それが世界を守るということです」
セラは光の板を消しながら、一瞬だけ視線を宙に置いた。
それは迷いではなく、遠い記憶を探るような間だった。
「……昔にも、同じ問いをした死神がいました」
それだけ言うと、いつもの静けさへ戻った
アベルは頷く。
理屈は変わらず正しい。
数字も正しい。
未来も正しい。
それでも、昼間のエマの姿が脳裏を離れなかった。
林檎を差し出した小さな手。
苦しそうに咳き込みながら、それでも笑っていた顔。
セラは静かに問いかける。
「納得できませんか」
「……いいえ」
アベルは首を横に振る。
「理解しています」
それは嘘ではなかった。
本当に理解はしている。
だからこそ、胸の奥に残る違和感の説明だけが、どうしてもできなかった。
生命価値指数は正しい。
世界を守るには必要な指標だ。
その結論は変わらない。
なのに、エマを見ていると、数字だけでは測れない何かがあるような気がしてならなかった。
その「何か」を、アベルはまだ知らない。
◇
エマの寿命まで、あと一日。
町は朝から静かだった。
昨夜降った雨が石畳を濡らし、雲間から差し込む陽光が水たまりを白く照らしている。
アベルは屋根の上から、その景色を眺めていた。
今日も命令書に変化はない。
生命価値指数 三。
数字は、一度決まれば滅多に変わらない。
未来は無数に枝分かれしているようでいて、大きな流れはほとんど変わらないからだ。
だから天使は迷わない。
そして死神も、迷う必要はない。
そのはずだった。
家の扉が開く。
エマは少し厚手の上着を羽織り、ゆっくりと外へ出てきた。
昨日よりも顔色は悪い。
一歩歩くたびに息が乱れ、立ち止まっては呼吸を整えている。
見れば分かる。
身体は限界だった。
(今日は家で休むべきだ)
そう考えた矢先、エマは町外れの教会へ向かって歩き始めた。
教会の裏庭には、小さな花壇がある。
色とりどりの花が咲いていたが、長く雨が続いたせいで雑草も伸び放題だった。
エマはしゃがみ込み、一本ずつ丁寧に草を抜き始める。
指先は泥だらけになる。
何度も咳き込み、そのたびに作業を止める。
それでも、また草を抜く。
やがて教会から老いた神父が出てきた。
「エマちゃん」
神父は驚いたように目を見開く。
「そんな身体で何をしているんだい」
エマは少し照れたように笑った。
「お花がかわいそうだったから」
「でも、誰かがやることだよ」
「うん。でも、今日できるのは私だから」
その一言に、神父は何も返せなかった。
ただ静かにエマの隣へ腰を下ろし、一緒に雑草を抜き始める。
しばらくすると、近くを通りかかった女性が二人の姿に気づく。
「あら、私も手伝うわ」
さらに子どもたちが集まる。
「ぼくもやる」
「こっちの草を抜けばいいの」
気づけば、小さな花壇を囲むように何人もの人がしゃがみ込んでいた。
笑い声が聞こえる。
誰かが冗談を言い、誰かが笑う。
ほんの少し前まで静かだった教会の庭は、穏やかな賑わいに包まれていた。
アベルはその光景を見つめていた。
誰かが命じたわけではない。
利益があるわけでもない。
それでも、一人が動いたことで、人が集まり、笑顔が生まれていた。
そのとき、不意に背後から声がした。
「観察は終わりましたか」
振り返ると、セラが立っていた。
翼をたたみ、いつもの穏やかな表情で庭を見下ろしている。
「はい」
「どう見えますか」
アベルは少し考えてから答えた。
「……人が集まっています」
「そうですね」
セラは頷く。
「ですが、それは今日だけのことです」
「明日になれば終わります」
「十年後、この出来事を覚えている者はいません」
淡々とした声だった。
「一方で、未来の医師は生涯で数万人を救います」
「未来の学者は飢えを減らします」
「世界は、積み重ねられた結果でできています」
アベルは花壇へ視線を戻す。
笑顔。
笑い声。
土に汚れた手。
そのどれもが、数字にはならない。
「では」
気づけば、口が動いていた。
「笑顔に価値はないのですか」
セラは静かに首を横へ振る。
「あります」
「ですが、測定済みです」
「人を励ますことも、慰めることも、評価へ含まれています」
アベルは目を見開く。
「それでも……三なのですか」
「はい」
セラは迷いなく答えた。
「この子の優しさをすべて計算した結果が、その数字です」
その言葉は、冷たくはなかった。
むしろ誠実だった。
何一つ隠さず、事実だけを伝えている。
だからこそ、アベルは反論できない。
数字は、優しさを無視しているのではない。
優しさも含めたうえで、なお三だったのだ。
教会の鐘が鳴る。
エマは立ち上がろうとして、ふらりと身体を揺らした。
神父が慌てて支える。
「もう十分だ。今日は帰りなさい」
エマは少し残念そうに笑った。
「うん」
帰り際、花壇を振り返る。
そこには、さっきまでより少しだけ美しくなった花々が風に揺れていた。
エマは満足そうに目を細める。
その横顔を見つめながら、アベルは初めて思った。
もし数字が正しいのなら。
この胸に残る違和感は、一体何なのだろう。
◇
翌日。
エマの寿命が尽きる日が、静かに訪れようとしていた。
夜明け前の町は、まだ眠りの中にあった。
東の空だけが淡く白み始め、家々の屋根には朝露が光っている。
アベルはエマの家の前に立っていた。
今日。
少女の寿命は尽きる。
扉が開く音がした。
エマがゆっくりと外へ出てくる。
昨日まで以上に顔色は青白く、足元も覚束ない。
それでも空を見上げると、小さく息を吸った。
「今日は、いい天気だね」
その声は誰にも届かない。
アベルだけが聞いていた。
エマは少し歩いて町外れの丘へ向かう。
花畑が広がる、小さな丘だった。
風が吹くたび、色とりどりの花が波のように揺れる。
エマは一本の木にもたれ、ゆっくりと腰を下ろした。
「ここ、好きなんだ」
もちろん、返事はない。
死神は人間と言葉を交わせない。
それが掟だった。
静かな時間だけが流れる。
やがて、小さな足音が聞こえた。
パン屋の老人だった。
「こんなところにいたのか」
老人は息を切らしながら笑う。
「探したぞ」
「ごめんなさい」
「謝ることじゃない」
老人は紙袋を差し出した。
「焼きたてだ」
続いて神父が来た。
市場の女主人も。
転んで泣いていたあの子も、母親と手をつないでやって来る。
痩せた野良犬まで、尻尾を振りながらエマの足元へ寄ってきた。
誰も約束などしていない。
それでも、人が集まってくる。
「今日はみんな暇なの」
エマが困ったように笑う。
「違うさ」
老人は首を振った。
「会いたかっただけだ」
誰かが花を置く。
誰かが肩を貸す。
誰かが他愛ない話を始める。
丘には笑い声が広がった。
アベルは、その光景を見つめ続ける。
資料にはない。
数字にもならない。
未来予測にも載っていない。
それでも確かに、そこには一人の少女を中心にした世界があった。
そのとき、背後に気配が現れる。
セラだった。
朝日に照らされた白い翼が、静かに輝いている。
「時間です」
アベルは頷く。
命令を理解している。
理解しているのに、足が動かなかった。
「質問があります」
セラは静かに視線を向ける。
「何でしょう」
「生命価値指数は、誰が決めたのですか」
「神です」
「神は、未来をご覧になります」
「では」
アベルは丘を見渡した。
笑う人々。
花を抱く少女。
穏やかな朝。
「神は、この景色もご覧になったのでしょうか」
セラは沈黙した。
アベルは続ける。
「私はずっと数字だけを信じていました」
「世界のためなら、一人を失うことは正しいと」
「その考えは、今も間違いではないと思っています」
セラは静かに聞いている。
「ですが」
アベルは初めて目を閉じた。
「私は、この子を見ました」
それだけだった。
反論ではない。
否定でもない。
ただ、一人の命を見つめたという事実だった。
セラは丘へ目を向ける。
「個人を見れば、判断は鈍ります」
「はい」
「それでも世界は選ばなければなりません」
「はい」
どちらも正しかった。
だからこそ苦しかった。
そのとき、エマが小さく咳き込む。
胸を押さえながら、それでも空を見上げて笑った。
「今日も、きれい」
その言葉を最後に、静かに目を閉じる。
風が吹く。
花びらが舞い上がる。
人々はまだ気づいていない。
アベルはゆっくりと少女の前へ進んだ。
眠るような身体から、一つの光が浮かび上がる。
透明で、温かな魂だった。
エマは不思議そうに辺りを見回し、やがてアベルへ微笑む。
「あなた、死神さん」
「……はい」
「迎えに来てくれたんだね」
「はい」
エマは少しだけ丘を振り返る。
「みんな、泣いちゃうかな」
アベルは答えられない。
「でもね」
エマは優しく笑った。
「いっぱい幸せだったよ」
その一言が、胸に深く落ちた。
アベルは黙って手を差し出す。
エマはその手を取り、穏やかに歩き始めた。
朝日が二人を包む。
背後では、人々の泣き声が風に乗って聞こえ始めていた。
しばらく歩いたあと、セラが静かに口を開く。
「世界は、数字で守られています」
「はい」
「その事実は変わりません」
アベルは頷く。
「ですが」
セラは初めて遠くの丘を振り返った。
「計算できないものも、あるのかもしれません」
その声は、とても小さかった。
アベルは何も答えなかった。
ただ、隣を歩く少女の魂を見つめる。
その光は決して大きくはない。
けれど、どんな生命価値指数よりも温かく感じられた。
世界は、数字で救われる。
けれど、人はきっと。
誰かが残した優しさで、生きている。
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