第9話 書庫の鍵
宮廷の文書庫は、正殿の北棟にある。
三層構造で、一階は一般閲覧可能な公文書。
二階は公爵家以上の権限者のみ閲覧可能な限定文書。
三階は皇族と一部の高官のみに開かれる、機密に近い記録。
ヴァルターは二階への入室権を持っている。
クラウゼ公爵家の名義で、正式に。
問題はない。
少なくとも表向きは。
* * *
文書庫の入り口で、担当の文官が帳簿を開いた。
「ヴァルター=エルンスト=クラウゼ公子様、本日のご用件は?」
「公爵家に関連する事業記録の確認です。辺境への補助金の流れを精査したい」
「二階へのご入室をご許可いたします。ご案内いたしましょうか」
「一人で構わない」
文官は軽く頭を下げ、鍵を差し出した。
ヴァルターは静かに受け取り、階段を上がった。
二階は薄暗かった。
窓は小さく、外の光がほとんど入らない。
棚が天井まで並び、束ねられた書類と帳簿が整然と収められている。
ヴァルターは目的の棚へ向かった。
辺境関連の記録。
救援物資の出入り。
補助金の配分。
軍への物資調達。
それらを一通り確認しながら、本来の目的を頭の中で動かす。
辺境への金の流れと、自分の書簡の記録。
もし敵が自分の書簡を証拠として使ったなら、その原本か写しがここにあるはずだ。
だが——
ヴァルターは目的の棚に辿り着き、手を伸ばした。
そこにあるはずのものが、ない。
確かめる。もう一度確かめる。
やはり、ない。
日付で整理されているはずの帳簿の一部が、抜けていた。
帝国暦四百八十一年、秋の第三月から冬の第一月にかけての記録が、綺麗に消えている。
前後の帳簿は存在する。
だが、その期間だけが空白だ。
ヴァルターは周囲の棚を確認した。
閲覧記録の帳簿を引き出し、ページをめくる。
同じ期間の閲覧記録にも、不自然な空白がある。
誰かが閲覧した形跡が消されているか、あるいは最初から記録されなかったか。
次に、ヴァルターは皇族周辺の薬湯記録の棚を探した。
本来は二階にあるはずのものだが——
ない。
棚番号は正しい。
だが、その棚に薬湯関係の記録がない。
代わりに、全く関係のない植物園の管理記録が並んでいた。
入れ替えられている。
いつ、誰が。
ヴァルターはすぐには動かずに、棚の前でしばらく考えた。
文書庫の中身が操作されている。
今この瞬間も、誰かが都合のいい情報を取り除き、不都合なものを隠している。
つまり、断罪は半年前から始まっていたのではない。
もっと前から、計画的に進んでいたのだ。
帰り際、ヴァルターは閲覧記録の帳簿をもう一度手に取った。
入り口の文官が管理しているものとは別の、棚に置かれた内部用の記録だ。
最近の入室者を確認する。
自分の名前はない——今日が初めてだから当然だ。
だが数日前に、一人の名前が目に入った。
文官名義だが、その文官は二階の常駐者ではない。
臨時入室の形跡がある。
ヴァルターは名前を手帳に控えた。
確認が必要だ。
帳簿を戻し、棚から離れようとした時。
気配がした。
人の気配。
廊下側——いや、棚の奥の方。
ヴァルターは動きを止め、音を立てずに呼吸を整えた。
静寂。
何も聞こえない。
だが確かに、何かがあった。
棚の奥の暗がりの方で、かすかに何かが動いた——空気の揺れとも言えないほど小さな変化が。
ヴァルターはゆっくり歩き出した。
普通に、何事もなかったように。
廊下に出て、扉を閉める。
階段を下りながら、ヴァルターは背中の感覚を忘れなかった。
見られていた、かもしれない。
あの気配が何だったかは分からない。
ただ、文書庫での調査は今日で終わりにした方がいい。
次に来るなら、別の名目が必要だ。
入り口で鍵を返す際、担当文官の顔をさりげなく確認した。
いつもの穏やかな表情で、何も変わらない。
ヴァルターは礼も挨拶もせずに去った。
廊下を歩きながら、今日知ったことを整理する。
皇族周辺の薬湯記録と、辺境補助金の帳簿の一部が消えていた。
閲覧記録にも不自然な空白がある。
そして、誰かが文書庫に入室していた。
断罪のための証拠は、宮廷の内側から丁寧に作られ続けている。
ヴァルターは、処刑台に立つまでの半年間が、どれほど念入りに設計された舞台だったかを、今改めて実感した。




