第7話 友の顔をした男
カインが声をかけてきたのは、午後の回廊だった。
「ヴァルター」
人懐こい声だ。
誰でも開くような、温かみのある声音。
ヴァルターは足を止め、振り返った。
カイン。
皇帝の甥。
二十二歳。
社交的で知られ、宮廷内に広く友人を持つ男。
処刑台に立った日、彼は痛ましげな顔でこう言った。
「君がここまで愚かだったなんて、信じたくなかった」と。
その言葉が、今でも耳に残っている。
「久しぶりだな。星見の夜会では顔を見たが、話す機会がなかった」
「そうでしたか」
ヴァルターは平静な声で返した。
カインは肩をすくめ、隣に並んで歩き始める。
「夜会の後、殿下との茶会だったんだろう。うまくいったか?」
「特段問題はなかった」
「そうか」
カインは軽やかに笑った。
ヴァルターはその笑いを見ながら、内側が冷えるのを感じた。
この男は、いつだってこうだ。
誰とでも打ち解けるように見え、誰の話も聞くように見え、誰かが傷ついた時には一緒に痛むように見える。
だが処刑の場での顔が、頭から離れない。
悲しそうな顔。
「友として止めたかった」という演技。
そしてヴァルターが引かれていく間際に見えた、カインの目の奥の——何もない静けさ。
笑みを浮かべながら、感情を持たない目をする人間を、ヴァルターは一種類だけ知っている。
それは、自分の行動の結果を最初から知っている人間だ。
「殿下のご様子は?」
カインが尋ねた。
「変わりない」
「最近、殿下が少し気難しいと聞いていてね。宮廷の行事が続いて疲れているのかもしれない」
「そうかもしれません」
「君が支えてやればいい。婚約者なんだから」
さらりと言われた。
ヴァルターは無言で頷いた。
回廊を並んで歩きながら、カインは宮廷の近況を語り続ける。
宰相派と外戚派の対立。
先日の会議での紛糾。
特定の文官が派閥を乗り換えたという話。
それは確かに有用な情報だった。
だが——
ヴァルターは聞きながら、カインの言葉の導線を追っていた。
宰相派の名を挙げる時、少しだけ声に冷たさが入る。
外戚派の話になると、僅かに口調が柔らかくなる。
特定の文官については、ほんのわずかに軽蔑が混じる。
意図的なものか、無意識か。
いずれにせよ、カインの語る「宮廷の近況」には、彼自身の評価が透けて見えた。
「君はあまり派閥に深入りしないタイプだが」
カインが言った。
「それで今まで上手くやってきたんだろうな。逆に言えば、誰もお前を完全な味方とは思っていない」
「それで問題ない」
「本当に?」
カインは横目で、穏やかに笑いながら見てくる。
「一人でいる方が動きやすいというのは理解できるが、この宮廷は完全に孤立した人間には優しくない」
その言葉は、表面上は助言だ。
だがヴァルターには、「今すぐ誰かの派閥に入れ」という誘導に聞こえた。
あるいは「孤立しているお前には弱点がある」という、確認作業にも見えた。
「ご心配いただかなくて結構」
ヴァルターは短く返した。
「そうか。頼もしいな」
カインは笑ったまま、話題を変えた。
別れ際が来た。
回廊の突き当たりで、カインは立ち止まる。
「そういえば、最近、文書庫の方をうろうろしているそうじゃないか」
「調べ物がありましたので」
「公爵家のことか。それとも宮廷の話か」
「両方に関係することです」
「なるほど」
カインは少し間を置いてから、軽く笑った。
「まあ、気をつけろよ。文書庫はいろんな人間が目をつけている場所だから」
「承知しています」
「うん。じゃあな」
手を振り、颯爽と去っていく。
ヴァルターはその背中が廊下の角に消えるまで、動かずにいた。
(文書庫のことを、なぜ知っている)
ヴァルターは、静かに考える。
まだ文書庫へは行っていない。
行こうと考えているだけで、実際に動いてはいない。
ならば、カインがその情報を持っているはずがない。
もし持っているとすれば——誰かから聞いた。
あるいは、ヴァルターの行動が先読みされている。
どちらが正しいか。
ヴァルターは手帳を開き、カインの言葉を書き留めた。
「文書庫のことをうろうろしているそうじゃないか」
情報源は誰か。
なぜ今日この話をした。
この情報で、自分がどう動くか観察しているのか。
分からないことが多い。
ただ——別れ際にカインが最後に言った言葉が、妙に残っていた。
「君は少し、嫌われるやり方が上手すぎる」
あの言葉は、純粋な観察か。
あるいは、もっと別の何かを示しているのか。
ヴァルターは回廊の端から外を見た。
夕暮れが宮廷の屋根を赤く染めている。
美しい光景だった。
だが今は、それを眺める余裕がない。
カインという男を、改めて最初から疑い直す必要がある。




