第5話 善人のふり
翌日から、ヴァルターは試みを始めた。
小さなことだ。
誰かが廊下で荷を持っていたら、わずかに道を開ける。
侍女が話しかけてきたら、黙って聞く。
文官が意見を述べたら、短くても「考慮する」と答える。
以前の自分なら、どれもしなかったことだ。
効果は出るはずだった。
少なくともヴァルター自身は、そう考えていた。
だが三日後、状況は予想と真逆の方向へ動いていた。
会議室を出た廊下で、ヴァルターはすれ違った文官が妙な顔をするのに気づいた。
会釈する。
文官は固まった。
数秒して、ぎこちなく会釈を返して、逃げるように立ち去る。
(あれは恐れている)
違う。
恐れてはいる——だが、いつもと違う種類の恐れだ。
以前は「この人は怖い」という恐怖だった。
今は「この人は何かおかしい」という警戒だ。
ヴァルターは廊下の窓から外を見ながら、状況を整理した。
長年「冷酷で尊大な公爵令息」として振る舞ってきた男が、急に物腰を変えれば——むしろ裏があると疑われる。
当然だ。
人間は急な変化に不信感を抱く。
それは頭では分かっていた。
だが、ここまで露骨に「怪しい」という反応が返ってくるとは思っていなかった。
「ヴァルター様、いつもと……その、ご様子がちがうようで、わたくしどもは」
午後、廊下で下級文官の一人が恐る恐る口を開いた。
「何か、ご不満はございましたでしょうか。もし何か、不備があれば申し付けを——」
「不満はない」
「は、はい」
「普通に仕事をしていれば問題ない」
「……はい」
男はほとんど蒼白になって立ち去った。
ヴァルターは内心でため息をついた。
「普通に」と言われても、何を基準にするか分からないのだろう。
それはそうだ。
自分の"普通"がどれほど怖れられているか、ようやく実感し始めていた。
問題は侍女との一件で、より鮮明になった。
東廊下を歩いていたヴァルターの前を、一人の侍女が大量の書類を抱えて急いでいた。
アンネリーゼ付きの侍女の一人だ。
ヴァルターはわずかに歩みを緩め、廊下の端に寄った。
「道を譲った」に過ぎない。
ほんのわずかな行動だ。
だが侍女は、気づいた瞬間に固まった。
見開かれた目。
青ざめた顔。
書類を抱えたまま、身を縮めるように廊下の反対の端へ張り付く。
まるで壁と一体化しようとするかのように。
「……通れ」
ヴァルターは低く言った。
「は、はい……申し訳ございません……っ」
侍女は頭を下げながら早足で通り過ぎ、角を曲がってすぐに消えた。
足音が遠ざかっても、ヴァルターはしばらく動けなかった。
(あれが、自分か)
廊下に残された静寂の中で、ヴァルターは考える。
道を開けた。
それだけだ。
それだけのことが、あれほどの恐怖を引き起こした。
彼女はヴァルターに何をされた訳ではない。
だが彼女は、「何かされるかもしれない」という恐怖を常に抱いていた。
それほどの印象を、自分は積み上げてきたのだ。
ヴァルターは窓の外を見た。
宮廷の庭園が広がっている。
今日は晴れていた。
今さら優しくしたところで、「優しい人」になれるわけではない。
それは始めから分かっていた。
だが、ここまで根深いとは。
問題は悪評の修正では解決しない。
ヴァルターは、自分が最初に設定した目標が根本的にずれていたのだと認識し始めていた。
「好感度を上げる」という方向では、半年以内にアンネリーゼの心証を変えることは不可能だ。
それどころか、唐突な変化は不信感を招く。
ならば、別の方法で考えなければならない。
* * *
夕方、ヴァルターは執務室で紙を広げた。
処刑で並べられた罪状を、一つずつ書き出す作業だ。
これは最初からするべきだった。
感情的な対策から始めたのが間違いだった。
善人のふりをすることよりも先に、具体的な罪状に向き合う必要がある。
筆を取り、書き始める。
一、皇族への不敬。
二、宮廷機密の不正閲覧。
三、辺境反乱への資金関与。
四、皇帝の薬湯記録の改竄。
五、帝位簒奪を企てた嫌疑(偽造書簡)。
紙に並んだ五つの罪状を眺める。
これを一つ一つ潰していくことが、本当の意味での生き残りだ。
人に優しくすることではない。
ヴァルターは筆を置いた。
廊下で、あの侍女が縮み上がった姿が頭に浮かぶ。
(あれが私だ)
認めるのは苦かった。
だが苦かろうとなんだろうと、それが事実だ。
「好かれること」で処刑を回避しようとする考えは、捨てる。
必要なのは好感度ではなく、証拠だ。
ヴァルターは紙の一番上に文字を書き加えた。
「まず、偽造書簡の出所を断て」
そして静かに、作業を続けた。




