第4話 昨日と同じ微笑
皇女の茶室は、宮廷の東棟の奥にある。
廊下を歩くたびに、すれ違う廷臣たちがわずかに道を開ける。
威圧しているつもりはないが、ヴァルターの周囲には常にそういう空気が漂っていた。
冷たい公爵令息。近寄れない男。
処刑台に立つ前の自分は、それを当然だと思っていた。
今は違う。
その空気がどこから来るのかを、嫌というほど理解している。
茶室の扉の前で、侍女が一人、深々と礼をとった。
「ヴァルター=エルンスト=クラウゼ様、お通りください。殿下がお待ちでございます」
「ご苦労」
短く答え、扉を押す。
* * *
室内は明るかった。
午前の陽光が窓から差し込み、白いテーブルクロスの上で銀の茶器が静かに光っている。
花は白と淡紫の組み合わせ。季節の花だ。
その対面に、アンネリーゼが座っていた。
金の髪を編み上げ、蒼い目をこちらへ向けている。
表情は穏やかだった。礼儀上の穏やかさだ。
「ヴァルター様、お越しくださいました」
「殿下」
ヴァルターは定位置の椅子へ向かい、腰を下ろした。
何も変わっていない。
テーブルの位置。花瓶の角度。アンネリーゼの座り方。
すべてが半年前の記憶と一致する。
ただ一つだけ違うのは——ヴァルター自身が、この場面を知っているということだ。
「昨夜の夜会は、いかがでしたか」
アンネリーゼが先に口を開いた。
「つつがなく」
「そうですか」
侍女が茶を注ぐ。
アンネリーゼはカップを取り、静かに口をつけた。
ヴァルターは自分のカップを見つめながら、記憶を辿る。
この茶会のことは覚えている。
特に大きな事件はなかったが、いくつかの言い合いがあった。
ヴァルターが政務上の問題でアンネリーゼの提案を一刀両断にし、彼女が静かに不快を示したのだ。
そしてヴァルターは、それを意に介さなかった。
今の自分なら——どうするべきだろうか。
善人を演じるか。
あるいは何も言わずに座っているか。
「殿下は、夜会はお楽しみいただけましたか」
ヴァルターは問い返した。
少し間があった。
アンネリーゼは、一瞬だけ目を細める。
「まずまず。今年の演奏は例年より水準が高うございました」
「そうでしたか。私は音楽のことは分かりませんので」
「存じております」
短い返答だった。
感情は読めない。
ヴァルターはカップに口をつけた。
茶は、温かかった。
* * *
しばらく、他愛もない会話が続く。
宮廷の行事予定。
先日の貴族会議の結果。
春の献上品の目録。
どれも記憶にある話題だった。
アンネリーゼが切り出し、ヴァルターが短く応じる——その構図も、記憶の通りだ。
ただ、今の自分はいくつかの場所で言葉を選んでいた。
以前の自分なら「そのような感傷は意味がない」と言ったはずの場面で、黙った。
以前の自分なら「殿下の判断は甘い」と切り捨てたはずの意見に、「一考の余地があります」と返した。
それが正解かどうかは分からない。
だが——
「ヴァルター様」
アンネリーゼが、ふと言った。
「今日は、随分と言葉を選んでいらっしゃいますね」
ヴァルターは手を止めた。
「そうですか」
「ええ。いつもなら、もう二度ほど私の意見を否定されているはずです」
静かな声だった。
皮肉ではなく、ただの観察、という口調で。
ヴァルターは、その言葉の重さを計った。
否定されるほどの意見を述べた、ということは、アンネリーゼも承知していた。
そして、自分がいつもそれを切り捨てる、とも。
「……否定するほどの意見ではありませんでした」
「初めてそう仰いましたね」
蒼い目が、静かにこちらを見ている。
ヴァルターはそこに、何か——品定めのような視線を感じた。
怒りでも困惑でもない。
純粋な観察の目だ。
この女は、愚かではない。
改めて、そう思う。
* * *
茶会はそれから短時間で終わった。
定刻通り、特に大きな事件もなく。
ただ、いつもより会話が少なく、静かな時間が多かった。
退室する際、ヴァルターは一礼した。
「お時間をいただきありがとうございました、殿下」
「またいずれ」
アンネリーゼが返した。
それだけだった。
ヴァルターは廊下に出て、しばらく歩いた。
後ろで扉が閉まる音がする。
(どちらに転んだか、分からない)
心の中で呟く。
善人を演じたわけではない。
ただ少し、言葉を柔らかくしてみた。
それが彼女の目に「不気味」に映ったのか、「変化」として映ったのか。
確認のしようがない。
廊下の角で、ヴァルターは立ち止まった。
振り返ると、茶室の扉が遠くに見える。
中では今頃、アンネリーゼが何かを考えているだろうか。
あの蒼い目。
処刑台の直前に揺れた、あの目と同じだ。
ヴァルターは前を向いた。
感傷は後だ。
今は情報が必要だ。
歩き出しながら、別れ際のアンネリーゼの一言を繰り返す。
「今日は、随分と言葉を選んでいらっしゃいますね」
たったそれだけの言葉なのに、妙に引っかかった。
彼女は、いつもの自分を正確に知っている。
だからこそ、少しの変化も見逃さない。
ヴァルターは無言のまま歩きながら、一つのことを理解した。
何かを変えようとするだけで、怪しまれる。
この場所では、どんな行動も観察されている。




