第3話 夢ではない証明
茶会の刻限まで、まだ一時間ほどある。
廊下を歩きながら、ヴァルターは頭の中で冷静に整理しようとしていた。
確認すべきことが多い。
感情に引きずられている暇はない。
茶会へ向かうより先に、寄るべき場所がある。
彼は踵を返し、自室へ戻った。
* * *
書棚の前に立つ。
右から三冊目、エルンスト公爵家の年次報告書。
四冊目、帝国貿易局の最新記録。
五冊目、宮廷行事一覧——今年度版。
ヴァルターは五冊目を引き出して表紙を確認した。
帝国暦四百八十二年度。春。
一致する。
次に彼は本を開き、星見の夜会の記録を探した。
春の第二月、十五日夜——宮廷主催、参加貴族名の一覧。
見覚えのある名前が並んでいる。
自分の名もある。
アンネリーゼの名もある。
カインの名もある。
すべて、記憶の通りだった。
ヴァルターは本を閉じ、机の引き出しを開ける。
左側の奥、書きかけの書類が二枚あるはずだった——辺境救援費に関する私的な覚書と、宮廷文官への問い合わせ状。
あった。
まったく同じ内容、まったく同じ筆跡で。
インクが乾きかけているあたりも、記憶の通りだ。
「……確かに、半年前だ」
呟いた声が、やけに静かに聞こえた。
ヴァルターは深く息を吸う。
夢の可能性は消えた。
記憶の捏造という可能性も、これほど細部まで一致するなら考えにくい。
狂気の可能性は——まだ否定しきれないが、狂気がこれほど論理的に整合するとも思えない。
すなわち、これは現実だ。
ありえない現実だが、現実だ。
* * *
廊下へ出ると、ちょうど清掃の侍女たちが通りかかった。
三人。
先頭の年配の侍女がヴァルターに気づき、ぴたりと足を止め、深く頭を下げる。
後ろの二人もそれに倣った。
ヴァルターは黙って通り過ぎようとしたが、ふと足を止める。
「廊下の掃除は、今日は早いな」
年配の侍女が、わずかに顔を上げた。困惑している。
「は、はい。昨夜の夜会の後始末が……」
「そうか」
それだけ言って、ヴァルターは歩き出した。
背後で、侍女たちがほっと息を吐く音が聞こえた。
そうだ。
以前——正確には、まだ昨日しか経っていない以前——の自分なら、何も言わずに通り過ぎるか、あるいは「廊下の掃除程度に時間がかかりすぎる」と一言口にしたかもしれない。
だから彼女たちは、自分が通りかかるたびにこんな顔をするのだ。
ヴァルターはそこから何かを学んだというより、ただ確認した。
自分が思っていた以上に、この場所での自分は恐れられている。
* * *
一階の下僕通路に差し掛かった時、ヴァルターは意図せず立ち止まった。
奥から声がする。
男の声が二つ。下働きの者たちらしい。
「……公子様が今日もまわりを歩かれるのか」
「嫌だよな。あの目で見られると何もしてなくても縮む」
「気をつけろよ。昨日の夜会でまた何かあったらしいぞ。皇女殿下と揉めたとかなんとか」
「あの方のお近くで揉め事なんか起こしたら、こっちまで飛び火する」
「だな……」
声が遠ざかる。
ヴァルターは壁に背を預けたまま、天井を見上げた。
昨夜、アンネリーゼと揉めた——それは記憶にある。
茶の会が終わったあと、政務上の問題で言い合いになった。
内容はたいしたことではなかったが、ヴァルターの言い方が悪かった。
あるいは、それが下働きたちにまで届くほどの話になっていた、ということだ。
宮廷の噂は早い。
自分が思っている以上に、自分の言動は観察されていた。
* * *
次に彼は文官棟の廊下を歩き、掲示板に貼られた公示文を確認した。
帝国暦四百八十二年、春の第二月、十六日付け。
一致する。
その隣には、昨日の星見の夜会の参加者への謝辞が貼られていた。
皇帝陛下より、との書き出し。
落款の文字も、署名の癖も、見慣れたものだ。
ヴァルターはそれをしばらく眺めてから、静かに背を向けた。
もう十分だ。
確認できることは、すべて確認した。
書棚の本。机の書類。侍女たちの反応。下働きの会話。掲示の日付。
どれも、記憶の半年前と一致する。
つまりこれは現実で、自分は本当に、処刑から半年前に巻き戻っている。
なぜそうなったのかは、まだ分からない。
誰がこうしたのかも、分からない。
そもそもそれが「誰か」の意思によるものかどうかすら、分からない。
だが今、自分にできることは一つだ。
この半年を、今度は無駄にしないこと。
* * *
ヴァルターは廊下の窓から外を眺めた。
庭園には昨夜の飾り灯籠がまだ片付けられていない。
白薔薇のアーチ。
銀の星旗。
あの夜会で、何かが始まった——あるいは、あの夜会のずっと前から、何かは動いていた。
どちらが正しいか。
まだ分からない。
だが、答えを探す起点はある。
処刑の断罪台で並べられた罪状を思い出す。
皇族への不敬。文書閲覧。辺境の金。薬湯の記録改竄。偽造書簡。
一つ一つは、確かに自分の行動と無縁ではない。
しかし、あのように整然と並ぶほど、偶然が重なるはずがない。
誰かが、組み立てたのだ。
今の自分が最初に会う相手は、その断罪の場でもっとも際立っていた人物だ。
ヴァルターは時計台の方向を見た。
茶会まで、あと少し。
アンネリーゼ。
彼女が怒っていることは知っている。
嫌われていることも、分かっている。
それでも、あの瞬間の目の揺れだけは——
ヴァルターは小さく首を振る。
感傷は後だ。
今は観察する。
この半年は、もう一度の試みではない。
全貌を知るための時間だ。
彼は廊下を歩き出した。
磨かれた床に、靴音が静かに響く。
処刑の半年前のこの朝、最初に会う予定なのは、アンネリーゼだった。
ヴァルターは、もっとも会いたくない相手のもとへ向かった。




