第2話 半年前の朝
自分の心臓の音が、やけにうるさい。
ヴァルター=エルンスト=クラウゼは、寝台の縁に腰掛けたまま、しばらく動けなかった。
喉に手を当てる。
熱い。生きている人間の温度だ。
ほんの少し前まで、そこには処刑人の刃が触れていた。
冷たい鉄の感触まで、まだはっきり残っている。
「……夢、ではない」
否定するように呟いてから、ヴァルターは自分で眉をひそめた。
夢ではない、と言い切るには、いま目の前にある現実の方がよほど悪夢じみている。
半年前。
星見の夜会の翌朝。
第二皇女アンネリーゼとの茶会が予定されている日。
暦を握りつぶしそうになって、ヴァルターはどうにか力を緩めた。
深呼吸を一つ。
落ち着け。
整理しろ。
何が起きたのか分からない以上、まずは確認だ。
「入れ」
扉の向こうで控えていた従者へ声をかけると、すぐに恭しく一礼した男が入ってくる。長年クラウゼ家に仕える老従者、オットーだ。
「おはようございます、ヴァルター様。少々お疲れのようですが、ご気分はいかがですか」
「……今は何月何日だ」
「はい?」
「日付だ。言え」
オットーは一瞬だけ戸惑ったものの、すぐに答えた。
「帝国暦四百八十二年、春の第二月、十六日でございます。昨夜は星見の夜会にご出席され、本日は巳の刻に第二皇女殿下とのお茶会、その後――」
そこまで聞けば十分だった。
やはり、同じだ。
断罪の日から数えて、ちょうど半年前。
昨夜が星見の夜会。
今日がアンネリーゼとの茶会。
何もかも、処刑される前の記憶と一致している。
「……鏡を」
「すでにご用意しております」
言われるまでもなく、鏡はそこにある。
磨き上げられた銀枠の大鏡の中には、見慣れた自分の姿が映っていた。
まだ二十歳。
処刑台に立つ直前のやつれもなければ、最後の数日の疲労も見えない。
首に傷もない。
死んだ人間の顔では、確かにない。
ヴァルターは無言で立ち上がり、鏡の前まで歩く。
指先で喉元をなぞった。
何もない。
だが、感触だけがある。
刃の冷たさも、皮膚が裂ける寸前のあの圧迫感も、鮮明に。
「ヴァルター様?」
「下がれ」
「しかし、お支度が――」
「下がれと言った」
珍しく語気が荒くなったのだろう。
オットーは一礼し、それ以上は何も言わずに出ていった。
扉が閉まる。
静寂が戻った部屋で、ヴァルターはようやく息を吐いた。
支配されるな。
恐怖に飲まれるな。
あれが何であれ、今の自分にできることは限られている。
机へ向かい、紙を引き寄せる。
ペン先をインクに浸し、震えを押さえながら書きつけた。
『断罪。婚約破棄。死罪。半年前へ巻き戻り』
そこで止まる。
自分で書いていて、正気を疑う文章だった。
ヴァルターは紙を睨みつけたあと、さらに続ける。
『罪状――皇族への不敬。宮廷機密の不正閲覧。辺境反乱への資金関与。陛下の薬湯記録の改竄。帝位簒奪の嫌疑』
そして、最後に一行。
『アンネリーゼは、処刑直前に一瞬だけ目を揺らした』
そこまで書いたところで、ヴァルターは小さく舌打ちした。
何を記録している。
最優先はそこではないだろう。
だが、あの一瞬がどうしても引っかかっていた。
第二皇女アンネリーゼ。
氷のように美しく、正しく、そして容赦なく婚約を切り捨てた女。
彼女がヴァルターを嫌っているのは、疑いようもない。
それでも。
あの瞬間の揺れだけは、見間違いではなかった。
「……くそ」
思考が散る。
まずは現実確認だ。
ヴァルターは机上のナイフを取り上げると、左手の親指に浅く刃を滑らせた。
ぴり、とした痛み。
すぐに珠のような血が浮かぶ。
痛い。
夢ではない。
当たり前の確認なのに、なぜか少しだけ安心した自分に気づいて、ヴァルターは苦く笑った。
死んだと思ったら生きていて、その生を確かめるために自分の指を傷つける。
まるで愚か者だ。
だが、愚かでも構わない。
確認しなければ前へ進めない。
次に彼は窓辺へ向かった。
カーテンを引くと、春の朝の光が差し込む。
宮廷の庭園にはまだ露が残っていて、遠くには昨夜の夜会で使われた飾り灯籠が片付けられずに残っていた。
白薔薇のアーチ。
天体を象った青銀の旗。
昨夜、確かに見たものばかりだ。
星見の夜会。
毎年開かれる宮廷行事の一つで、皇族と有力貴族が一堂に会する。
政治的にも意味のある夜会だが、その時のヴァルターにとってはただ面倒な社交の場でしかなかった。
――そして今なら分かる。
あの日は、始まりだったのだ。
断罪に至る半年の、最初の一歩。
「いや……待て」
ヴァルターは眉間を押さえる。
本当に“始まり”か?
断罪の証拠があまりに綺麗に揃いすぎていたことを思い出す。
皇族への不敬。文書閲覧。辺境の金。薬湯記録。偽造書簡。
一つ一つは独立しているようでいて、妙に噛み合いすぎていた。
偶然ではない。
誰かが積み上げたのだ。
問題は、その“誰か”が一人なのか、それとも複数なのか。
そこまで考えた時、再び扉が叩かれた。
「ヴァルター様。お召し替えの準備が整いました」
今度は若い侍従の声だ。
ヴァルターは一瞬、返事をためらった。
このまま部屋に閉じこもって、徹底的に状況整理をするという手もある。
だが、それは悪手だろう。
今日という日が本当に半年前と同じなら、自分の行動が大きく変われば周囲に違和感を与える。
まだ、何も知らないふりをした方がいい。
「入れ」
侍従が入ってくる。まだ顔も幼い少年で、ヴァルターを見て少しだけ緊張したように肩をこわばらせた。
その反応に、ヴァルターは無意識に眉を寄せる。
そうだった。
この頃の自分は、使用人たちからひどく恐れられていた。
怒鳴るわけではない。手を上げるわけでもない。
ただ、冷たく、正確で、情けをかけない。
それだけで、人は十分に怯える。
「何か不備でもございましたでしょうか……?」
少年侍従が怯えたように尋ねる。
ヴァルターは一瞬、何のことか分からなかった。
どうやら自分が無意識に彼を睨みつけていたらしい。
「……いや。お前のせいではない」
「は、はい」
ぎこちない返答。
それだけで、妙な違和感が胸に残る。
こんなふうに人を委縮させていた男が、婚約者から信頼されるはずもない。
いまさらながら、そんな当然のことを思った。
着替えを終え、ヴァルターは食卓につく。
朝食はいつもの通り、焼きたてのパン、温かなスープ、卵料理、果実。
毒の心配が一瞬頭をよぎって、彼は自分で自分に呆れた。
毒殺されたわけでもない今の時点で、さすがに早すぎる。
……いや、待て。
“今はまだ”というだけかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、せっかく整えた呼吸がまた浅くなる。
駄目だ。
焦るな。
今の自分は、まだ何も失っていない。
少なくとも、表向きは。
「本日の茶会ですが」
オットーが予定を確認するように告げる。
「殿下のご機嫌を損ねませぬよう、どうか――」
その言葉に、ヴァルターは思わず笑いそうになった。
損ねるも何も、半年後には婚約を破棄され、断罪の場に立たされるのだ。
今さら機嫌も何もないだろう。
……だが、それは自分だけが知っている未来だ。
ヴァルターはスプーンを置いた。
「オットー」
「は」
「今日の茶会で、私は何か失礼をしたか」
老従者は目を丸くした。
「まだ始まってもおりませんが……?」
「いや、一般論としてだ」
「ヴァルター様は……その……やや率直に過ぎるきらいがおありです」
「率直、か」
「皇女殿下は聡明なお方ですが、お心の機微まで政治で測るようなお話は、もう少しお控えいただければと……」
苦労しているのだな、と他人事みたいに思う。
つまりこの時点ですでに、自分は婚約者としてかなり駄目だったのだ。
そこへ、誰かが少しずつ火をくべれば、あの断罪の場は完成する。
「分かった」
ヴァルターは短く答え、席を立った。
「茶会へ行く」
「かしこまりました」
当然の返事。
だがヴァルターにとっては、処刑台へ向かうのにも似た重さがあった。
アンネリーゼと会わなければならない。
断罪を言い渡したあの声を、もう一度聞かねばならない。
そして確認する必要がある。
いま彼女は、本当にまだ“半年前の彼女”なのか。
それとも。
廊下へ出る直前、ヴァルターは鏡に映る自分へ視線を向けた。
整った顔立ち。
高慢そうに見える目元。
感情を削ぎ落としたみたいな無愛想な口元。
なるほど、と妙に納得する。
こんな男を、好きになる人間の方が珍しい。
だが、好かれる必要はない。
今はまだ。
知ることが先だ。
あの断罪が何だったのか。
自分はなぜ殺されたのか。
そして、どうして半年前に戻ったのか。
そこまで考えて、ヴァルターはそっと目を細めた。
「……確かめよう」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「全部だ」
そして彼は、半年後に自分の婚約を破棄するはずの第二皇女のもとへ向かった。




