第12話 皇女の視線
アンネリーゼは、自室の窓辺に立っていた。
庭園を見ているようで、実際には何も見ていない。
頭の中にあるのは、ヴァルターのことだ。
おかしい、とアンネリーゼは思った。
三日前の茶会から、その違和感が始まった。
ヴァルター=エルンスト=クラウゼ。
クラウゼ公爵家嫡男。婚約者。
彼女がこの婚約について、最初から選択の余地があったわけではない。
政治的な決定だった。
アンネリーゼはそれを承知した上で、婚約者として彼と向き合ってきた。
彼は冷たかった。
傲慢だった。
会話をするたびに、彼女の意見は否定されるか無視された。
嫌いか、と問われれば——嫌いだ、と答える。
それは今も変わらない。
だが、茶会でのヴァルターは、いつもと違った。
何が違ったのか。
言葉が柔らかくなった——わけではない。
態度が改善された——とも言い切れない。
違うのは、彼の目だった。
以前のヴァルターは、話しながら常に「相手の意見の欠点を探している」ような目をしていた。
それはアンネリーゼも承知していた。彼はそういう人間だ。
だが茶会での彼は、違う目をしていた。
相手の欠点を探しているのではない。
何かを「測っている」目だ。
距離を計っているような、あるいは何かを検証しているような——
その目が、不気味だった。
「レナ」
アンネリーゼは侍女を呼んだ。
レナが静かに入ってくる。
忠実で、目立たず、表情を読みにくい侍女だ。
「ここ数日のクラウゼ公子の動向について、何か耳にしたことはありますか」
レナはわずかに目を伏せた。
「文書庫へ行かれたとは聞いております」
「何のために」
「存じません。ただ、通常の閲覧ではなく、かなり細かく記録を当たられていたと……」
「誰から聞きました」
「文書庫の下働きの者から、少し」
アンネリーゼは頷いた。
文書庫。
ヴァルターが正式な権限を持って入れる場所だ。
だが、なぜ今のタイミングで。
「他には」
「公爵家の私用で辺境関係の記録を確認されたとのことです。ただ、実際に見ていた記録が、辺境補助金だけではなかったという話も……」
「何を見ていたのですか」
「薬湯関係の棚の周辺を確認されていたようで」
アンネリーゼの手が、わずかに止まった。
薬湯。
父が飲む、侍医の処方した薬湯だ。
それが何故、ヴァルターの関心を引く。
アンネリーゼは窓の外へ視線を戻した。
庭園に夕暮れが差し込み始めている。
ヴァルターは私欲で動く人間だと思っていた。
自分の利益と公爵家の利益のために、宮廷を利用する男だと。
それは今も、全面的に否定できない。
だが——
薬湯記録を調べるのは、なぜか。
辺境の補助金記録を調べるのは、なぜか。
その二つを同じ日に確認しているのは、なぜか。
どちらも、公爵家の直接的な利益には結びつかない。
「公子の動きを、さりげなく見ておいて」
アンネリーゼは静かに言った。
「公子が宮廷のどこへ行き、誰と話しているか。日常の範囲で、あくまで自然に」
「……かしこまりました」
レナは頷いた。だが、わずかに表情が揺れた気がした。
アンネリーゼはその揺れを見逃さなかった。
「レナ」
「は」
「何か気になることがありますか」
「いいえ。特には……」
少し間があった。
「ただ——公子様は、最近怒鳴られないとは聞いていましたが、それ以上のことは分かりかねます」
それだけ言って、レナは頭を下げた。
一人になってから、アンネリーゼは考えた。
ヴァルターが怒鳴らない。
態度が変わった。
文書庫で薬湯と辺境の記録を調べていた。
どれも断片的だ。
だが、以前の彼ならしないような行動が、重なっている。
理由が分からない。
だからこそ、不気味だ。
ヴァルターを感情的に嫌いであることと、政治的に警戒すべきかどうかは、別の問題だ。
アンネリーゼは皇女として、ヴァルターへの対応を考え直す必要があると判断した。
単純な嫌悪だけで動くのは、この場合、賢くない。
彼が何を探しているのか。
何を目的にしているのか。
それを把握した上で、対処を決める。
そのためにはまず、情報が必要だ。
アンネリーゼは窓から離れ、椅子に腰を下ろした。
レナは信頼できる侍女だ。
ただし、彼女自身がヴァルターを恐れているという問題がある。
観察という仕事を、上手くこなせるかどうか。
それだけが、今は少し気がかりだった。




