第1話 断罪の朝
人は、自分が死ぬ瞬間には何か劇的なことを考えるものだと思っていた。
走馬灯とか。
後悔とか。
あるいは、愛する誰かの名とか。
けれど実際にその時が来てみると、ヴァルター=エルンスト=クラウゼの頭にあったのは、ひどく冷めた確認だった。
――ああ、やはりここまで来たか。
高い天井。
磨き上げられた白大理石。
列を成す貴族たち。
その最奥、玉座の前に設けられた断罪の場。
帝国の心臓たる宮廷大広間は、本来なら祝賀や叙任のための場所だ。
それが今は、たった一人の青年を裁くためだけに、やけに静かだった。
ヴァルターは両手を後ろで拘束されたまま、中央に立たされている。
クラウゼ公爵家嫡男。
若くして宮廷でもっとも恐れられる男。
冷酷、傲慢、容赦なし。
その評判に、間違いがなかったとは言わない。
実際、彼は人に好かれる生き方をしてこなかった。
泣き落としにも、綺麗事にも、情に訴える無能にも価値を認めなかった。
必要なら切る。邪魔なら潰す。害になるなら容赦しない。
それが正しいと信じていたわけではない。
ただ、それが最も効率的だっただけだ。
だから、嫌われること自体には慣れていた。
だが。
「ヴァルター=エルンスト=クラウゼ」
名を呼んだのは、澄んだ、よく通る女の声だった。
第二皇女アンネリーゼ。
金の髪を結い上げ、蒼い瞳をまっすぐにこちらへ向けている。
美しい。あまりにも。
そして、冷たかった。
彼女はヴァルターの婚約者だった。正確には、今日この瞬間までは。
「あなたには、皇族への不敬、宮廷機密の不正閲覧、辺境反乱への資金関与、陛下の薬湯記録の改竄、そして帝位簒奪を企てた嫌疑があります」
静かな声で並べられる罪状に、広間の空気がぴんと張りつめる。
どれも重い。
どれも致命的だ。
どれか一つでも真実なら、命はない。
そして厄介なことに、そのすべてが完全な嘘というわけでもなかった。
宮廷機密は見た。
辺境への金の流れも調べた。
薬湯の記録にも触れた。
帝位簒奪など企ててはいないが、そう読める書面を作られてもおかしくない立場ではあった。
真実に偽を混ぜる。
そうすれば、人は簡単に“もっともらしい悪”を信じる。
見事なやり口だった。
「加えて」
アンネリーゼは一度だけ息を置き、続ける。
「わたくしは、クラウゼ公子との婚約をここに破棄します」
ざわ、と貴族たちの間に波が走った。
当然だ。
これはただの裁判ではない。
皇女による、婚約破棄の宣言でもある。
舞台としてはあまりに出来すぎている。
ヴァルターは薄く笑った。
「……大したものだ」
「何か申し開きはありますか」
「今さら?」
問い返すと、アンネリーゼの睫毛がかすかに揺れた。
彼女はヴァルターを嫌っている。
少なくとも、そう見える。いや、実際にそうなのだろう。
当然だと思う。
これまでの彼は、婚約者でありながら優しくしたことなどほとんどない。
危険な侍女を遠ざけ、余計な人間を切り、必要とあれば彼女の意向すら無視して動いた。
事情があった場面もある。だが説明しなかったのは自分だ。
理解されないのは当然だった。
だから、婚約破棄そのものには驚かない。
だが不思議だった。
あまりにも綺麗に、罪が揃いすぎている。
まるで最初から、この場へ連れてくるために積み上げられていたように。
「……ありますよ、殿下」
ヴァルターは視線を上げた。
「一つだけ」
周囲が息を呑む。
アンネリーゼは無言で先を促した。
「あなたは、本当にこれを全部、信じておられるのですか」
その問いは、広間に落ちてしばらく消えなかった。
アンネリーゼの蒼い目が、ほんのわずかに揺れる。
だが次の瞬間には、彼女は皇女の顔に戻っていた。
「証拠は揃っています」
「そうですか」
なら、もう言うことはない。
ヴァルターは静かに口を閉ざした。
誰かに助けを求める気はない。
ここで泣き喚いたところで、何が変わるものでもない。
少なくとも、盤面はもう終わっている。
「……ヴァルター」
その時、どこか哀れむような声が横からかかった。
カインだ。
皇帝の甥。愛想がよく、誰とでも打ち解け、社交界での評判もいい。
ヴァルターとは古くから顔見知りで、周囲からは友人のように見られていた男。
「君がここまで愚かだったなんて、信じたくなかった」
痛ましげな顔。
柔らかな声。
今この場でもっとも“善良”に見える表情。
その作り物じみた整い方に、ヴァルターは胸の底が冷えるのを感じた。
そうだ。
この男は、いつだってこういう顔をする。
誰かが落ちる時、誰かが傷つく時、まるで自分も心を痛めているかのような顔で、少しだけいい位置に立っている。
吐き気がした。
「そういう顔は、やめろ」
小さく呟くと、カインの笑みがほんの一瞬だけ止まる。
だがすぐ、彼は肩をすくめてみせた。
「最後まで可愛くないな、君は」
可愛げなど、最初から持ち合わせていない。
それでも――。
ヴァルターは、もう一度だけアンネリーゼを見た。
彼女はまっすぐ前を向いている。
皇女として、帝国の秩序を守るために、悪を裁く者の顔をしていた。
美しいほどに正しい顔だった。
だからこそ、やはり不思議だった。
先ほどの一瞬。
自分の問いに対し、彼女の目は確かに揺れたのだ。
もしも、ほんのわずかでも疑いがあるのなら。
もしも、本当に全部を信じているわけではないのなら。
なら、この断罪は誰のためのものだ?
「罪人ヴァルター=エルンスト=クラウゼ」
近衛が進み出る。
「帝国法に則り、死罪とする」
ざわめきはもう起きなかった。
皆、結末を知っていたのだ。
ヴァルターは膝をつかされる。
首筋に、冷たい空気が触れた。
ああ、これが死か、と他人事みたいに思う。
呆気ない。
ずいぶんあっさりしている。
もっと怒るべきなのかもしれない。
もっと悔しがるべきなのかもしれない。
だが、妙に静かだった。
ただ一つだけ、引っかかりが残る。
自分を陥れた誰かがいる。
それも、おそらく一人ではない。
辺境の金。皇帝の薬湯。消えた記録。偽造書簡。
点が多すぎる。
こんな形で終わるには、あまりにも。
刃が上がる。
その瞬間だった。
「――っ」
アンネリーゼが、息を呑んだ。
ほんのわずか。
誰も気づかないほど小さな変化だった。
けれどヴァルターだけは、確かに見た。
あの蒼い瞳が、悲しんでいた。
次の瞬間、視界が反転する。
白。
音。
冷たさ。
首を断たれたはずなのに、痛みが遅れてくる。
いや、違う。
これは――
「……はっ」
ヴァルターは息を呑んで飛び起きた。
見慣れた天井がある。
自室だ。
豪奢なカーテン、磨かれた机、窓辺に置かれた花瓶。
首に刃はない。
血も流れていない。
喉を押さえる手は震えていたが、温かい。
「な……」
夢?
そんなはずはない。
あれはあまりにも生々しかった。
首を撫でる冷気も、膝をついた床の硬さも、アンネリーゼの目の揺れも、全部。
ヴァルターは転がるように寝台を降り、机の上の暦を掴んだ。
日付を見て、呼吸が止まる。
半年前。
断罪の日から、ちょうど半年戻っている。
しかも今日は――
「星見の夜会、の……翌朝?」
昨夜、宮廷で開かれた夜会。
貴族も皇族も多く集まる、何の変哲もない社交の場。
断罪の日から数えて、確かにちょうど半年前の出来事。
あり得ない。
あり得ない、はずだった。
扉の向こうで、控えめなノックが鳴る。
「ヴァルター様。お目覚めの時刻です。本日は第二皇女殿下とのお茶会の予定が――」
従者の、聞き慣れた声。
断罪の後など存在しないかのような、平穏な朝の声。
ヴァルターは鏡を振り返る。
そこに映っていたのは、処刑台に立つ直前の死人ではない。
まだ何も失っていない、半年前の自分だった。
血の気が引く。
喉がひりつく。
そして、口からこぼれたのは、あまりにも間抜けな一言だった。
「……あり得ない」




