07.それって何語?
「……へぇ。すごいな」
男性は由紀のスケッチブックを真剣に見てくれた。
もっとパラパラと適当に見るのだと思っていたのに。
「……ここのアーチ、こんなに曲げるのは無理じゃないか?」
「どうして見ただけでわかったんですか? そうなんです、強度が足りなくなってしまって」
由紀はその隣のカーブが緩いアーチを指差す。
「これが限界でした」
強度計算をしたら半分も曲げられなかったと由紀は素直に答えた。
「この角度にしたいなら、この裏の壁の中に……」
男性はテーブルの上の紙ナフキンにボールペンでサラサラと案を描いていく。
「……すごい」
実現不可能だと思っていた由紀のデザインが生かせるアイデアに変わったことに由紀は息を飲んだ。
男性は次のページも、その次のページもゆっくりと見ていく。
「これは造るのが大変そうだが、空間が広く見えるからいい案だな」
男性が見てたのは春馬が使ってしまったあのデザイン。
「……それを、コンペに」
使われてしまった物はもう自分の時には使えない。
良い案だと言われたことは素直に嬉しいが、そのぶん余計に由紀の心は沈んだ。
「……実家はすぐに帰らないといけないのか?」
「住むところもお金もないので」
実家しか頼れるところがないと由紀は答える。
「昨日見た通り、事務所は片付け中でもうすぐあの事務所も廃業するんだが、しばらく手伝わないか?」
「え……?」
思いもよらない男性の言葉に由紀は目を見開いた。
「うちに使っていない部屋があるから住むところの心配はいらない。事務所にあるもので何か欲しい物があれば持って行っていい。俺が教えてやれることは何でも教えてやる。事務所が片付くころには、どこか建築事務所を紹介することもできる」
どうだ? と言われた由紀は信じられないと両手で口元を隠した。
「どうしてそんなに良くしてくださるんですか?」
見ず知らずの女を昨日も何も聞かずに事務所に泊めてくれて、今日は部屋と仕事まで与えてくれるなんて。
「昔飼っていた犬に似ているから……かな」
そんなに深い理由はないと笑う男性の笑顔から、由紀は目が話せなかった。
「どうする?」
「お願いします」
「じゃ、決まりで。雇用契約書はすぐに作らせるけれど、とりあえず住むところに案内する」
スケッチブックを由紀に返すと、男性は伝票を持って立ち上がる。
そのまま由紀の分まで支払うと、大きなスーツケースを当然のように持ってくれた。
「あの、お支払いを」
「こういうときは男に華を持たせるものだ」
春馬はいつも割り勘だったのに。
昨日初めて会ったばかりなのに、私にお金がないと知って気を遣ってくれるなんて、本当に優しい人だ。
開いている部屋と聞き、お世辞にも綺麗だとは言えないあの建築事務所の上や隣くらいを想像していた由紀は唖然とした。
連れて行かれたのは高級マンション、いや億ション。
駅直結、下は商業施設、真ん中がオフィス、そしてその上が住居になっている超高層ビルだ。
この人、とんでもないお坊ちゃん?
冗談だと思った、いや、思いたかった由紀の気持ちは見事に裏切られ、本当に部屋は広かった。
ただ、家具や家電は圧倒的に少なく、生活感がない。
「この部屋のものは好きに使ってくれ。欲しいものは自由に買って好きなところに置いてかまわない」
冷蔵庫の中は飲み物だけ。
食器もほとんどなく、炊飯器すら見当たらない。
「ここが今日からお前の部屋だ」
「こ、こんな凄い部屋を……!」
案内された部屋はまるで高級ホテル。
この部屋だけで20畳はあるのではないだろうか?
ベッド、テレビ、シャワーまで!
「あと、あの部屋に住んでいる人がいたんだが、今は荷物だけだ」
「は、はい」
スーツケースを部屋へ置いた由紀は次の場所へ案内される。
「こっちが俺の作業部屋だ。ここにあるものだけは勝手に持ち出したりはしないでくれ」
「もちろんです」
この部屋も20畳くらいあるが、やはり家具や物は少ない。
図面を引く机、本棚には難しそうな本が並んでいる。
「建築のお仕事を……?」
「あぁ、そういえば名前も言っていなかったな。加藤だ。加藤律。一応、建築家だ」
昨日部屋を借りた事務所は加藤建築設計事務所。
やっぱりあの写真の少年はこの人だったんだ。
そういえば、あの写真にはポメラニアンも映っていたけれど。
『昔飼っていた犬に似ているから』って、私があのポメラニアンに似ているってこと?
「私は小林由紀です。二級建築士です」
「二級……、一級は?」
「あ、受けたんですけど、この前もダメで……」
過去に2回受けたがダメだった。
春馬は一発合格だったのに。
簡単に受かるようなものではないけれど、かなり勉強して挑んだのに学科すらダメだったのだ。
「わからないところがあれば教えてやる」
「ありがとうございます」
「ここより奥の部屋は……」
とりあえず半分以上使っていない部屋だということはわかった。
「あぁ、ちょっとごめん。仕事の電話だ」
律は手を軽く上げ、ポケットからスマホを取り出す。
「Ja, Hallo? Guten Morgen」
日本語ではない挨拶に由紀は目を見開いた。




