忘れられない
数週間も待ち望んでいた着信が鬱鬱とした男の部屋に音をもたらした。真冬の夜と同化したワンルームを無差別に照らすスマホには『紗菜』と表示されている。
「さ、紗菜!? 心配したよ、もう連絡ないかと思った。もしこないだみたいなことになったらって気が気じゃなくて。ごめん俺が悪かったんだよな? 紗菜がいるのにほかの女と会ったりして……わざとじゃないんだ、無理だって言ってるのに向こうがしつこくて、俺を信じて欲しい。紗菜のことは何でも理解してるつもりだ。けど俺の考えが甘かった、今は心の底から反省してる。次こそ大丈夫だから、だから、とりあえず一回会おう。いまどこにいる?」
己の行いに対し、謝罪と後悔と反省を息が切れるまでまくしたてる男。その間スマホの向こうからは風の音だけが聞こえていた。
10秒ほど互いに無言が続いて、男の呼吸が戻るのを待っていたかのように紗菜が喋りだした。
「浩平はさ、いっつもそう言うよね、俺が悪かった、反省してるって。でもこれで何回目? もしかして昔のことは忘れちゃってるの? 私は覚えてるよ、忘れるわけないよね。した方はその時だけ必死こいて謝って許されたらすぐにケロッと平気になっちゃうけど――された方は美味しいものを食べても綺麗な服を買っても泣ける映画を観ても色んなことで上書きしようとしても、何があってもずっーと覚えてるの。心にぜったい消えない傷が残るの」
彼女は泣くでもなく喚くわけでもなく淡々としていた。けれど言葉の中には機械越しでもわかるほど憎しみが詰まっていた。
紗菜の言葉を受けた男――浩平は凍える室内にいるのに汗が止まらない。口から漏れるのは白い呼気と弁明だけだ。
「ごめん。わざとじゃない、本当に悪気はないんだ。謝ることしかできないけど、できる限りの事はこれまでもしてきたしこれからもしていく。俺は紗菜が好きだから、紗菜のことを考えて仕事もフルリモートができる会社に変えたし外出も必要最低限にしてる。連絡先だって
「ねえ浩平」
紗菜のいつになく力強い声に浩平は言葉を止めた。そして彼女の次の言葉を待った。
「ほんとうに、ほんとの本当に私のこと好き?」
浩平は張り詰めた緊張の緩みを感じた。彼女が発したのはある意味拍子抜けする言葉だったからだ。
「あ、ああもちろん! 前からずっと大好きだよ!」
「……信じていいの? いいんだよね?」
「大丈夫だよ、お願いだから信じて! 俺は世界で一番紗菜のことを愛してる、紗菜さえ居てくれたら友達も家族も要らない!」
手汗でスマホを落としそうになるが堪え、引き止めるチャンスを嗅ぎつけた浩平はここぞとばかりに台詞を畳み掛ける。鬼気迫る表情で彼女の心に手を伸ばす。大袈裟な内容だがそこに嘘はないようにみえる。
紗菜は屋外にいるらしく、無言の間もスマホのマイクは通り過ぎる電車や疎らなざわめきなどを拾う。
「そっか。うん。そうだよね、わかった」
「はぁよかった、ありがとう本当に。そうだ、よければ迎えに行くよ。今どの辺にいるの? 駅裏くらいかな」
「いまは駅にいるよ」
「あ、そうなんだね! じゃあ改札出てすぐのいつものコンビニで待ってて、すぐ行くから」
「あーうん。それは別にいいんだけど、ね」
「どうかした? ぜんぜんいいよ車すぐ出せるし、あれだったらちょっと遅いけどどこかご飯でも行こうか」
「さっき言ったよね、『紗菜さえ居てくれたら友達も家族も要らない』って」
「う、うん、そうだよ、紗菜さえいてくれるんだったら俺は十分だよ!」
言葉を交わす度に空気が澱んでいく。浩平の喉から急速に水分が抜けていく。
「それってウソだよね。私がウソつかれるのが一番嫌いなの知ってるよね」
その一言が彼の心臓を強く叩いた。
「噓じゃないよ!? ねえ待って! 話を聞いてくれ!」
「浩平が私だけで生きていけるんなら、はじめっからこんな裏切り何回もしないよね。私を好きって言ってくれるけど、色々してくれてるけどぜんっぜん足りない。溺れそうなくらいいっぱいな私の愛が浩平に伝わってないの」
「そんなことない! ちゃんと伝わってきてるよ、紗菜がどれだけ俺の事を好きなのか、大事に思ってくれてるのか痛いくらい伝わってきてるから! 一旦落ち着いて、変なことしないで!?」
「変なことってなに? ほらね。やっぱ私のことがわかってない。好きだ愛してるって口だけで頭の中に余計なことばっか入っちゃってる。私はずっとずっと浩平だけを求めてるのに、私こそ浩平だけがいれば他になんにもいらないのに。どれだけ言っても伝わらないし浩平の気持ちも伝わってこない。だからね決めたんだ。ここ最近ずっと考えてたんだけど、今日話して決心がついたの。大好きな浩平が大嫌いになる前に、自分で最高の終わり方をして、一生浩平の心に残る女になろうって」
「――おい待て何する気
大人一人分くらいある新鮮な骨付き肉を強力なミキサーに無理矢理押し込んだらこんな音がするんだろう。パァーッというクラクションの反響、周囲の叫喚、熟れたトマトを潰したような水気を含んだ轢死の瞬間が甲高い笑い声と一緒に通話口から聞こえてきた。




