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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

元婚約者のお見合いに同席する事になりました

作者: 睦月マメ子

 







 その日、エトルテアの王城は、猫の手も借りたいほどの忙しさだった


 金赤の髪をひと括りにまとめた近衛隊のノエル・シャリエは、半年間の休職を経てようやく復職したばかり。

 本日より本格的な任務が再開するため、第二王子の執務室にて辞令を受けている。



「ノエル、よく戻ってくれた……久しぶりだな」


「テオドール王子殿下におかれましては……ご機嫌麗しく存じます」


「…………、ありがとう。お前も元気そうで、何よりだ」



 にこやかに声を掛けてきたのは、幼馴染であり、この国の第二王子であるテオドール・デュ・コロワ・エトルテア。

 艶のある蜂蜜色の髪を耳に掛けると、彼の端正な顔立ちがあらわになった。赤みがかった深い紫の瞳を細めて、執務机の向こうのノエルに微笑み掛けている。


 なぜ、楽しみにしていた職場復帰が今日なのか。

 真面目な顔で辞令に耳を傾けているように見えるが、ノエルのテンションは底なしに下がっていく一方だ。


 憂鬱な気持ちを抑えつつ、ノエルは直立の姿勢で踵を打ち鳴らすと、拳を胸に当てて宣誓する。



「近衛隊ノエル・シャリエ、テオドール殿下の護衛任務を拝命致します!」


「あぁ。今日は、俺の運命が決まる大切な日になるからな。よろしく頼む」



 柔らかい微笑みでさらりと告げられて、ノエルは引きつった顔を隠すように一礼した。





 ◇





 会場となる貴賓室へ移動する最中、ウキウキと鼻歌交じりのテオドールとは違い、ノエルの足取りはとても重たい。


 ここ最近の騒がしさの原因は、このテオドールにある。

 ひと月ほどの外遊を終えた第二王子が、突然結婚に向けて重い腰を上げたのだ。婚約者候補として名前の挙がった数名の令嬢達と直接話がしたい、と国王に直談判したという。


 彼の気が変わらないうちにと、周囲は諸々の準備を急ピッチで進めることになり、城中ひっくり返るほどの大騒ぎとなっている、というわけだ。

 そのお見合いの日と自分の仕事復帰の日が、偶然にも重なってしまった事を、ノエルはさっきまで知らなかった。


 彼女の仕事はテオドールの身辺警護。

 彼の身の安全のために神経を研ぎ澄まし、有事の際には危険から彼を守り切る。そのために、おはようからおやすみまで彼と行動を共にする。

 つまり、今日のお見合いにも、当たり前のように同席することとなる。


 しかし、ノエルには、彼のお見合いの席に居るのがとても気まずい理由がある。さっきから胃の中がソワソワと落ち着かないのも、きっとそのせいに違いない。


 とにかく、早く終わってくれることを祈るのみ。

 数歩前を行く幼馴染みの周囲を警戒しつつも、ノエルの手は無意識に胃の辺りを擦ってしまうのだった。




 ◇




 貴賓室に到着すると、テオドールはゆったりとソファーに腰を下ろした。とてもご機嫌麗しい様子で、にこやかにお茶など飲んでいる。

 ノエルは部屋の中の防犯チェックを済ませると、会話の妨げにならないよう、少し離れた壁際に控えた。



(ここなら部屋が見渡せるし、……直視を避けられそうだ)



 お見合い予定の令嬢は3名と聞いている。

 ノエルがこれから繰り広げられる光景を思い、はぁ、とため息をついて顔をあげると、こちらを見つめるテオドールと目があった。


 急に目を逸らすのもなんだか気が引けるので、ノエルは目礼をしてから目線を外す。

 任務中に余計な事を考えているのがバレたのかもしれない。

 やり過ごそうと、何事もなかったかのようにしれっと前を向くと、もの言いたげなテオドールともう一度目が合った。



「あの、殿下、なにかご用ですか?」


「そんなすみっこにいないで、もう少し近くに来てくれ」


「いや、しかし」


「何かあったときのために、すぐそばにいてもらわなければ」


「…………かしこまりました、それでは」



 言われるがまま、ソファの後ろにジリジリと移動するノエルを見て、テオドールは満足そうに頷いた。



「やっぱり、ノエルは俺のそばにいてもらうのが一番だな」


「……なるほど。今後の警護の参考にさせて頂きます」


「そういうことじゃないんだが、まぁいい。ぜひ今後に活かして欲しい。あとはだな」



 テオドールが後ろを振り返ったその時、部屋の扉がノックされ、一人目の候補者が到着したと報せが届いた。



「殿下、ご忠告はあとで頂戴します。ご令嬢をお待たせしてはなりません」


「……では、後程、じっくりみっちり念入りに話すことにする」


「? かしこまりました。――――それでは……お入りください!」



 ノエルの号令で扉が開かれた。

 部屋の中に入るなり滑らかに一礼する令嬢に、テオドールが声をかけた。



「よく来てくれた。パメラ嬢」


「ごきげんようテオドール様。本日はお招きいただいて、ありがとうござ……い……」



 パメラと呼ばれた令嬢は笑顔で挨拶をしたものの、顔を上げた途端、目を零れんばかりに見開いた。



「ノエル・シャリエ…………あなた……!」



 かすかに絞り出された言葉はテオドールに向けられたものではない。パメラが凝視しているのは、彼の背後にいる護衛のノエルだった。

 名を呼ばれて素知らぬフリも出来ず、ノエルは規則正しい騎士の礼で応える。



「お久しぶりでございます。パメラ様」


「お久しぶり……じゃないわよ! あなた、人がどれだけ心ぱ……っじゃなくて、……こ、ここで何してるのかって聞いてるのよ!」


「はい、本日よりテオドール殿下の護衛に復帰できました!」


「護衛って……、あなたには他にもっとやるべき事があるでしょう!?」


「…………、えぇと?」


「あなたねぇ……」



 テオドールが居ようがお構い無しにため息をついたのは、ノエルの一つ歳上のパメラ・ティロル伯爵令嬢だ。

 ツヤツヤのミルクティー色の髪に宝石のような浅葱色の瞳、そして卓越した美的センスを武器に、流行の最先端を切り拓く『社交の花』と評される人物だ。

 ドレスアップが苦手なノエルは、幼い頃から幾度となく彼女からお叱りの言葉を受けてきた。



『剣ばかり振っているからかしら、センスが壊滅的ね。そんなケバケバしい道化みたいなドレス……見るに耐えないわ。……磨けば輝くのに、もったいないのよ』


『髪はスッキリ結い上げるのが流行りのスタイルなのに、そんなことも知らないのね! むしろあなたの凛としたイメージにもぴったり合うでしょうに!』


『その色味はひとシーズン前の流行りよ? あなた、だいぶ頑張ってるけどまだまだ勉強不足ね。……は? ほ、褒めてないわよ! 勘違いしないで!』



 ズバズバした物言いの中に見える優しさと、非常に的確なアドバイスは、当時のノエルにとって大きな支えとなったものだ。少女時代の思い出に、思わず笑みがこぼれる。



「パメラ様はお変わりないですね。とても可憐で、お優しい」


「はあ!? 優しくなんてないわ! お人よしなのはあなたでしょう! やっと出てきたと思ったらまた護衛なんて……」


「やけに話が盛り上がるじゃないか二人とも。俺の事を忘れてやしないか?」



 ノエルの視界を遮るように立ち上がったのはテオドールだ。含みのある笑顔で、パメラに着席するように指し示した。

 ノエルは我に返って慌てて一礼する。



「申し訳ございません! パメラ様との再会が嬉しくて、ついお声がけしてしまいました!」


「そ、そうね! 本当にノエル様のおっしゃる通りです。嬉しくてつい話が弾んでしまいましたわ!」


「嬉しくて、ね……」



 テオドールはつまらなそうにボソリと呟くと、後ろのノエルをチラと見て、ソファーに腰を下ろした。

 慌ててパメラも対面に座り、ようやく2人のお見合いが始まる。



「さて、パメラ嬢。ここに呼ばれた経緯はお分かりいただけたと思うが、どうだろうか」


「ようやく、といったところでしょうか。…………まさかノエル様が護衛として復帰なさるとは思いませんでしたが!」



 キッと険しい顔を向けられても、この場にいるだけの護衛は何も言わずに前を向くしかない。視線を戻したパメラはテオドールへ気遣わしい表情を浮かべる。



「ノエル様が婚約者を辞退された時は、テオドール様もお気持ちを落とされましたのに」


「それがノエルの意向なら、仕方なかったさ」



 ノエルの立ち位置からテオドールの表情は見えないが、事もなげに放たれた声に少しホッとする。



(それでいい。私に気を使わずにやってくれ)



 テオドールの護衛兼『元』婚約者であったノエル・シャリエ侯爵令嬢は、遥か遠くを眺めるように前を向いている。





 ◇





 10年前の、よく晴れた夏の日の事――――


 かぁん、と乾いた木の音がやけに大きく響き渡る。

 弾かれた木刀が青い空にくるくると舞うと、尻もちをついたノエルの後方に落下した。

 目の前には木刀を構えたテオドールが、肩で息をしながらこちらを見下ろしている。



『や、やった……! 一本……』



 ノエルとテオドールは、学園の選択科目である剣術の稽古に励んでいた。

 近衛隊長である父の元、幼い頃から鍛錬に参加してきたノエルは、同年代では敵なしの強さだった。

 だがこの日、ずっと二番手に甘んじていたテオドールが、ついにノエルから勝利を勝ち取ったのだ。



『……すごいな、ついにやられてしまった。完敗だよテオドール』


『ハァ……、息も……上がってない、お前に……言われたくないよ』



 汗だくのテオドールから差し出された手を取って、ノエルが平静な顔で立ち上がる。パンパンと土埃を払いながらテオドールに尋ねた。



『勝った方の願い事を1つ聞く、だったな? 何にするんだい?』


『あぁ……、そのために、挑んだんだからな。きっちり守ってもらうぞ』


『お菓子か? 外来語の課題か? 何でも言ってくれ、騎士に二言はないからね』



 誇らしげに言い切ったノエルに、テオドールが満面の笑顔を見せた。



『ノエル、俺の護衛になってくれ、そして、俺と結婚してくれ!』





 ◇





 それでは願いはふたつだろう、と記憶の中の友に抗議する。


 それは恋愛感情ではなく、少年期の気楽な友人関係からくる願いだとわかっている。

 それでも、大好きな友人の気持ちがとても嬉しかった。

 その言葉も、彼と共に過ごした事も、大切なノエルの思い出。


 しかし、私達はいつまでもその中で立ち止まってはいられない。

 ぼんやりと考えて、ノエルは小さく息を吐いた。



「パメラ嬢、今日は本当にありがとう。結果が出るまで、控えの部屋で寛いでいてくれ」



 ノエルが思い出に更けるうちに話が済んだらしく、改まったテオドールがパメラに右手を差し出した。パメラもそれに応える形で、二人が握手を交わしている。

 早く終わったのは意外だけれど、この場が気まずいノエルにとっては喜ばしいことだ。胸を撫で下ろしていると、姿勢を正したパメラが口を開いた。



「お礼など必要ありませんわ。王家の皆様の幸せを願うのは臣下として当たり前の事です。例え国を離れても、私の忠誠が変わることはありませんもの」


「………ん?」



 キリッと改まった表情のパメラから、よくわからない発言が飛び出した。冗談とは思えないその様子に、ノエルの心の内に動揺が走る。



「あの、ど、どういう事で……?」


「なんだ、聞いていなかったのか?」


「私、もっと見聞を拡めて自分を磨きたくて、留学を考えておりますの。婚約者候補にはなれません……というお話です」


「留……学……?」


「そもそも、テオドール様は心に決めた方がおられるのですから、早急にお気持ちを伝えて下さいまし」


「……おや、相変わらず手厳しいな」


「フフ。そのお相手の方はとても鈍くていらっしゃるので、なおのこと急ぐべきかと」


「確かに」



 臆することなく考えを告げるパメラに、テオドールはニヤリと口の端を引き上げた笑顔で頷いている。ノエルは二人の軽いやり取りにポカンと呆けるばかりだ。

 そんなノエルを見て、ふとパメラが表情を和らげた。



「騎士服も良いですけど…………今度は、また以前のように凛々しいドレス姿でお会いしたいものですわね」


「……え?」


「……な、なんでもありませんわ! まずはお元気になられて良かったですわねということです! もう何も言うことはありませんので、私はこれで失礼致します!」



 顔を赤くしたパメラは、ノエルへの言葉を早口で切り上げると、くるりとドレスを翻し退室していく。

 急に話を振られたノエルは目を見開いたが、とっさの事に返答も出来ず、軽く一礼して彼女を見送った。



(以前のように、か)



 ノエルが短く息を吐き出すと、テオドールが突然振り返りボソリと問いかける。



「……彼女と会えて、嬉しかったのか?」


「? はい、お久しぶりでしたので」


「むぅ……、そうか」



 正直に答えると、テオドールの顔が不満げな表情に変わってしまった。ノエルはハッとして頭を下げる。



「殿下、申し訳ございません。護衛の身でありながら思い出話に花を咲かせるなど言語道断」


「……いや、そういうこともあるだろう。俺の心が狭いだけだから気にするな」


「は? はい……」


「それよりも、さっきの続きだ」



 テオドールは体をしっかりとノエルの方へ向けると、迫力のある微笑みを浮かべた。



「お前に『殿下』などと呼ばれると、むず痒くて仕方ない。幼なじみなのだから、昔のようにテオと呼んでくれ」


「し、しかし殿下」


「テオ、だ。さん、はい!」


「て、テオ……ドール…………様」


「……む、まぁ、いいだろう」



 いいだろう、じゃない。

 昔から、自分の要望はしっかり通そうとしてくる奴だった。

 満足そうに体勢を戻すテオドールに、ノエルは思わず恨みがましい視線を送る。



(昔と同じではないんだぞ、まったく……)



 わかっていても、以前と変わらずに親しみを持って接してくれるテオドールに、頬が少しだけ綻むのだった。





 ◇




「ドロール公爵家が娘、ジャクリーヌっ………………参りました」


「ようこそジャクリーヌ嬢、どうぞこちらへ」



 部屋を訪れたのは、ジャクリーヌ・ドロール公爵令嬢。

 ノエル達の2歳上で、薄絹のような銀の髪と若草色の瞳が美しい、とてもたおやかな女性だ。

 お手本のような一礼のあと、ノエルの存在に気付いたジャクリーヌは一瞬だけ息を詰まらせたが、すぐさま何もなかったように振る舞う。流石としか言いようがない。


 彼女も幼い頃から付き合いのある一人だ。

 いついかなるときも穏やかで落ち着いた「淑女の鏡」というべきジャクリーヌは、ノエルにとっての憧れであった。

 当時を思い浮かべていると、主役の2人の視線が自分に向けられている事に気が付いた。



「……こういうことでしたのね。呼び出された時はどういう風の吹き回しかと思いましたが」


「ようやく、目処がたったのでな」


「あの…………、何か?」



 2人の含みのある会話もさっぱりわからない。

 戸惑うノエルの元に、ジャクリーヌが笑みを浮かべてゆっくりと近づいてきた。



「お怪我は……、もうよろしいの?」


「……は、はい。おかげさまで、すっかり良くなりました」


「そう……、よかった」



 ジャクリーヌは安堵の声と共に、ノエルの両手を優しく握る。その顔はとても切なげで、はじめてみる悲痛な表情にノエルは目を瞠る。



「本当に、あなたには感謝してもしきれないのです。私達を助けてくださり、本当にありがとうございました」


「ご丁寧にありがとうございます。ですが、皆様をお守りしたのはテ……、殿下です」


「でも、……あなたが怪我を負ってしまって、私……」


「あれは怪我のうちに入りませんよ。それもすっかり癒えてピンピンしておりますから、本当にお気になさらないで下さい」



 ノエルは優しく笑う。

 この笑顔は虚勢でもなんでもない。ノエルは心の底から、こう思っている。






 ◇






『賊だ! 殿下をお守りしろ!』


『参加者の保護もだ! 急げ!』



 半年前に開催された、王家主催の茶会にて。

 のどかな茶会の席にそぐわない騎士達の怒声と、恐怖に満ちた参加者の悲鳴が庭園に響き渡る。


 参加者は数十名、テオドールと貴族の子供達が集められ、それぞれ親交を深めるために定期的に開催されている会での出来事だ。


 そろそろお開き、という頃に、テオドールのいる辺りから女性の悲鳴が上がった。

 婚約者候補としてパーティーに参加していたノエルは、少し離れたテーブルにいた。悲鳴を聞くやいなや、着なれないドレスに翻弄されながらも、逃げ惑う人波を逆行して必死に彼を探す。



『テオ、…………テオ!』



 人混みの隙間にようやく彼を見つけた時には、テオドールはナイフを持った賊の男と対峙していた。今にも飛びかからんばかりの張り詰めた空気に、ノエルは息を飲む。


 テオドールは賊の男を正面から豪気に睨み付け、背後に令嬢達を庇うように小剣を構えている。

 ジャクリーヌをはじめとする数名の令嬢達は、身がすくんで動けないようで、テオドールの背後に小さく集まり、青白い顔で震えることしかできない。



『動くな!』



 たまらずに飛び出たノエルの声を合図に、事態は動く。

 賊の男は一歩前に踏み込むと、ナイフを振りかざして大声をあげた。



『テオドール殿下! お覚悟!』


『テオ!』



 間一髪、跳ねるように飛びついたノエルが男の腕を捕った。

 そのまま腕を背中にまわして足を払うと、倒れた男の体にのしかかるように拘束する。

 テオドールはふぅっと息を吐き、小剣を収めた。



『ノエル……大丈夫か?』


『それはこちらの台詞だよテオドール様、怪我はないか? 皆さまもご無事ですね? 今護衛の騎士が――――』



 張りつめていた場の緊張が緩む、その時を狙ったように。

 組伏せられている男が爪先をトンと地面に打ち付けたかと思うと、その反動で大きく足を跳ねらせた。

 ブーツの踵から飛び出しているのは、鋭い鈍色の刃――――



『ノエル!!』




 ◇




 左脇腹の辺りがかすかに引きつるように感じて、ノエルはほんの少しだけ身動ぎをする。


 あの時、隠しナイフがノエルの左脇腹を掠めたのは一瞬の事だった。男はやって来た騎士団に連行されたが、何も言わぬまま獄中で亡くなったという。


 ノエルの怪我は軽症だった。

 いつもの騎士服ではなく薄手のドレス姿だったせいもあり、出血もみられたが、この程度なら訓練で数えきれないほど出来るものだし、すぐに治ると気にはしなかった。

 自身の油断が招いたもので、令嬢達にも、もちろんテオドールにだって責任はない。


 ノエルは穏やかに微笑むと、ジャクリーヌの手を握り返した。



「こうして、護衛の任に戻るまでに回復致しました。それも皆様の励ましのおかげです。ありがとうございます」


「……あなたが元気なら、それでいいのです。本当によかった」



 2人は微笑みを交わして、改めて再会を喜んだ。

 元婚約者という微妙な立場のノエルが、護衛としてここに居ることについても、ジャクリーヌは『テオドールのいつものわがまま』と察して受け入れてくれているようだ。

 なんて懐の深い人なのだろう……と考えたところで、ノエルは先程のパメラの言葉を思い出した。



(心に決めた方とは、ジャクリーヌ様のことだろうか……)



 今度は、胸がジクジクしてきた。

 胸やけするようなものを食べた覚えはないのに、朝食を食べすぎたのだろうか? などと考えるノエルに、ジャクリーヌが小首を傾げてにっこり微笑んだ。



「それで、いつ復帰なさるのかしら?」


「復帰……で、ございますか? 任務には、本日から復帰しておりますが……」


「いやだわ、ノエル様ったら。本当におかわいらしい」



 うふふ、と笑うジャクリーヌは少女のように頬を赤らめて、ノエルに耳打ちする。



「テオドール様の婚約者に、ですわ」


「へ?」



 ノエルの口から変な声が漏れる。

 と同時に、にっこり微笑んだままのジャクリーヌの後ろから、かなり不機嫌そうなテオドールがぬっと険しい顔を出す。



「ジャクリーヌ嬢よ、俺の護衛とひそひそ話とは…………ずいぶんと仲が良さそうでずいぶんと距離が近いな」


「まぁ……殿下ったら嫉妬ですの? 研鑽しあった友人同士、仲を深めることの何がいけないのです? お見苦しくってよ」


「ぐっ……」



 吐き捨てるようにジャクリーヌがじろりと睨み付けると、テオドールは図星だったのかぐうの音も出ない。ノエルは慌てて一歩後退し頭を下げる。



「も、申し訳ございません! お話の邪魔をするつもりはなかったのです! 久しぶりにジャクリーヌ様とお会いできたのが本当に嬉しくて……」


「ぐぬぬ……」



 その言葉に、テオドールの眉間のシワが一層深くなる。

 彼の苛立ちはもっともだ。彼と話をするためにやって来たジャクリーヌを独占し、あまつさえ手を取り合ってないしょ話などと……!

 ノエルは猛省して、今度こそ邪魔をしないよう、ジャクリーヌにも声をかける。



「ジャクリーヌ様、お声掛けとても嬉しかったです。殿下がお待ちですので、どうぞお戻りください」



 テオドールは子供の頃から、自分だけが蚊帳の外にいるのを嫌う。ノエルが誰かと話していると、拗ねたような表情で必ず割り込んでくるのだ。

 へそ曲がりを諌めるのは私の役目だったなぁ、と懐かしむノエルは、2人の冷めた視線に気付かない。



「……まだ何もお話しになっていないとは、ヘタレもいいところですわね」


「心外だ。これから話すつもりだからだ。横からゴチャゴチャと余計なことを吹き込まないでいただきたい」


「…………あの……?」



 どう見ても仲睦まじいとは言えない表情の2人に恐る恐る声を掛けると、ジャクリーヌがいつもの穏やかな笑顔に戻る。



「そうそう、私、今日は殿下にご報告をしようと思っていましたのよ。嫁ぎ先が決まりましたので」


「ん?」


「私、結婚することになりましたの!」


「けっ…………こん?」



 幸せいっぱいの報告を、ノエルはポカンと口を開けたまま受け止めた。あまりの急展開に頭が上手く働かない。


 結婚報告……とは? 

 テオドールと? いや違う。じゃあ他の人物と? いつの間に?

 ジャクリーヌ様はテオドールの婚約者候補ではなくなった……ということか?


 祝福の言葉も忘れ、ノエルがひとつずつ噛み締めるように話を整理していると、テオドールがジャクリーヌに歩み寄るのが目に入った。

 まさか、あまりのショックに彼女を責めるつもりか? ノエルは慌ててテオドールを制止する。



「……ちょっ、ちょっと待て! テオ!」


「ジャクリーヌ嬢、あの話が決まったのだな。おめでとう」


「へ?」


「ありがとうございます。先方から強く望まれてのお話でしたが、お会いしたらすっかり虜になってしまうほどのステキな御方ですのよ」


「あちらが君にたいそうご執心と聞いているが……とにかくめでたい話だ。幸せになってくれよ」


「え、えぇ……? い、いいの、か……?」



 一切取り乱すことなく、穏やかに話を進める2人にノエルは大いに戸惑っている。

 もっとこう、怒るとか泣くとか引き留めるとか追い縋るとかしなくていいのか? ノエルは2人の顔を窺うようにキョロキョロと見比べる。

 すると、その思考を読んだかのように、ジャクリーヌが悪戯っぽく顔を寄せた。



「私はね、あの方と出会って、他の方の隣では幸せになれないと気がついたの。どうかあなたも幸せに、ね?」


「ジャクリーヌ様……」


「では殿下、これにてお見合いは終了でよろしいですわね。控えの間におりますので、吉報をお待ちしております」



 ありがとう、と力強く頷くテオドールと握手を交わし、ジャクリーヌは入室したときと同じく完璧な一礼をして、部屋を後にした。





 ◇





 パメラに続いて、ジャクリーヌも婚約者候補を外れるというとんでもなく由々しき事態。ソワソワどころか本格的に胃痛がしてきそうだ。

 これはもう偶然とは思えない、結果には必ず原因があるものだ。

 ノエルは、その元凶と思しき人物をジロリと睨みつけた。



「殿下。一体ご令嬢方にどんな悪事をしでかしたんです?」


「テオだろ。失礼だな、何もしていない」


「でしたら、……やはり私が原因なのでしょうね。お二人とも私に配慮してくださって、本心からお話し出来ないのだと思います」



 ノエルの怪我のことで負い目を感じていたところに、護衛として復活した姿を見て身を引いたとしたら、大変申し訳ないことだ。

 ジャクリーヌ独り占め事案からずっと、苦虫を噛み潰したような顔をしているテオドールを横目に、ノエルは言葉を続ける。



「今からでも遅くありません。他の者に護衛を替わりますのでもう一度お話を」


「今さら逃がすと思うか」


「は?」


「なんでもない。気にしなくてもあれは彼女達の本心だ。パメラ嬢の留学も、ジャクリーヌ嬢の結婚も、事前に報告を受けている。彼女達はカモフラージュだからな」


「カモ……フラージュ?」



 テオドールの言葉に引っ掛かりつつも、そう言われてしまえば引き下がるしかない。納得のいかない顔にテオドールがフッと表情を緩めた。



「承伏しかねる、といった顔だな。あぁ、本当に久しぶりだ……、そう言えば」


「な、なんだ……?」


「俺に対して会いたかったとか、会えて嬉しいとか、そういう感情はなかったのか?」


「え、えぇ……?」



 嬉しいに決まっているが!?


 そんな恥ずかしい本心など、面と向かって口に出来る訳がない。そのせいか動悸が激しくて、近付いてくるテオドールの顔も見られない。

 キョロキョロと逃げ惑うノエルの顔をテオドールが無理やり覗き込んだ。



「なぜ目を合わせない。言いづらいのか?」


「て、テオドール様にも……お久しぶりですと、ご挨拶しましたけど?」


「そういうことではない。もっとこう……お前の実感のこもった言葉が欲しいんだ、俺は」


「そ、そんなこと言われても……」


「さぁ、どうなんだ? 教えてくれ。彼女たちと同じくらい会えて嬉しく思ってくれたのか? それとも……」



 鬼気迫る表情のテオドールが、ノエルの鼻先まで迫ったその時、ドアをノックする音が部屋に響く。

 美麗な顔を目の前に硬直していたノエルにとってはいいタイミングで助けが入った。



「ほ、ほら、次のご令嬢が来たぞ! いや来ました!」


「ち、もう来たのか。……入っていいぞ」



 テオドールが合図を出すのと同時に、ドアを跳ね飛ばす勢いで部屋に入って来たのは、年若の令嬢だ。明るい金髪と見覚えのある赤紫の瞳に、ノエルはすぐにその人物の正体にたどり着いた。



「おねーさまぁ!!」 


「エリー、もう少し落ち着いて部屋に入れとあれほど……」


「落ち着いていられるものですか! 久方ぶりにお姉さまがいらしているのよ! お兄さまちょっとそこどいて!」


「……エリーゼ、……王女殿下」



 テオドールを乱暴に押し退けてノエルの前に現れたのは、エリーゼ・ル・コロワ・エトルテア王女殿下。もちろん候補者ではなく、テオドールの5歳下の妹だ。

 彼女が産まれた時からずっとそばで見てきたノエルにとっても、かわいい妹のような存在だ。

 これまでは、エリーゼもノエルを姉のように慕ってくれていた。しかし――――



「……エリーゼ王女殿下、お久しぶりでございます。お元気でしたか?」


「……、お姉さま?」


「私は騎士で、エリーゼ様は王女殿下です。幼い頃から気安くお声を掛けてくださいましたが、今後はそういうわけには」



 一騎士に対して、これまでのような親しい口調やふるまいは控えた方がいい――――そんなノエルの説明の途中で、エリーゼの眼にぶわりと涙が溢れ出す。



「いや……いやです! 今まで通りに優しくいいお声でエリー、と呼んでくださいませ!」


「し、しかし」


「お兄様とどうなろうが、私にとっては、大好きなお姉さまであることはずっと変わりません、お願いです……」



 エリーゼは俯いてぐずぐずと鼻を鳴らし、大粒の涙を溢している。

 可愛らしい顔がぐしゃぐしゃになるのは心が痛む。昔からこの子の泣き顔には降伏するしかなかったっけ。ノエルは諦めたような笑みを浮かべる。



「……わかった。では、こうして他に人がいないときだけだ。いいね、エリー?」


「……はい!」


「ほら、涙を拭いて。ドレスに染みてしまう」



 ノエルが差し出したハンカチを受け取ると、エリーゼはえへへ、と泣き笑いで涙を拭った。

 ノエルだってこの関係が無くなってしまうのは悲しかった。なんだかんだと甘えて慕ってくれるエリーゼは、ノエルにとって癒しなのだ。

 ほんわかした優しい気持ちに包まれていると、それをかき消す不穏な気配が視界の隅に現れる。



「ずるくないか」


「は?」


「エリーばかりずるい、と言った」



 例によって、不満そうなテオドールが横から顔を出す。

 そういえば、昔からノエルがエリーゼを甘やかすと『ずるいずるい』と言い出す男だった。

 5歳も下の妹をずるいとはなんだ。兄としてのプライドとかないのか。ノエルは冷ややかに切り返す。



「ですから、何がです?」


「俺も、前と同じような話し方がいい。敬語は嫌だ」



 開き直ったようにふんぞり返る姿に、呆れてため息が出てしまう。

 すると、いつの間にかケロリとした様子のエリーゼがそのやり取りに割って入って来た。



「あら、お姉さまに婚約者として戻って欲しいとお願いするんでしょう? 扱いなど好きなようにお願いしたらよろしいではないですか。羨ましい」


「へ!?」


「エリー……、何を言うんだ」


「そ、そうだよエリー、私はもう」


「バラすなんて、ひどいじゃないか」


「は?」



 何の話をバラすって?

 ノエルは目を丸くして彼の顔を見つめる。

 そんな視線を気にすることなく、テオドールはエリーゼに向かって恨みがましくぶちぶちと文句を言い続ける。いじけた様子の兄に対して、エリーゼは悪びれることなくツンと澄まし顔だ。



「ぐずぐずしてる方が悪いのではなくて? 大兄さまも状況を気にしておいでなのよ、『あいつは大事なことをちゃんと言わないから心配だ』って。だから様子を見に来たの」


「兄上め……、余計なことを……」


「あら、来てみて正解だったわ。この様子じゃお姉様にはまだ何も伝えてないのでしょう?」


「ちょ、ちょっと待ってくれ二人とも」



 当事者のはずなのに話についていけず、ノエルはたまらずに割って入る。



「婚約って? だって私はもう……、それに王太子殿下がなぜ……いや、それはこの際どうでもいいか」


「落ち着けノエル。確かに兄上は関係ないが、一応王太子だからな? どうでもいいは止めような?」



 エリーゼとテオドールの兄とは、次期国王となる王太子殿下だ。

 弟の婚約についてさぞかし気を揉んでいるのだろうが、今のノエルはそれどころではない。

 頭の整理が追いつかず、不敬に当たりそうなギリギリの発言にも気付かない。



「一体、何の陰謀が……?」


「後はお兄様からお話がありますわ。でも、何がどうなっても、みんなお姉さまの味方ですから。また後程、ゆっくりとお話し致しましょうね」



 先程の泣き顔は何処へ行ったのか、兄そっくりの顔でニヤリと笑うエリーゼは、軽やかにステップを踏むように部屋を後にした。



「テオドールさま……、いやもう面倒だ。テオ、一体何を企んでいる?」



 エリーゼの去った部屋に二人きり、テオドールは涼しい顔で、何事もなかったようにソファに座りなおす。

 彼のお望み通りに敬語を取り払い、訝しげな視線を送ると、テオドールはしたり顔で満足そうに頷いた。



「ようやく口調が戻ったか。喜ばしい限りだ」


「……茶化すな。私は本気だぞ」


「…………エリーゼの言葉そのままだ。俺は、お前と共に生きることを諦めていない」



 ノエルは、胸を撃たれるような彼の真っ直ぐな言葉を鼻で笑い、切り捨てる。



「忘れたのか? あの日私は、……荷が重すぎると言ったはずだ。それとも、私のそんな気持ちはお構いなしか?」


「お前だって、俺に黙って勝手に婚約者を降りた。俺に一言の挨拶もなく、な」


「…………それは」


「それに俺は、お前の気持ちは理解したとは言ったが、納得したとは言ってない。お前の思うままにさせるものか」



 ふはは、と悪役のように笑うテオドールに、ノエルはむぐと言葉を詰まらせる。こうやって屁理屈をこねるところも、昔から変わらずに憎たらしい。

 じろりと睨みを利かせるノエルを見て、テオドールは優しく目を細める。



「黙っていたのは悪かった。でも、もう少し付き合ってくれよ。次が今日の本命だからな」





 ◇




 襲撃事件の日から数日後、テオドールとノエルの婚約が正式に発表された。

 怪我の療養のために休職したノエルを心配する声と、婚約を祝う声が沢山寄せられた。

 中でもテオドールは、毎日のように時間を作っては、ノエルの元を訪れた。


 テオドールは時間の許す限りノエルの部屋に滞在し、これまでにない細やかな気遣いを見せてくる。屋内の移動だけでもしっかりとエスコートを欠かさず、ノエルが庭を散歩しようとすると過剰に警戒する。

 そして、時折思い詰めたような、切なげな表情を浮かべるのだ。



(そんな顔をしないでくれ、テオドール)



 はじめは来訪を歓迎していたノエルだったが、ある日を境に彼と目が合わせられなくなってしまう。



『ノエル! なぜだ? なぜ婚約者を辞退した!』



 療養中、手続きのために登城すると、青い顔をしたテオドールに城内の庭園で呼び止められた。家を通して彼の婚約者を辞退すると申し出た翌日のことだった。



『申し訳ございません。やはり私には荷が重すぎることなのです。どうか他の方をご指名ください』


『ずいぶんと堅苦しいな、ノエル……』



 失望が滲む声色に、その顔を見ることが出来ない。

 ただ俯いているしかないノエルの耳に、これまで聞いたことがないほど弱々しい声が降って来た。



『…………俺といるのが、嫌になったのか?』


『まさか……』


『違うと言うなら言ってくれ、なぜだ?』


『……私のことを気にかけてくれたことは本当に感謝している。けれど、こんなこといつまでも続けられないだろう』




 ――――第二王子が、護衛の怪我の責任を取って婚約を決めた。


 体慣らしのために歩いた城下街の紅茶の店で、そんな噂話が聞こえてきた。

 市井のお嬢さん方も、まさかその当人が隣のテーブルにいるとは思わなかったのだろう。その話をさも美しい恋物語のようにうっとりと語り合っていたのだ。


 コソコソと身を潜めていた当事者のノエルは、その話を聞いて確信する。

 あのタイミングで婚約の話が発表された事と、テオドールの様子が引くほどに奇妙なのは、あの怪我のせいなのだ、と。


 王子としてだけでない、友人として心から心配してくれているのはとてもよくわかるし、とてもありがたく思っている。

 ただ、責任をとって結婚というのは、ノエルの望むことではない。

 これから王弟として国王を支える立場となるテオドールには、贖罪という形で将来の伴侶を決めて欲しくない。


 テオドールが心を偽らず、長い時を共に過ごしたいと思えるような、愛する人物と幸せになって欲しい――――



 そう願うノエルが告げたのは、彼との決別の言葉だった。



『……ノエル』


『私は大丈夫だ。しっかりと傷を治して、必ず近衛に復帰する。婚約者ではなくなるが、逢えない訳ではない。改めて友人として、よろしく頼むよ』


『改めて……?』



 明るい笑顔で諭すノエルの言葉の後、力のない小さな呟きと共に右手が差し出される。



『……お前の言いたいことは……わかった』



 ノエルは差し出された彼の手をそっと取り、ゆっくりと握った。

 あんなことを言っておきながら、ここまで育んできたテオドールとの大切な関係が終わる予感が悲しくて、ノエルの目の奥が熱くなる。


 けれど、この決断は間違ってはいないはず。

 心の内からこみ上げるものを隠すように、思いつくままに明るく軽口を叩く。



『……ありがとう、テオドール。君はとても素敵な良い男だ』


『……その言葉を忘れるなよ。とにかく今は、体を労ってくれ。俺は』



 テオドールは言葉を区切ると、握る手に力を込めてノエルの体を引き寄せる。頬が触れるほど耳元に顔を寄せると、掠れた声で呟いた。



『俺は、俺のやるべき事をやる』





 ◇





「本……、命?」



 テオドールが本命だと明言した人物が入室して、ノエルは本日一番の困惑の表情を浮かべている。

 その身を飾るのはきらびやかなドレスや宝石ではなく、無駄がなく機能的な騎士服と、誇らしげに輝く勲章。

 淑やかさとは無縁の力強い足取り。鋭い眼光。そしてよく見慣れた立派なヒゲ。



「ち、父上……」


「おぉノエル、お役目ご苦労。久方ぶりだな」


「……今朝、朝食の時に会いましたが」


「父からの軽いジョークだ」



 ヒゲを揺らしてふぉっふぉっと笑うのは、近衛隊長を務めるシャリエ侯爵、ノエルの父だ。

 専属護衛のノエルが休職しているため、代わりにテオドールの外遊に同行していた父は、今日は休暇だったはず。

 ここに来るなんて、朝食の時には何も言ってなかったのに。ノエルは戸惑いながらも、テオドールへそっと耳打ちする。



「テオ、父上はダメだぞ。母様を好きすぎる」


「……本命とは、お前の考えているような話ではないからな」


「いやぁ、そんな、照れますなぁ」



 うふふ、と照れ笑いを浮かべる侯爵に、テオドールの冷たい視線が突き刺さる。



「近衛隊長からの軽いジョークです、殿下」



 侯爵は、んん、と咳払いをひとつ、視線から逃げるようにノエルに向き直る。



「私と殿下はな、外遊先で調べものをしていたんだ」


「ぞ、存じませんでした」


「無理もない。かなり秘密裏に動いていたからな。殿下、今日は事件の最終報告に参りました」


「事件……?」



 テオドールが頷くと、候爵は改めて騎士の礼をとる。

 先程までの緩やかな空気が一変、静かに張り詰めていく。

 自分が休職している間に何が起きたのか。自然と気が引き締まるノエルに、候爵はゆっくりと口を開く。



「お前が傷を負った、お茶会の襲撃事件の事だよ。今回の外遊は、あの事件の黒幕を暴くためのものだったんだ」




 ◇




 エトルテアの遥か南に位置する小さな国。

 両国の懇親会で、その国の第6王女が、テオドールに一目惚れしたと結婚の申し込みがあった。

 しかし、テオドール本人に好いた相手がいる事と、政略的にも両国共に必要はないと結論が出たため、立ち消えになっていた。


 それから数年、国同士の折り合いがついているにも関わらず、彼女はテオドールとの婚約を諦めきれない。

 エトルテアに向けて何度も書簡を送るが、毎回丁寧に断られ、国王である父親からは、もう諦めなさいと咎められた。

 思い通りにならない苛立ちは日に日に大きくなる。彼が自分のものにならないのは、邪魔者のせいだ、と。


 ある日、テオドールが直々に来訪するという報せが王女の耳に入る。


 テオドールは婚約を結んだものの、ある事件がきっかけで白紙になったと聞いている。新たな婚約の申込みに違いない。


 この日のために美しく磨き上げた肌、豪奢なドレス、派手な大粒のアクセサリー。

 思いつくままに見栄えがするよう着飾り、晴れ晴れとした笑顔で謁見の間に入室した彼女が見たものは、青白い顔で俯く両親と兄弟たち、そして、冷笑を浮かべるテオドールだった。



『俺の命を狙っておいて、ずいぶんとおめでたい格好ですね』



 テオドールは、状況がわからず呆然とする王女に近づくと、一国の王の御前にも関わらず抜剣し、その切先を彼女に向けて言い放った。


 実行犯は口を割ることなく亡くなったが、テオドールは彼の持ち物や武器の製造元、体の癖など小さな情報をかき集めた。

 そこから彼の身元を割り出し、根城を調べると、この王女が黒幕である証拠が山のように出てきた。テオドールはそれを持って、真犯人である王女を糾弾するために入国したのだ。


 愛しい人に剣を向けられ、数々の証拠と共に問い詰められれば、王女は犯行を認めるしかない。

 茶会に賊を送り込み、混乱に乗じて婚約者を傷付けるように命じた。第二王子を狙う刺客であると印象付けて、政敵のせいに出来ると考えた。そうなれば、友好国の王女であり、彼の事を愛している自分が疑われることはない、と。

 喉元に突き付けられた刃に震える王女が口を開くたび、テオドールの眼差しが冷ややかになっていく。

王女の弁明が尽きると、同行していたシャリエ侯爵が、王からの書状を読み上げた。



『我がエトルテア国王は、第二王子であるテオドール殿下の命が危険にさらされたと激昂されています。首謀者には厳罰を望むとのことです』


『わ、私はテオドール様を害そうなどと』


『黙れ。護衛のおかげで大事には至らなかったが、刺客は確かに俺に刃を向けて、命を狙っていた。お前がそう指示したのだろう? これは国同士の重大な問題だ』



 狙いが別であったなど、聞き入れられることはない。他国の王族に刃を向けたという事実だけが裁かれる。

 その行為がどれだけ重大なことなのか、彼女は自分の身をもって知ることになるのだろう。




 ◇





「思う通りにならなければ気がすまない、苛烈な性格の王女でしたから、婚約をソデにされて殿下への憎しみを募らせたんでしょう。他国の王子殿下の殺害未遂ですから、かの国の王も庇い立てることをせず、厳しく処断する旨報告がありました」



 父からの報告を呆然と聞いていた当事者のノエルは、戸惑いを隠せない。



「な、なぜ……今になってあの事件を……?」


「改めて婚約を申し込むためには、事件をあのままにしておけないだろう」


「またその話を……私は、君に幸せになって欲しいのに」



 ようやく、テオドールがその一歩を踏み出したと思っていたのに。

 ボソリと呟いて、ため息をつくと、テオドールは聞き捨てならないといった様子で反論する。



「お前と居ては幸せにならないとでも? なぜだ? あの傷のせいにするお前ではないだろう?」


「当たり前だろう、この傷は私の勲章だ」



 あの襲撃の場面で動かずに大人しくしている事のほうが、騎士として恥ずべき事だ。

 この傷は大切な人々を守ることが出来た、その証。

 気遣いはありがたいが、責任を負われるような悲しい傷ではないのだ。



「ではなぜ婚約者を降りた? 理由があるのだろう? はっきり教えてくれ。これでは区切りもつけられない」



 眉間にシワを寄せ、切なげに顔を歪ませるテオドールに、ノエルは淀みなく、きっぱりと言い放つ。



「大切な幼馴染みに、望み通りに生きてほしいと思うことは、いけないことか?」


「……え?」


「私が怪我を負ったからと、責任をとって結婚することはない。君が心から添い遂げたいと想う人と一緒に、幸せになってくれ、といってるんだ」



 その言葉に、テオドールと候爵は目を大きく見開いた。



「そんな事を……お前は、……俺のことが不甲斐なくて嫌になったわけではないのか?」


「不甲斐ないとは何の話だ? 私は、怪我の罪悪感で結婚を決めるなと言っているんだ」


「俺は、お前を守れなかった自分が不甲斐なくて仕方ないのさ。だが、罪悪感で結婚というのは違うぞ」



 耳まで赤くなったテオドールは席を立つと、首を傾げるノエルのそばに膝をついた。



「俺が、心から添い遂げたいと思っているのはお前だ、ノエル・シャリエ。改めて、お前に結婚を申し込みたい」


「な……?」


「俺ははじめから、お前と結婚したいと思っていた。幼い頃の決闘の日よりもずっと前からだ。義務や罪悪感で申し込んでるなどとんでもない、お前じゃないとだめなんだ」


 右手を差し出して懇願するテオドールを、ノエルは呆然と見つめている。そんな赤面した顔で見つめられると、こちらまで照れくさくなってしまう。目が回るような恥ずかしさの中で、ノエルはあわあわと彼に訊ねた。



「そんな、だって、あのタイミングで婚約発表されたのは、そういうことじゃないのか? そ、それに、あんなに気まずそうな顔をしてたのは? 君、まるで別人だったぞ!?」


「それは……」


「お互いに、お言葉が足りてないのではないですかな?」



 言いかけた言葉を遮るように、よいしょと侯爵が立ち上がった。呆れたように笑いながら、口ひげを撫でている。

 視線はノエルを捉えたままで、テオドールが応えた。



「……その通りだ。私達は、何も確かめてはいなかったのだな」


「何にせよ、父親の前でする話ではないでしょうし、私はこれで失礼しますよ」



 候爵はテオドールに軽く頭を下げ立ち上がると、動揺している娘の肩に優しく手を添える。



「婚約の発表の日取りは、前々から決まっていたことだった。延期の案も出ていたが、お前は怪我を気に病むことはないだろうと、了承したのは父だ。もう少し配慮すべきだった。すまなかった」


「父上……」


「父は、どんな事になってもお前の決断を尊重する。だから、じっくり殿下と話をして、お前のしたいことを決めなさい」



 侯爵は、娘の背中を軽く叩くと、振り返らずに部屋を出ていった。





 ◇





「目の前でお前が傷つけられたのに、何も出来なかったから」



 侯爵が去った後、二人で隣り合わせにソファに座り、テオドールがポツリと呟いた。



「あの時、なぜ俺は先に剣を収めたのか、なぜ身を呈してでもお前を守れなかったのか、あんなに悔やむことは、これからもないだろうな」



 そう自嘲して、テオドールは短く息を吐いた。

 傍若無人を地で行く彼の思わぬ一面に触れ、ノエルはただその声に耳を傾けている。



「あまりの不甲斐なさに、俺は、お前に見限られると思った」


「そんなことあるものか。私は君の護衛だ、不甲斐ないだなんて思わない。ましてや見限るなんて」


「もちろん、冷静に考えれば、そんな事はないとわかってる。でも、一度頭に浮かぶと、たまらなく怖くなった。離れたらもう会えなくなるのでは、とな。そんな時にお前が婚約者を降りたんだ、眼の前が真っ暗になったぞ」



 にやりと悪戯っぽい笑い方は、いつものテオドールだ。

 あの怪我を、そんなふうに考えていたなんて。

 良かれと思った自分の判断が、テオドールを追い詰めた事を知り、ノエルは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。



「……すまない。君がそんなふうに考えていたなんて知らなかった」


「お互い様だ。俺だってお前が何を考えてるのかさっきまでわからなかったからな」



 テオドールが膝で握りしめる拳に、ノエルは優しく手を重ねた。



「君は不甲斐なくなんてない。何より私は君を守るためにいるのだから」


「わかっている。そう感じたのは、俺の気持ちの問題によるところが大きい」


「気持ちの問題?」


「あぁ。お前がドレスを着ているときくらいは、お前の前に出て、カッコつけたかったから」



 そう言ってはにかんだテオドールを見て、ノエルは心臓を掴まれるような、奇妙な感覚に襲われる。

 胸やけや胃のソワソワする感じはいつの間にか治まったのに、こちらは今まで意識したことのない臓器の感覚だ。

 先日の健康診断では問題なかったはずだけれど、病気だろうか?

 目まぐるしい体調の変化を不思議に思うノエルに、テオドールが痺れを切らした様子で問いかける。



「事件が全部解決してから、改めてもう一度、結婚の申込みをしようと思っていたんだが……、その……、さっきの返事を、聞かせてくれるか?」


「返事……あ、そ、そうだな」



 改めて申し込まれた結婚について、ノエルの返事はとうに決まっている。

 そばにいて欲しいと心から望まれている事など、今のテオドールの目を見ればわかることだ。

 ノエルだって、彼の元を去りたくはなかったのだから――――



「君がそう望むなら、隣にいてもいいだろうか?」


「ほ、本当か!?」


「私だって、君と一緒にいたいんだ。これからも、よろしく」



 テオドールが破顔するのにつられて、ノエルも笑顔になり、そのまま笑顔で見つめ合う。

 幼い頃から、嬉しい時は思いっきり笑う男だったな、とノエルはまた昔を思い出した。例の決闘の後、結婚の申込みを受けたときと同じ顔をしている。



「テオ、決闘の後もそうやって笑っていたよ」


「……そうか?」


「あぁ、あの時も思ったけど、居心地の良さで友達を婚約者に決めるなんて。変わらないね、君という男は……」


「は?」


「ん?」



 急に、空気が張り詰めた。

 敵襲か!? とノエルは辺りを見回すが、部屋の中はシンと静まり返っていて怖いくらいだ。

 何が起きたのか、直前の行動を振り返っていると、ややしばらく動きを止めていたテオドールが、微笑んだままでゆっくりと体をノエルの方へ向ける。



「ノエル、抱きしめてもいいか?」


「えっ……、ああ、どうぞ?」



 ハグなどいくらでも、と両手を差し出したノエルは、がばりとテオドールにぎゅうっと包み込まれる。

 騎士として鍛錬を欠かさずにいるノエルでも、男性との体格差はどうしょうもない。ノエルの体は彼の腕の中にすっぽりと収まってしまった。


 彼の髪が耳にふれてくすぐったい、結婚の話の後で少し気恥ずかしい、だけどずっとこうしていたいくらいに心地良い。どうもいつものハグと違う気がする。

 ノエルが少し身動ぎをすると、テオドールの体が少し離れた。

 テオドールはそのままの体勢で、ノエルの束ねた髪の一房を取り、クルクルと指に絡めて遊んでいる。



「テ、テオ、ちょっとくすぐったいぞ」


「慣れろ。婚約者とはこういうものだ」


「えぇ、……何か怒ってるのか?」


「怒ってない。呆れてるんだ」


「え」



 テオドールため息をついて、指に絡めたノエルの髪に、優しく口づけを落とした。

 ノエルの顔はあっという間に赤くなる。さっきの臓器を締め付けるような感覚がまたやってきた。

 そのまま固まって何も言えないでいると、テオドールがニヤリと、例の悪役のような微笑みを浮かべる。



「俺はやっぱり不甲斐ないようだ。兄上の言う事も一理ある、これからは想うことをしっかりと伝えるとしよう。覚悟しておいてくれ」


「え、そ、それは……」



 彼の言う覚悟とは、一体何のことなのか。

 微笑みに少し妖艶さが滲むテオドールの眼差しに、さすがのノエルもその意味に気付く。

 これまでの色々の全てが繋がって、ノエルは彼の腕の中でただ顔を赤くして狼狽える。

 そして彼女はこの直後から、その覚悟を存分に思い知らされるのであった。





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[良い点] 元婚約者に自分の幸せを見せ付ける最低王子の話かと思ったら存外マトモな話だった。 まあヒロイン視点からしたら序盤そういう風に見えてたからやり方がアレすぎでしたが [一言] 王女の刑は馬に蹴っ…
2024/02/26 12:16 退会済み
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