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「いたぞぉ! 」


「はぁ……?」


 突然の怒号。千郷と青一郎は、抱きしめ合っていた腕の力を緩めた。


 こんな時間に何事だ。


 起きている村人もいるかもしれないが、夜に騒ぎ立てるようなことはしないだろう。


「兄様……」


「大丈夫だ、俺がいる。護衛うんぬんの前に惚れた女は守るに決ってるだろう」


 不安気に見上げると、青一郎は千郷の肩を抱き寄せた。


 再び甘い空気が流れたのも束の間。聖域の後ろから松明の灯りと共に男たちが現れた。


 灯りで見えたのは汚れた獣の毛皮を羽織った者たち。音が出そうな下卑た笑みを浮かべている。松明を持つ手の反対側には鍬や鋤などの農作業の道具。


 集団の背後には熊のような男が鼻息荒く、むきだしの大太刀を肩に担いでいる。


 男は大太刀をのっそりと夜空に掲げた。


「娘を捕まえろォー!」


 男たちの手が伸びてきた瞬間、千郷は青一郎に手を掴まれて駆け出した。


「千郷、走れ!」


 彼とは歩幅に差がありすぎる。女の童に手を引かれて走るのとはワケが違う。風のように速いので足がもつれそうだ。


「にっ……さま! どこへ!?」


「わからん!」


(このまま戻ったら皆が巻き込まれてしまう……!)


 青一郎が向かっているのは森。隣村に一番近い場所だ。しかし二人とも丸腰。襲われたらひとたまりもない。


「とにかくヤツらを撒いてっ、しばらく身を潜めるぞ!」


「はいっ……!」


 全力で走りながら振り返り、千郷に笑顔を向ける青一郎。そんな優しい気遣いができる彼が本当に好きだ。


 こんな状況でも返事をする声が自然と明るくなった。











 玄吾は千郷を見送り、家に帰ってきた。


 妻は布団を敷いている。彼女は掛け布団のシワを伸ばすとほほえんだ。


「おかえりなさい、早かったわね」


「青一郎のヤツが迎えに来てたのだ。やはり結ばれるべき二人なのだろうな!」


 カッカと笑うと、布団の上にどさっと座って彼女の背中にもたれかかる。


「重いわよ」


 文句を言っているがその声はまんざらでもなさそうだ。


 寝間着越しに伝わる柔らかな体温が心地いい。このまま眠ってしまいそうだ。


 百里は玄吾の背中を押しながら彼の方に向くと、膝に頭をのせてやった。


「明日は早いんでしょう?」


「そうだ。朱月と白里と山に入るのだ。明日は山菜採りが主だが」


 彼女の頬に手を伸ばして撫でると、彼女は玄吾の前髪を梳いた。


「いいじゃない。明日のお夕飯は山菜の炊き込みご飯にしましょうか」


「それはいい! 奥さんのご予定は?」


 玄吾は身を起こし、彼女を巻き込んで布団の上に倒れ込んだ。掛け布団の上に寝っ転がると文句を言われたが、知ったこっちゃない。


 額をつきあわせると、百里が頬を染めた。視線をずらし、無理やり口を尖らせる。


「私は染めた布を町へ売りに行くの。店を開くことも宣伝するわ。どれだけの人が来てくれるか分からないけど……」


「お前が染める布はどれも綺麗だよ。お得意様も多いのだろう? きっと来てくれるさ。そしたらお前が架け橋になれるのだな……。いや、百里にしかできないことだと我は思うよ」


 少しずつ顔を離そうとする百里の後頭部を、大きな手のひらで覆った。これで逃げ場はない。


「……なによ」


「夢を語る時のお前はいい顔をしている」


「あなたって顔に似合わずそういうこと言うわよね」


「お前が可愛いからだよ」


 彼は首をわずかにかしげ、彼女を抱き寄せる。小さく声を上げた彼女を唇でなぞろうとした。


 流れ始めた甘い雰囲気をぶち壊すような、戸を乱暴に叩く音が響いた。


 時間も時間なので普段の何十倍も迷惑に感じる。


 顔をしかめて無視しようとしたが、人差し指で額をつつかれた。頬を染めた百里が襟元を直す。


「だーめ。ちょっと出てくるわ」


「待て。我が出る。こんな時間に人が訪ねてくることなどなかっただろう」


「大丈夫よ。お隣のおばあちゃんだと思うわ。引っ越しの挨拶をした時にいつでも頼ってと声をかけたのよ。おじいちゃんが亡くなって寂しいって言ってたから」


 百里は”ね?”と言い聞かせると、額に口づけて彼の腕からするりと抜け出た。











 白夜と白里は外の異変に気が付き、布団の中で目を覚ました。


 白里は布団を払いのけ、素早く跳び上がって玄関へ着地した。


 姉の軽やかな身のこなしはいつ見ても見事だ。彼女は戸にぴったり張り付いて耳を押し付けた。


 その瞳は虎のように鋭い。絵巻でしか見たことがない、異国の獣だ。姉は野山の獣を従えてしまいそうな目力を持っている。


 白夜も布団から出ると彼女の背後に立った。


「悲鳴が聞こえた気がしたのだが。まだ聞こえる……」


「僕も聞こえた。なんだろう……」


「こんな時間に妙だな」


「うん、こんなことって村に来てから一度もないよ」


 玄関でひそひそと話し、二人は眉をひそめた。


 何やら嫌な予感がする。気持ち悪くなるほど胸がざわつく。


 こんな時だからだろうか、神里(かむり)からの言葉が耳の奥でこだまする。


『上に立つ者は村人たちのことを第一に考えろ』


 白夜が戸の取っ手に手をかけようとしたら、白里が低い声を放った。


「ボクが外の様子を見てくる。白夜は何があっても家から出るんじゃないぞ」


「危ないよ! 僕も行くよ」


「ダメだ。お前は次期神里(かむり)なんだ」


「姉さんだって! いつもいつも僕のためにそうやって自分を……」


「当たり前だ、たった一人の家族なんだから。お前は戦うな。無事でいてくれたらそれでいい」


「姉さん!」


 白里は白夜に笑いかけると闇へ消えた。






 嗅いだことのある異臭に顔をしかめた。


 白里は寝間着の袖で口と鼻を覆い、近くの木の背後に身をひそめる。短く息を吐き、隣の家へ駆けた。


 この村に来た時から良くしてくれている家族だ。何年か前に男の子どもを授かり、時々世話を任されている。小さい時の白夜を思い出して楽しかった。


(急に静かになったな……)


 家の裏に張り付いて周りを警戒し、そろそろと壁伝いに移動する。


 勢いよく家の前へ飛び出すと、白里より背が高い女が倒れていた。その後ろでは男も。彼らはこの家に住む夫婦だ。


 二人ともうつぶせに倒れ、腹や胸の周りに血だまりができている。


「……っ!」


 白里は歯を食いしばるとその場に膝をついた。


 本当は気が付いていた。歩を進める度に血のにおいが濃くなっていたことに。吐き気を催す惨状が広がっていることにも。


 生まれた時から戦うために育てられ、何人とも対峙したが実際に血を見たのはほんの数回。それも手合わせで本気を出し過ぎた時だけだ。


 いったい誰がこんなことを。


 彼らに食事を振舞われたこと、普通の生き方を教えてもらったことが脳内をかけめぐる。親や年上のきょうだがいたらこんな感じだろうか、と思ったこともある。


 もっと早く異変に気が付いていたら。犯人が先に我が家に来ていたら。相手が誰だろうと仕留めてやったのに。


「姉さん!」


「バカ白夜! 出てくるなと言っただろ!」


神里(かむり)様に報告しなきゃ! なんか嫌な予感がする!」


「……神里(かむり)様のとこへ行くならあの子も」


 家の中から子どもの泣き声がする。


 いつまでたっても戻ってこない親のことを恋しく思ったのだろう。


(くそっ……!)


 白里は弟に悟られぬよう、拳を握った。爪が皮膚に食い込んだ箇所が痛む。


 こういう時、子どもにはなんて声をかけたらよいのだろう。


 まだ一人では長いこと歩けない幼子だ。言葉だって伝えるのにどれだけかみ砕いていることか。


 まだ教えてほしいことがあるのにどうして。


 白里は子どもを連れ出した白夜を見送ると、武器を取りに家に戻った。











「母さん……?」


「青二郎!」


 早くに床についた青二郎だが、両親が起きたのに気が付いた。寝てからまだ数刻も経ってないだろう。気だるさが体に残っている。


 彼は家族の誰よりも色素が薄い髪を後ろでくくった。


「どうしたの?」


 玄関先に立つ両親に声をかけると、母親が振り返った。


「外が騒がしいのよ」


 父親は引き戸に耳を押し当てている。青二郎も同じように引き戸にくっつく。


 戸の向こうでは、この時間にしては何人もの話し声が聞こえる。どれも焦って早口でまくしたてるようなものばかりだ。


 ざわざわとした胸騒ぎで不安に駆られる。


 青二郎がうつむくと、両親は”大丈夫だから”と肩に手を置いた。


 同時に戸を叩く音がした。激しい叩き方で、相手は焦っているようだった。


「朱月だ! 誰かいるか!」


 兄の親友だ。優しい男で、引きこもりの青二郎の様子を見に来ては外の話をしてくれる。


 両親がおろおろしているので青二郎が戸を引いた。自分から外の空気に触れたのは何年ぶりだろうか。


「青二郎! ご両親……!」


 あまり大柄ではない朱月だが、青二郎たちよりは背が高い。彼は三人のことを見ると悲痛な面持ちになった。


「朱月君、一体何が……」


「隣村の連中が襲ってきた……! ヤツら、どうやら千郷のことを探しているらしい」


 よく見ると彼の寝間着はひどく汚れていた。いつもはどれだけ野を駆けても平気な顔をしているのに、珍しく肩で息をしている。


「千郷ちゃんを? なぜ」


「細かい説明は後だ。女は特に狙われやすい、母御は顔を隠して逃げろ」


 朱月に急かされ、母は干してある着流しを引っ張った。それは娘の百里が染めた新作だ。


「村の西に林があるのは知ってるな。奥に進めば隣の村に行きつく。俺が話をつけておいたから保護してもらえる。朱里もあの辺りで待機している」


「女人なのに大丈夫なの?」


「あぁ見えてくノ一の修行はしていたし、逃げ足は速いんだ。何も心配することはない」


 普段の落ち着きはないが、彼は最後に優しい笑みを浮かべた。


 母が父に肩を抱かれて走っていくのを、青二郎はぼんやりと見送った。


 これが最後かもしれない……。不吉な予感に心が痛んだ。


「お前も行くんだ、青二郎。危ないから」


 心情をのぞいたように朱月に背中を押された。しかし、青二郎は首を振った。


「ううん……。朱里ちゃんが頑張ってるなら、僕もできることをやりたい」


「青二郎、お前……」


「弓矢を扱えるのは兄さんや朱月さんだけじゃないんだよ」


 そこにはもう、年がら年中家に引きこもる少女のような少年はいなかった。


「それなら……お前には話しておこう」


「え?」


 次に見上げた朱月の表情は暗く沈んでいた。先ほどの笑みはただ、貼り付けていただけのよう。彼は玄関先に腰を下ろした。


「ほんの少しでいい……。休ませてくれ」


 青二郎はうなずくと、自室へ弓矢を取りに行った。


 部屋には乱雑に物が置かれている。家族が採ってきてくれた木の枝、植物の蔓など。木箱の中には動物の骨や石、羽と塗料が分けて入れてある。


 窓は高い位置に一つあるだけで、昼間以外は灯りがないと手元が見えない。


 長いこと引きこもっていたからか、暗い場所は好きだ。闇が自分を包み隠して守ってくれるような気がした。だから久しぶりに外に出るのが夜なのは都合がいい。


 小さめの弓と矢を入れた筒を肩にかけた。いつか自分が使う用に、と作った物だ。軽くて丈夫な木で作り、時々手入れをしている。


 ついでに寝間着から動きやすい筒袖と袴に着替えた。


 部屋を出て声をかけようとしたら、朱月が振り向かずに声を発した。


「……百里が死んだ」


「姉さんが……?」


 心臓が木槌で打ち付けられたような衝撃。目を見開き、胸を押さえると呼吸が浅くなってきた。


 自分の呼吸だけがこだまする。ボーッとする頭で姉の名前をつぶやくと、記憶の中の姉が笑いかけた。


 活発で男勝りで、厳しいが誰よりも優しい。青二郎が神里(かむり)から職人として認められない、と言われても無理に外に連れ出すことはしなかった。


『山や森に入るのは好きだから材料集めはまかせなさい』


 そう言って兄と笑って肩を叩いてくれた。


『我も協力するぞ!』


 彼女が新しい義兄(あに)と幸せそうに肩を並べるのを見て嬉しかった。誰よりも幸せになってほしいと願っていたから。


「げっ……玄吾さんは何をしていたの!? 村で最強の男なんでしょ!?」


「百里が先に出てしまったんだよ、外に」


『あんたの作る弓矢はまっすぐどこまでも飛ぶ。あんたの素直な心みたいに……。ずっとそのままでいてよね』


 姉に手を伸ばすと、光の粉となって消えてしまった。いつもの笑顔を浮かべたまま。


「姉さんっ……!」


 また会いたかった。今度帰る時は青二郎のために染め物を仕上げると言っていた。


(僕も直に背丈が伸びるだろうからって……)


 青二郎はにじむ視界で膝をさすった。











 玄吾は燃え盛る集落の中心で長い槍を担いでいた。


「……ぬんっ!」


 獣が下りてきたのだろうか。玄吾は薄汚れた毛皮を突き刺した。獣が汚れているのは煤のせいだろう。


 玄吾は穂を引き抜くと、血が滴る刃を振り払った。直後に獣が大きな音を立てて地面に沈んだ。


 急所を突いたので、獣は死んだことに気づいていないかもしれない。


 玄吾は死に装束のような白い寝間着を赤く染め、ふらふらとさまよっていた。


(百里……)


 やっと一緒になれた愛する女。たった一突きで死んでしまった。獣の牙にかかって。


(もっと強く止めていたら……我が先に出ていたら……)


 後悔先に立たずの意味を、こうしてつらい重い気持ちで思い知らされるなんて。


 玄吾は生まれて初めて愛する人のために涙を流した。いや、そんな綺麗な表現なんかではない。


 むせび泣き、血まみれになるのも構わずに妻の体をかき抱いた。体が熱を失っていくのを止めたくて。


 しかし、真っ赤な血は赤黒く変色していく。時間が経つのが残酷だと憎んだことはない。


 玄吾は妻を寝かせると、土間に転がった槍を手に取った。


 自分の身長よりもずっと長い槍。まっすぐな穂は玄吾の腕と同じくらいの長さで、美しい浮彫がある。


 これはかつて父が愛用していたものだ。大切な形見を血で汚してしまうことに、今はなんのためらいもなかった。


「いやーっ!!」


 女の金切り声が空気を切り裂く。火が爆ぜる音などはかき消えてしまう。


 玄吾はチラと視線をやり、獣に追いかけられている若い女に気がついた。


 乱れて汚れた寝間着。必死に逃げてきたのだろう、長い黒髪はこんがらがっている。


 息が切れ切れで足がもつれそうな女に、獣はためらいなく刀を振り上げた。


 玄吾は血走らせた目をカッと開き、槍を突き出した。


 しかし、穂先が届く前に獣はその場に崩れた。遅れて刀を握った腕がそばに落ちた。腕を失ったことに気がついた男は、肩の先を見て絶叫を上げた。


 女は危機から脱出したことにも気づかず、狂ったように悲鳴を上げながら走り去った。


 すると、そばを獣が駆け抜けた。真っ白な体に光をまとい、鋭い速さで。


 今夜斬った獣たちとは違う、美しい鹿のような。


 神獣、と称したくなる聖なる獣。しかし、その瞳は怒りと悲しみと憎しみに満ちていた。鋭くとがった瞳をのぞきこめば、その眼力に皮膚を切り裂かれるだろう。


「……!」


 名前を呼ぼうとした時には、神獣は森の方角へ消えていった。


 手に赤と銀が混ざり合わない刀を握りしめて。


 それが彼が、鹿のように美しい女を見た最後の夜になった。











 白里は向かってくる者たちの心臓を一人残らず刀で突いた。


 突きの方が殺傷能力がある、と教えてくれた男は我を忘れて槍を振るっていた。獣を一頭残らず始末してやる、と背中が燃えているようだった。


 だが、自分の方が我を忘れているだろう。こうして隣村にまで乗り込んだのだから。


 彼女の周りを村の男たちが囲んでいる。皆、農具を構えていた。女子どもはどこかへ逃がしたのか隠しているのか姿がない。


 おそらくここにいる彼らは戦うことに慣れていない。


 目が違う。皆、瞳に恐怖をにじませていた。白里の好戦的にギラついた瞳に怯えて。


「やーっ!」


 白里と同じ歳くらいの少年が、鍬を振り上げながら走ってきた。


 見よう見まねの構えは隙だらけだ。しかも顔が強張っている。


 そんな柄の握りしめ方では簡単に刀が吹っ飛んでしまう。相手がこの白里では。


『危ない! 姉さん!』


(白夜……)


 ふと、弟の顔がよぎった。


 いつまでたっても武術を身につけることができなかった。だから守ると誓っていたのに。


 白里は口をわななかせ、柄を力いっぱい握りしめた。


「うわあぁぁぁ!!!!!」


『バカ白夜! 逃げろと言っただろ!』


 白夜に怒ったことは何度もある。今でこそしっかりしているが、幼い頃はしょうもないいたずらで困らされたものだ。しかし、今夜ほど怒ったことはなかった。


 白里は村人たちを、毛皮の男たちから守りながら逃がしていた。


 背後をとられたことに気づかず、錆びた刀が白里に襲いかかった。


 そこへ、子どもを大人に預けた白夜が戻ってきた。両腕を広げて飛び出した彼は凶刃をくらった。


『なんでボクをかばった!』


 怒鳴る度に涙が飛び散る。


 袈裟斬りの痕が長いせいで止血できない。手で押さえたが、寝間着に血がにじむだけだった。


 寝間着の裾を包帯にしようと歯で挟むと、白夜が力なく首を振った。


『いっつも守ってもらってばっかだったから……』


 肩で荒い息をする白夜は、血まみれの顔で笑ってみせた。


『それでいいんだ! ボクはお前さえいてくれたら……!』


 たった一人の肉親。村の皆から期待され、神里(かむり)にも頼りにされている弟が誇らしかった。


『姉さん……それはボクも同じなんだよ。姉さんが生きていてくれたらそれでいい。僕の分も……なんて言わない。姉さんは……姉さんが正しいと思ったことを……』


 白夜は最後の力を振り絞るように白里の手を強く握った。


『空の上からずっと見守るのか……生まれ変わるのか……分からないけど、また、会えるといいな……姉さんと一緒にいられて楽しかっ…………』


 彼の頬に伝った涙は白里のものなのか、彼自身の涙なのか分からない。


 彼を村人に任せてからの記憶が曖昧だ。こうなる原因を作った隣村の連中を一掃しなければ、という気持ちが心を支配していた。


 元々は戦士の村で生まれたのだ。闘争本能があるのは当然のこと。今の村に救われてからは牙をしまっていただけだ。


 牙をむき出しにし、その牙で魂を狩る度に自分が自分でなくなっていくようだった。


 血に飢えた獣が大量の血に酔って歓喜するとしたら、今の自分を言うのだろう。


 白里は弟の面影があったり、同じ年頃の少年を手にかけてもなんとも思わなくなっていた。











「朱里ちゃん!」


「せ……じろう? 青二郎!?」


 朱里は赤子を抱えた母親を逃がしているところだった。毒矢を仕込んだ筒で、立ち向かってくる男たちを仕留めていた。


 いつもの巫女服ではなく、忍び装束をまとって。長い髪は後ろでくくった。


 村の大半の人間が林の向こうへ逃げることができた。しかし、よく見知った者たちが来ない。もしかして……と、最悪なことを考えて足がすくみそうになっていた。


 そこへ青二郎が現れ、思わず吹き矢の筒から口を離した。


「僕も手伝うよ」


 手にしているのは、朱里の兄も愛用している小型の弓矢。作った本人が扱うのを拝めるなんて思いもしなかった。


 呆けていたが頭を振り、朱里は笑った。


「なかなか似合ってるじゃない」


「へへ……。まぁね」


「じゃあ、敵が来たら追い払って。無理に仕留めなくていいの。ここの仕事は村人を安全に送り出すことだから」


「え?」


 二人して足元を見た。そこには毒矢のしびれ薬にやられた男たち。汚れた毛皮をまとい、泡を吹いている。


「仕留めてるよね……?」


「久しぶりに使ったからねー、当たり所が悪かったのかも!」


 朱里はいつもと変わらぬ様子で頭をかいた。しかし、筒を持った手を下ろすと眉を落とした。


「ねぇ……。ちーちゃんたちを見てない?」


「僕は見てない……」


「そっか……。青一郎さんと一緒に逃げてたらいいんだけど……」


 と、そこへ再び毛皮を羽織った男が現れた。


 朱里が筒を構えると、男は毛皮を脱いだ。


(……!)


 敵なのに思わず見とれてしまった。


 漆黒の髪、黄金色の猫目。毛皮から現れたのは、朱里と同じくらいの背丈をした少年だった。






「朱里ちゃん……?」


 筒を持ったまま動かない朱里。青二郎が手を伸ばすと、彼女は一歩前に出た。


 まるで何かに魅入られたように、瞳がゆらめいていた。村を焼く火事を写したような。


「あなたは……?」


 彼女が口を動かすと、遠くから村人が逃げてくるのが見えた。父親と子どものようだ。腕に抱えた子どもは泣きじゃくり、どちらの顔も煤で汚れている。


 それを追っている獣に気が付き、青二郎は矢を放った。水色の矢羽根をなびかせ、獣の足元に突き刺さる。


 獣が驚いている間に村人は距離を稼ぎ、青二郎の元へ駆け寄った。


「ありがとう、助かった」


 涙と煤まみれの二人は、近くで見るとあまり似ていない。肩で息をしている村人は子どもの父親にしては若すぎる。


 しかし、今はそんなことを気にしている場合ではない。青二郎は周りを警戒しながら新たな矢を手にした。再び向かってきた獣の足元を狙う。


「早く林の奥へ逃げてください」


「それならば君たちも……。それよりも巫女様は大丈夫なのか?」


「朱里ちゃん?」


 村人が青二郎の背中を指さした。


 確かに先程様子がおかしかったが、と振り返る。


「朱里ちゃん!」


 彼女は毒矢の筒を手放して地面に伏していた。


 村人が林に消えるのを見送った後、朱里に駆け寄った。口元に手を当てるとあたたかい呼気が手にふれ、安心した。気絶してるだけのようだ。


(様子はおかしかったけど持病は聞いたことない……。僕が背を向けている間に襲われたの?)


 周りに敵らしきものは今はいない。青二郎が応戦していた獣が近づくこともなかった。


 青二郎は迷ったが彼女を抱え上げ、近くの茂みに隠すことにした。

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