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ちょっとした解説

 この「松浦長者」の物語は、なにしろ古い話ですから、現代の感覚では奇妙に思える所も多く、とっつきにくいかもしれません。そこで、物語理解のための補助線のようなものとして、私の解釈を(かなりの独断と偏見になりますが)ちょっとだけ書いてみようと思います。。



【なぜ春日の神が人買いを斡旋するのか】


 「松浦長者」ふくめ、前近代の日本の物語に登場する神仏は、現代のイメージ(善良で困っている人を助け悪人を懲らしめる的な)とはかなり異なっているのではないかと思います。

 長者夫婦の脅迫に屈して子種を授ける(そして仏はうそつきだと悪口を言われると腹を立てて憑り殺す)初瀬観音もなかなかのものですが、春日明神が人身売買の仲介をやっているのはそれ以上に異様な感じがします。

 (現代的価値観で)普通に考えたら、神仏というからには、さよ姫が身を売らなくていいようによきに計らってもらいたいものです。なのに、なぜそうはならないのか? 春日明神は人身売買を良しとしているのか、それともとても悪い神様なのか?

 「さよ姫の身売りを良しとしている」という解釈ももちろん成り立ちます。そもそも「松浦長者」は親のために我が身を犠牲にした親孝行の徳を称揚する要素の強い物語なのは明らかですし、儒教道徳的に見れば当時の価値観としてそれほどおかしくもないでしょう。でも、必ずしもそれだけではないかもしれません。


 ごんがの太夫は老僧の姿で現れた春日明神のお告げをうけて、これは氏神様(=さくらのが池の大蛇)の引き合わせに違いないと考えます。一方さよ姫は春日明神の引き合わせだとストーリー上正確な理解をしています。

 このごんがの太夫の考えは単なる勘違いでしょうか? いや、実は春日明神とさくらのが池の大蛇はなにか所縁があるのではないか?

 現代では意識されることが少ないかもしれませんが、春日大社は龍神信仰の地でした。謡曲「春日龍神」では、日本を離れ唐・天竺へ旅立とうとする明恵上人を思いとどまらせようと、春日明神が龍神の姿で登場します。そして、龍神は猿沢の池に帰ってゆくのです(大蛇とさよ姫が帰って来たのも猿沢の池でしたね)。

 さくらのが池の大蛇も、これは龍の一種であると見て良いでしょう。つまり、春日明神とさくらのが池の大蛇は、どちらも龍神であり関わりが深い存在であった。あるいはほぼ同一の神であると考えてみてはどうか? ごんがの太夫は氏神の引き合わせと思っている、さよひめは春日明神の引き合わせと思っている。どちらの理解も正しいのではないか。

 さよ姫がごんがの太夫に買われたのは、大蛇自身が救済されるためにさよ姫を選んでつれてきたかのようにも思えるのです。地方村落の氏神が、自らの身を仏法によって救ってもらうために選び出した、尊い人物がさよ姫だったんじゃないかと思うわけです。

 ちなみに、いわゆる神仏習合思想には、日本在来の神々もまた仏法によって救われるべき衆生であるという観念も含まれています。仏教が上位。それで大蛇は救済を求めていたのですね。


 もう一つ、メタなことを言ってしまえば、これは語り手も聞き手も物語の結末がわかっているからこその展開なのかもしれません。語りの冒頭で、これは主人公が最後に竹生島弁才天になるまでの物語であるということを明示しています。ネタバレ配慮とかそういうのは無い。凡夫であった主人公が神になるまでの苦難の物語のなかで必要な要素として、人身売買もそこに介入する神の存在も理解されている。だから、その要素単独での倫理的善悪はあまり意識されないのかもしれません。



【なぜさよひめが竹生島弁才天になるのか】


 ここから、なぜさよ姫が何のゆかりもなさそうな竹生島の弁財天になるのかもほんのりわかるかもしれません。竹生島にもまた、龍神信仰があります。龍神信仰は水辺に発生します。竹生島なら琵琶湖、春日なら猿沢の池。そして、(これは架空の土地ではありますが)奥州は八郷八村のさくらのが池。

 ここに、日本を縦断する龍神ネットワークが見て取れる……ような気がする!

 いや実際、龍神信仰などは他にも幾らでもありましょうし、それだけでなぜ竹生島弁才天なのかを説明することは出来ないのですが。物語成立当時の、春日社と竹生島(あと、もちろん壺坂観音なども)の関係性がどうであったか、語り手や聞き手の信仰圏の問題も考慮しないと分からない部分かも知れない。

 なお、さよ姫の母の前生は近江の大蛇であるということで、あるいはさよ姫の母の因縁によるものとも考えられます。ですが、このような前生譚のエピソードは「しんとく丸」にも同じ語りがあって、一つの定型となっている(つまり「松浦長者」に固有の要素ではない)ので、そこの関連性は今一つはっきりしません。



【親のために子が犠牲になる「親孝行」の物語……?】


 子供の身売りが一つの泣き所である「松浦長者」ですが、さよ姫と大蛇のほかにもう一つ、身売りする子供のモチーフが登場します。ごんがの太夫が語った八つ橋の子供の挿話ですね。

 親の菩提を弔うために身売りしたさよ姫と、橋を架けるために人柱となった大蛇のあいだを繋ぐようなエピソードとなっています(「伊勢物語」でも有名な、あの八つ橋ですが、「松浦長者」以外でこれと同じエピソードは見られないらしいです。八橋の地名の由来としては、八歳と五歳の子供を川で亡くした母親が、観音のお告げを受けて橋を架けた、というような話は伝わっています)。

 その他、説経節「阿弥陀胸割あみだのむねわり」や、謡曲「自然居士じねんこじ」などに親の菩提を弔うために身を売る子供が登場しています。中世においては(実際に弔い資金調達のために身売りをした子供がどのくらいいたかはともかく)価値観としては一般的なものだったようですね。


 このように、「松浦長者」は親孝行の徳を主題とした物語であることは明らかです。

 が、きちんと読んでみればどうもそれは表面的な部分に過ぎず、根本的なストーリーの目的は「女人救済」にあるように思われます。

 父の菩提を弔うのが主人公の行動の動機ではあれど、結局父の魂が救われたのかどうなのかは語られずに終わってしまうし、さよ姫の行動で救われたのは言うまでもなくさくらのが池の大蛇、さらに言えばさよ姫自身でしょう。親孝行や法華経の功徳と言った当時の価値観に反しない範囲に収めつつも、その実は迫害され苦しむ女性たちの自己救済の物語にそれとなくスライドさせているのがこの「松浦長者」という物語なのです! ……と、私は解釈している。

 いや~巧いことやるなあ~!


 そもそもこの説経節という芸能の担い手は、(かつて多くの芸能民がそうであったように)卑しめられた下層民でした。さらには物語の生成には多くの女性たちが関わっていたとも言われます。

 説経節の登場人物たちは、なにかしら病んでいたり、奴隷の身分に落とされたり、迫害を受けています。そしてそれを跳ね返して幸せを手に入れ、さらに多くの民衆を救う神となるのがおおよそ共通するストーリー。

 説経節の語りはのちに人形浄瑠璃や歌舞伎にも取り入れられていく、庶民に近しい物語でした。今となっては古臭い価値観もあるものの、その中核には、生活の苦しみや世の理不尽に抗う力強さが感じられ、現代においても色褪せない魅力があるのではないかと思います。



 そういうわけでみんな~~‼ 説経節読もうぜ~~‼


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