六段目
そうしてさよ姫は、夢からさめたような心持ちで、茫然としておられます。
「大蛇よ。私は父の菩提を弔うために身を売り、ここまで来て、あなたの餌として供えられたのだから、私の命を取られると言われても露ほども惜しくはありません。早くとって食べなさい、大蛇よ」
と言えば、大蛇が答えるには、
「ああ、もったいない仰せです。今まで人を喰ってきたことを、とても後悔しているのですから。さあ、わたくしの身の上の事を、話してお聞かせいたしましょう。
国を言うなら伊勢の国、二見ヶ浦のものですが、継母に憎まれて、あてどもなくさまよい歩くうちに、人商人にたばかられ、あちらこちらへと売られてゆきました。やがてこの土地で名の知られた十郎左衛門という者がわたくしを買い取り、それはつらい思いをしたものです。その頃この池は小さな川でしたが、近所の人達が集まって、橋を架けようとしておりました。年にひとつずつ橋を架けたけれども、とうとう橋は完成しませんでした。人々は集まって、どうしたものかと相談しました。そのなかで神が憑依した少年の言うには、陰陽の博士を召し出だして占わせようというので、すぐに博士を呼び出しました。
博士が来て、一つ一つ占いました。なんと恐ろしい占いだったことでしょう。博士は見目の良い女性を人柱に沈めるならば、この橋は完成するだろうと占いました。それなら簡単なことだとて、すぐにおみくじを拵えて、引いてみたならば、わたくしを買い取った十郎左衛門が当たりを引きました。そうしてわたくしを沈めたのです。
人柱にされるその時、我が身の余りの悲しさに、
「ああなんとつらいことだろう。八郷八村の里に人はたくさんいる中で、あえてわたくしを選んで沈めるのならば、丈十丈の大蛇となってこの川の主となり、この地の者どもを取っては食い、取っては苦しめて、数々の里を荒らしてやろう」
と、このように悪口し、とうとう沈められて、このような姿になりました。昨日今日の出来事かと思っていたら、いつのまにか九百九十九年ここに棲み続け、年に一人ずつ人を喰い、沢山の人の嘆きをこの身に受けました。その報いでしょうか、鱗の下に九万九千の虫が棲み、我が身を責める苦しみは、たとえようもないものです。なんと苦しいことでしょう。このような時に、あなた様のような尊い姫に出会ったことは、ひとえに仏様の御引き合わせというものです」
と、たいへんに喜びます。
さよ姫はこれをお聞きになり、
「大蛇よ、私は大和の国のものですから、恋しいのは大和です。奈良の都に母が一人おりますが、まだ生きていらっしゃるでしょうか、これだけが気にかかります。ああ、恋しい母上」
と、悶え焦がれてお泣きになる、心のうちこそ哀れというものです。
大蛇はこれをお聞きになり、
「あなた様の故郷が大和であるならば、わたくしが送り届けて差し上げましょう。ご安心くださいませ、姫君」
と言います。さよ姫はたいへんお喜びになり、
「しばらく待っていなさい、大蛇よ」
といって、太夫のもとへ行けば、太夫も奥方も、これはどうした事かとおどろきます。現実とも思えません。
「どのようにして逃れてここまでいらっしゃったのか、どうやって」。
それにたいして姫は、一部始終を語り聞かせれば、太夫夫婦は、たいそうお喜びになりました。
「姫君よ、そんなに都に帰りたいですか。ただただこの地にお留まりなさいませ。どんな大名とでも、縁組をいたしましょう。いかがですか」
と言います。
さよ姫はこれを聞き、
「なんと有難いことでしょう。この度のお情け、忘れはしますまい。私は大和の者ですから、まずは国に帰り、母に会ってから、又参りましょう。おいとまいたします、さようなら」
といって、物憂き陸奥の国を出て行くことこそ、なにより嬉しいことだとて、まずは浜にお下りになります。
「大蛇よ、故郷へ送ってくださいな」
と、さよ姫が言うと、大蛇は承知し、「ではお送りしましょう」と、姫君をその頭上に打ち乗せて、池の底に入ったかと思うと、刹那のうちに、大和の国にその名の知られた奈良の猿沢の池の水際に現れました。池のほとりに姫君を下ろし、「それではおいとまいたします、さようなら」といって、天へ昇って行かれます。そしてもう帰ってこなかったので、「去る」沢の池と、この時から呼ばれるようになったのです。
さよ姫はこれをご覧になり、今はまた大蛇との別れを惜しんで、心細くおなりになりました。それからやがて、大蛇の神体は壺坂の観音として祀られて、それからずっと衆生を救っておられるのです。
その後さよ姫は、奈良の都を迷い迷い歩いて、松浦谷にたどり着きました。かつての屋敷に入ってあちらこちらと見てみれば、築地を軒も壊れ果て、母上もいらっしゃらず、空しくこだまが響くばかりです。
姫君はこれを見て、ああどうしたらいいのだろうと、屋敷を出て、近所の人々に母上の行方を御尋ねになりました。土地の者の申すには、
「姫君様、母御はあなた様がいなくなってからというもの、明けても暮れてもさよ姫が恋しいとお嘆きになって、まもなく両目を泣き潰し、当てもなくさまよい出でられて、行方知れずとおなりです」
さよ姫はこれをお聞きになり、これは夢か現かと、あちらこちらへお尋ねになりましたが、行方は分かりません。しかしこれが親子の縁というものでしょうか、哀れな母上が、袖乞いをなさっておいでのところに再会いたしました。
子供たちは口々に、「松浦物狂い、こっちへ来い、あっちへ行け」と言って、母上をなぶっております。
さよ姫は夢中になって、するすると走り寄り、母にひしと抱き着いて、
「ああ、母上様、さよ姫が参りましたよ」
と涙と共に言いました。奥方はこれをお聞きになり、
「さよ姫とは誰の事か。これ、子供よ、このわたしがかつて松浦谷に住んでいた時、さよ姫という娘が一人ありましたが、人商人がたばかって、行方知れずになってしまい、もうこの世にはいないものです。わたしはこの通り盲目なのだから、打たれたとてわたしを恨むでないぞ」
と、杖を振り上げ、そこら中に振り回しました。さよ姫はなお悲しんで、かの如意宝珠を取り出し、母の両眼に押し当て、
「善哉なれや明らかに、平癒なれ」
と、二、三度お撫でになると、母上の両眼はぱっと開いて、これはこれはとばかり、大変にお喜びになったのです。
その後、さよ姫は母上を伴って、松浦谷目指してお帰りになれば、かつて付き従った者どもも、そこかしこより参上し、奉公いたしますといって、たくさんの家臣が付き従いました。数々の棟を建て並べ、再び裕福な家となったのです。
さよ姫は奥州に使いを立てて、太夫を召し出だし、沢山の宝をとらせました。また、太夫夫婦を家臣として頼りにし、月日を重ねて、末代まで栄えたとのことです。
再び松浦長者の家を復興して後をお継になった、これもひとえに親孝行の志に天上の神々が胸打たれたからこそでありましょう。
やがて歳月がすぎゆきて、さよ姫は八十五歳にして大往生を遂げられました。花降り妙なる音楽が響くなか、三世の諸仏に連れられて、かぐわしい香りに包まれ、紫雲たなびく西の彼方へと旅立たれたのでございます。人々はこれを御覧になり、このような事は実に珍しく霊妙なことだと、口々に語りあいました。
そうしてさよ姫は、近江の国竹生島の弁才天と祀られました。大蛇と縁を結ばれたゆえに、この弁才天は頭に大蛇を頂いておられるのです。この島は、四方が欠けた島なので、十方山とも申します。夜の間にできた島なので、明けずが島とも伝わります。竹の三本生えているので、今の時代まで、竹生島とも申します。
昔も今も、親孝行の人は、この物語を決して疑うものではありません、親不孝者どもは、天上の神仏の加護もありません。生きている親は言うまでもなく、亡くなった後まで孝行を尽くしなさい。また、竹生島は女人をお守りになるがゆえに、我も我もと竹生島へ参らないものはないのでございます。
これこそが、身を売り姫の物語。上古も今も末代までも、類稀なる奇跡として、感銘を受けぬものはないのです。
※この翻訳は寛文元年山本九兵衛版「まつら長じや」をベースに、うろこかたや孫兵衛版「まつら長者」、奈良絵本「さよひめ」、奥浄瑠璃「竹生島之本地」などから不足と思われる部分を補い新たに構成したものです。また、『新潮日本古典集成 説経集』(室木弥太郎 校注、新潮社)所収の「まつら長者」の校訂・注釈を大いに参考にさせていただきました。