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五段目

 こうして太夫は人身御供の用意を整えて、八郷八村の人々に知らせようと思い、葦毛の馬に打ち乗って、村中に触れ回ります。

「此度はごんがの太夫が生け贄の当番に当たったが、都へ上り姫を一人買い取って下り申した。これを人身御供にお供え申す。皆々お出でになり御見物なされよ」

と、触れて回れば、土地の人々はこれを聞いて、さくらのが淵のほとりに桟敷を作り小屋を掛け、身分の上下問わず大勢集まり騒ぎ立てます。

 かたや哀れなさよ姫は、ふるさとへの形見の文を書こうと、硯に手をかけて文字を認めようとすれども、涙に暮れてどう書いたものやら分からなくなり、傍らに筆をからりと捨てて、消え入るようにお泣きになります。奥方をはじめ、側仕えの女房たちは、嘆かれるのも全く無理のないこと、哀れなことだと、皆涙を流します。

 太夫はこれを見て、はやくも明日に決まったことを、姫に詳しく語って聞かせようと、

「さて姫よ、あなたをここまでお連れしたのは他でもない。あの山の奥に大きな池があり、年に一度人身御供を供えておりますが、今年は私がその当番にあたり、あなたをお供え申すのです。御覚悟あれ」

と言いました。

 さよ姫はこれを聞いて、

「太夫殿、かねてよりどのような憂き目にも遭う覚悟ではありましたが、このようなこととは夢にも思いませんでした。しかしそれも仕方のないこと。これも父の菩提のためと思えば、この上は恨みにも思いますまい。国元にいらっしゃる母上がどれほど嘆くであろうかと、そればかりが気にかかることでございます」

と、涙をこぼしてお嘆きになります。

 早くも時が過ぎ、哀れな姫君をいかにも華やかに飾り立て、網代の輿に乗せ、十八町向こうにある池のほとりへと急ぎます。貴賤群集が満ち満ちて、見物に出ております。御輿をある所に据え置きますと、姫君は御輿からお出でになり、そこから舟にお乗せして、築島目指して漕ぎ出します。

 浮き木の舟は早くも築島について、三段の棚を飾り、四方に注連を張りつつ、上の棚に姫を供え、中の棚には神主、三番目の棚には太夫が上がります。やがて神主が礼拝申すには、

「ああなんと有難き次第か。この姫をごんがの太夫の、所繁盛のためにお供え申します。八郷八村をお守りくださいませ」

と、数珠をさらさらと押し揉み、肝胆砕きお祈りになります。

 同じく太夫も身を清め、肝胆砕き申すには、

「今年はそれがしが、生け贄の当番になり、一人の姫を買い取って、ただいま人身御供にさしあげます。国所安穏をお守りくださいませ」

と、様々の祈誓をかけ、唱えごとを申します。それから神主と太夫は陸へ帰ってゆきました。陸には我も我もと人々が並んでいます。

 哀れな姫は三階の棚にただ一人、途方に暮れていらっしゃる、その心のうちこそ哀れなものでございます。

 無残や、今こそ姫の最期かと、上下の者どもが騒ぎますが、しかし何も起こりません。人々はこの様子を見て、

「なんと情けないことだ。神主が余計な唱え事をしたせいで大蛇のご機嫌を損なったか。ああ恐ろしい」

と言って、上下のものは皆々家に帰り、門も木戸も閉じて、妻や子に至るまで、大変に嘆き悲しみました。それぞれ不安を抱えつつ、音も立てる者もありません。

 さよ姫はただ一人、涙に暮れていらっしゃいます。心細くも目を閉じて、念仏を唱えていらっしゃいます。


 すると恐ろしや、俄かに空がかき曇り、風雨は激しく、雷がしきりに鳴り響き、さざ波打って、その丈三十丈ばかりの大蛇が現れました。水をまき上げ、水を蹴立てて、紅の舌を振り、三階の棚の中段に頭を持たせ掛け、今にもさよ姫を一口に飲み込もうと火炎を吹きかけます。しかし姫は少しも騒ぐ様子もなく語りかけます。

「大蛇よ、おまえも心ある者ならば、少しのばかりの時間をおくれ。そしておまえもそこで聴聞するとよい」

と、かの法華経をとり出だし、高らかにお読みになりました。

「一の巻は、冥途にまします父のため。二の巻は、奈良の都にいらっしゃる母のため。三の巻は、わが一門のため。四の巻は太夫夫婦のため」

そして五の巻をとり出だし、

「これは私自身のために」

といって高らかにお読みになったのです。

「一者不得作梵天、二者帝釈、三者魔王、四者転輪聖王、五者仏身、云何女身、速得成仏」

と、このように回向なさいます。

「そもそもこの提婆達多本と申すものは、八歳の龍女の即身成仏を説いたものです。さあ、おまえも蛇身の苦しみから逃れなさい」

と言って、経をくるくると巻いて大蛇の頭にお投げになると、なんと有難いことか、大蛇の十二の角がはらりと落ちました。なおも、「この経頂け」と、上から下へお撫でになれば、一万四千の鱗が一度にはらりと落ちました。それは例えるならば、三月のころ、桜の花の散るがごとく、皆散り散りにおちたのです。

 大蛇は、「ああ、ありがたや」と、そのまま池に入るかと見えましたが、たちまちに十七、八の上臈に姿を変えて現れました。姫に近づくと、

「姫君、わたくしは訳あってこの池に住むこと九百九十九年にもなります。その年月のその間、人身御供を取ること九百九十九人。あと一人を吞み込んだなら、ちょうど千人となります。あなた様のような尊いお方にお会いすることは極めて珍しいことです。これもひとえに御経の功徳の力。たちまち大蛇の苦しみを逃れ、煩悩を捨てて成仏できたことはこの御経の恩恵と言えましょう。さて、このご恩にはなにをお布施として差し上げましょうや」

と言って、竜宮の宝、如意宝珠の玉を取り出し、

「姫君、この玉はどのような願いも叶う玉でございます。腹が痛むときにはこれで腹をお撫でなさい。両目が悪いのならば、たちまち平癒するでしょう。とてもめでたくありがたいこの玉を、姫君に差し上げます。よくよくお信じなされませ」

と、頭を傾け歓喜の涙をこぼします。ともあれ、さよ姫の心のうちは、嬉しいという言葉では言い表せるものではございません。

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