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四段目

 哀れなさよ姫は、涙と共に急ぎ行きます。この先どちらへと問えば遠江、浜名湖の端の満ち潮に、海人の小舟が渡ってゆきます。南を眺めれば、満々たる大海に数多の船が浮かんでおります。趣深く打ち眺め、北にもまた湖水あり、陣屋が岸に連なって、松に吹く風や波音に仏の道を観じます。明日の命は知らねども、今は生きよう池田宿、袋井畷ふくろいなわてをはるばると、日坂にっさかを過ぎれば名の知れた佐夜の中山とはこれですか。

 心急げば程なくして、名所旧跡ははや過ぎて、いかだ流れる大井川、岡部に、祈れば叶う金谷とか。四方に魔のある島田と聞いては身をすくめ、宇津の山辺の丸子まりこ川、賎機しずはた山を右に見て、波の激しい三保の入海、一人物思いに沈みます。

 ここは駿河の名所とは、誰が言ったか由比の宿、蒲原かんばらを心細く打ち眺め、富士のお山を見上げれば、降り積もる雪の絶えることもない。南の海上は田子の浦。麓には東南に長く見える沼もあり、葦原を掻き分け竿差す小舟、塩谷の夕煙が立ち上ります。伊豆の三島を打ち過ぎて、足柄の箱根にお着きになります。


 さよ姫は慣れない旅ゆえに、足の裏から血が滴り、道の砂をも赤く染めておりました。今やもう一足も歩けないと、朽木の根元を枕にして、もはやこれまでとうち伏します。太夫はたいへん腹を立て、

「ここから先は日にちの決まった旅なのだ。いつまでも休むものではない」

と言いつつ、姫の腕をとって引っ立てて、陸奥の国へとお急ぎになります。

 急いでゆけば程もなく、相模の国に入ります。大磯、小磯ははや過ぎて、めでたきことを聞く菊川に、鎌倉山、武蔵野を過ぎ、隅田川にお着きになる。

 これこそまさに音に聞く、人商人にかどわかされて儚くなった梅若丸の墓印。柳と桜が植えられて、念仏の声が聞こえます。姫はこれこそ我が身の上と思われて、この身はどうなることかと、涙ばかりが先立ちます。

 明け方早くに白河、二所の関、会津の宿を打ち過ぎて、道端の梢も見分けられぬほどに急ぎ進めば程もなく、はるか日本の奥州、陸奥の安達の郡にお着きになりました。


 太夫は屋形に着くと、側仕えの女房たちを呼び寄せて事のあらましを語って聞かせます。女房たちはたいそう喜び、急いで立ち出でて姫と対面し、

「何と美しい姫様かしら。長い旅でさぞお疲れの事でしょう」

と、奥の座敷へ招き入れ、大層いたわります。姫はと言えば、

「ああつらいこと。私は見たこともない陸奥の国まで買われてきて、この身はいったいどうなるのだろう」

と、声を上げてお泣きになっておられます。

 太夫はと言えば、まず座敷を飾っておりました。一番目には清らかな藁の荒薦を敷きました。注連を七重に張り巡らし、十二の幣を切り立て、姫の御座の間として飾りました。次に姫の身も清めさせようと、湯殿へ降ろし、湯垢離七度、塩垢離七度、水垢離七度、二十一度の垢離をとらせます。哀れなさよ姫は、このような事は夢にも思わなかったので、

「女房たちよ、奥州の仕来りではこのようにせねば部屋に座ることもできないのですか」

と、涙と共にお尋ねになります。

 女房たちはこれを聞き、

「おかわいそうな姫様のお心のうちよ。ご存知でないならば、語ってお聞かせしましょう。ここから北へ八町先に、さくらのが淵といって、一回り三里の池があり、その池に築島がございます。明日になれば、この築島の上に、三階の棚を飾り、棚の上に注連を飾り、姫様を大蛇の餌食としてお供え申すのです。そのためにこのように身を清めているのですよ」

と詳しく語って聞かせれば、さよ姫は呆然自失、倒れ伏してお泣きになる。

 涙をこぼしながらお嘆きになるその言葉こそ、哀れなものでございます。

「私を買ったその折には、将来のために養子としようと、かたく約束はしたものの、人身御供にするなどという約束はしませんでした。これはどうした事でしょう」

 太夫の奥方はこれをお聞きになり、嘆きはもっともなことだとお思いになりました。さよ姫に近づいて、

「もうし、姫君よ、お嘆きはごもっともでございます。あなたのお国はどこの、何という里でいらっしゃいますか。私は来年の春に、宿願の熊野参詣へ参りますから、その折に形見の品をお届けしましょう。お手紙などお書きなさい。必ずお届けいたしますから」

と、涙と共におっしゃると、ちょうど太夫がそれを聞きつけ、

「これはどういうことだ。所繁盛、家繁盛の祈りのため、祝福し供える人身御供の姫の前で何をその様に嘆くのか」

と、眼を大きく見開いて、ぐっと睨みつけて立っておられます。

「これはこれは、太夫殿、私たち夫婦のあいだに一人ある姫を、人身御供に供えると考えてごらんなさい。どれほど悲しいことでしょう。あの姫のお気持ち、またその親の嘆きの程が思いやられて、なんともおいたわしいことです」

と、涙と共に仰います。太夫もそれはもっともとは思えども、腹の立つ思いがして、

「何を言うか、妻よ、わが子を贄に供えるならばさぞ悲しかろうと思えばこそ、人を買いにはるばる都まで上ったのではないか」

と言って、座敷にお入りになり、障子をはたと閉めてしまわれました。

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