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二段目

 そうして太夫は、三十五日かかって花の都にお着きになりました。都の一条小川にて、きく屋という材木屋に宿をとり、洛中の辻々にこっそりと高札を書いて立てて回ります。しかし、いかに都が広いと言っても、身を売る人はありません。それならば奈良の都を尋ねてみようと思い、京の都を出て、奈良へと急ぎ向かいます。奈良に着くと、つる屋の五郎太夫という人のところに宿をとり、辻々に札をお立てになったのでした。


 それにしても哀れなのはさよ姫でございます。夜が明けるころに興福寺へお参りになり、御門の脇に目をやれば、そこに高札がたっております。近寄って見ると、「見目よき姫があるならば、良い値段で買い取ります。場所はつる屋五郎太夫」と書いてありました。

 さよ姫はこれをご覧になり、「何と嬉しいことか、今からすぐに向かって身を売ろう」と思いましたが、いやいや、あわててはいけないと思いなおします。「そのようなことをすれば母上はどれほどお嘆きになるでしょう、おいたわしいことです」と、泣く泣くお帰りになりました。


 さて太夫はといえば、札を立てて三日が過ぎたけれども立てた甲斐もないもので、どうしたものかと悩んでいるばかり。そうしていると、春日の明神がこれを不憫にお思いになり、八十歳ばかりの老僧に身を変じて現れました。

「これ、太夫殿よ。この向こうの松浦谷というところに、松浦長者と言って、富裕な人があったが、あまりに欲深であったために、万の宝も水の泡と消えて、自身も儚くあいなった。今や貧者の家となり、その屋敷にいるのは奥方と姫のただ二人。あるいはこの姫が身を売ることもあるだろう。太夫殿よ」

と仰って、かき消すようにお消えになります。

 太夫はこれを聞き、「さて嬉しいことだ、これは氏神様の御引き合わせにちがいない」と喜び、松浦谷に参ってみれば、長者の住まいらしく棟門の高い屋敷がございます。しかし瓦も軒も崩れ落ち、ちりちりと水は漏れて行けどもすくい止めるものもない有様。

 大広庭にお立ちになり、「もうし、どなたかいらっしゃるか」と呼びかけますと、さよ姫が奥からお出でになり、「どなたですか」と応えます。

「いや、あやしい者ではございません。私は都のものですが、身を売ろうと言う姫があれば、良い値段で買おうと、ここまで参ったのです」

 さよ姫は大変お喜びになり、さては春日の明神の御引きあわせかと嬉しく思います。

「商人さん、私を買い取ってくださいませ。金額は太夫にお任せしましょう。親の菩提を弔うそのために身を売る人もあるというでしょう。私もそうしようと思うのです」

 太夫はこれを聞き、「親の菩提を弔うためと聞いては、良い値で買おうではないか」と言って、砂金五十両を渡しました。

 さよ姫がこの金を受け取って言うには、

「商人さん、五日の暇をくださいませ。明日になれば父の菩提を弔って、五日目の八つ時のころ、御迎えに来てください」

と、そのようにかたく約束を交わして、太夫は宿に帰ります。


 母は、それを夢にも知らず、持仏堂にいらっしゃいます。さよ姫は、母の側に近づき、

「母上様、これをご覧下さいな。この黄金を、表の門の外で拾いました。父上様の御菩提を、ねんごろに弔ってくださいませ、母上様」

と仰ると、母上はたいへんお喜びになり、

「さて、そなたの父の菩提を心から弔いたいと思う志の深いゆえに、天がこの黄金を与えたもうたのでしょうね。それでは御弔いいたしましょう」

と、沢山の御僧に供養して、立派な追善をおこないます。


 哀れなさよ姫は、

「父上の御菩提をねんごろに弔うことができて、何よりうれしいことです。また、少し残った黄金は、母上様のしばしの暮らしの足しとしてください。今となっては何を隠しましょうか。私は身を売ったのです。商人の手に渡り、どことも知らぬ国へ参るのです。私がどこの田舎に行ったとしても、命があるならば手紙を送ります。返す返すも、母上様が後でお嘆きになるのが、なによりも悲しいことです」

と、涙を流してお嘆きになります。

 母上はこれを聞き、

「これはいったい、夢か現か。あなたは身を売ったというのですか。お亡くなりになった父の菩提を弔うことはいいけれども、この世にまだ生きている母の身に思いをかけて心を痛めることもまた孝行というものでしょう。冥途の父は親で、この世の母は親ではないというのですか。なんとむごい姫の心でしょう」

 と言って、さよ姫に抱き着いて、涙を流してお嘆きになる、母の心の内はもっともなことです。


 さて、約束の時間になり、ごんがの太夫は迎えに来て、門外に立っておられます。

 哀れなさよ姫は、

「母上様、仰せはごもっともではございますが、これも前世の約束ごとと思い、お嘆きにならないでください。何処へ参ったとしても、すぐに便りをいたしましょう。お暇いたします、さようなら」

と言って、名残を惜しみつつ表へ向かって出て行けば、母上はあまりの悲しさに、

「これはいかなる因果でありましょうや。夫の長者と別れてこのようにわびしい暮らしをしながらも、おまえが可愛いから今まで生きながらえてもきたのです。おまえと離れては私は一日も生きてはいられようか。亡くなった父を思いやって、生きている母を苦しめる、子の心のなんと恨めしいこと。世の中には神の仏もいらっしゃらぬか。どのような国へも、私も連れて行っておくれ、離れてはなるものか」

と、いだきついてお泣きになる、気も狂わんばかりの御様子は、見るからに哀れなものでございます。


 ごんがの太夫はと言えば、門の外に立って待っておりますが、約束の時間を過ぎてもさよ姫は出てきません。太夫は大いに腹を立て、

「さても憎いことだ、かたく約束をしたのに、まだやってこないとは腹立たしい」

と、屋敷の中へ押し入り、

「いかに、姫君、なぜ出ていらっしゃらぬか、早く出てこられよ」

と高らかに呼ばわるが、人の気配はありません。

 太夫はなお腹を立て、持仏堂へ入ってみれば、奥方と姫のただ二人、御経を転読しておられます。太夫は大いに怒り、

「姫よ、なぜ約束に遅れていらっしゃるのか。早くおいでなさい」

と言って、細腕を取って引っ立て表へ走り出ます。奥方はこれをご覧になって、

「何と情け容赦のないことでしょう、太夫殿。幼い者の事ですから、どうかお許しください」

と、涙を流してお嘆きになります。

 太夫はそれを耳にも入れず、表へ出てゆきます。なお奥方は悲しみ、その後を着いて行けば、太夫はこれを見て、ここはひとつたばかってやろうと思い、

「奥方様よ、私は奥州のものだが、この姫を養子にして、やがてはどこかの大名を婿に取り、暮らしの頼りにしようと思っております。その望みが叶ったならば、やがてあなたの事も迎えに人を送りましょう。はやくお帰りなさい」

と、情け深げな顔をしてたばかります。

 哀れ奥方はこれを真と思い、

「それならば、幼い者の事ですので、よくよく目をかけてくださいませ。さよ姫よ、この太夫殿を父、松浦殿と思ってよくお仕えするのですよ。ああ、さよ姫、これでお別れですか、悲しいこと。また出会うことはあるのでしょうか」

と、袂に縋って消え入るようにお泣きになります。

「ああ、忘れる所でした、あなたの肌の守りに掛けた物は、父の形見の御経です。仏さまが五十年のあいだお説きになった教えの中でも法華経が最も肝心なもの。その法華経八巻のうち、五の巻の提婆達多本は、女人成仏の御経なのです。八歳の龍女が成仏なさったという御経です。現世、後生ともに女人はこれを仰いで信じるのです。何処へ行ったとしてもどうか命を大事に。長寿の亀は蓬莱山にも至ると聞きます。私たちもまた巡り合うこともあるでしょう。なごりおしいことです」

と仰って、互いに見送り、さらば、さらばの涙の別れ、それはそれは哀れなものでございます。とにもかくにも、奥方の心の内は、哀れなどという言葉では言い尽くせないものでございました。

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