第九話 先生の私室
「ほぉ?それで、結局確かめずじまいかね?緒方はヘタレだね?」
「うるさいな、健司!」
敬愛ヶ峰総合病院の柴浦先生が診療所を訪れた翌日、私は朝早くに同期の健司に電話をかけていた。 事の顛末を説明し終えると、健司は腹の底から笑い声を上げていた。窓の隙間から流れ込む熱気のせいで楽しげな笑いも不愉快に感じてしまいそうだ。
「それで、杉田先生の連絡先は分かったか?」
私が唐突に連絡したのも、柴浦先生を見て健司への頼みごとを思い出したからだ。しかし、私の期待とは裏腹に、「いいや。」と無情な返事が返って来た。
「高野院長は連絡先を教えてくれなかったよ。病院のOB会の名簿を調べれば分かりそうなものなのにな……」
健司の愚痴は続く。
「どうも前の杉田院長を目の敵にしているみたいだ。杉田院長の方が評判良いから、話題に出した瞬間に恵比須様みたいなにこにこ顔が鬼のような顔に早変わりさ。」
健司の言葉に小柄で小太りな高野院長が長々と愚痴る姿が脳裏をよぎる。コンプレックスの塊みたいな人で、人一倍プライドが高い高野院長らしいと呆れながら、詫びの言葉を入れた。
「申し訳ない……」
「いいさ。今度、遠隔手術の臨床実験に協力してくれると約束してくれたしな……。」
「臨床実験?患者を使うのか?」
「いや。解剖練習用の人形相手だよ。リモート手術が普及する頃にはもう俺は老衰で死んでるかもな……。」
電話越しに大きなため息が聞こえる。病院の対応も当然と言えば当然だ。患者の命が何より最優先だし、百パーセント安心・安全でなければ生きた人間を使うのは到底許されないことだ。
「情けないな、健司。実績を積み重ねるしかないんだろ?」
「途中でリタイアしたくせに、好き勝手言うなよ……。」
健司のこぼす皮肉に若干の棘を感じる。
臨床実験をしなければ論文を書けない、昇格できない、給料が上がらない健司にとって臨床実験をしてくれる病院を探すのが主な仕事だ。本命の研究開発が二の次では、精神的に疲れるのも当たり前だ。
「お疲れ、健司。じゃあ、切るぞ。」
「ああ!ちょっと待て!」
健司の呼び声に通話を切ろうとする指がピクリと止まる。
「どうした?」
「実はさ……」
健司が声を潜める。健司が真剣な話をするときだと昔からの付き合いだから理解できる。
私は健司の言葉に耳を傾けた。
「お前の言う女医さん!美人なんだろ!写真を撮ってきてくれよ!」
無言で電話を切った。そして、アパートの隅にまとめた生ごみを持って外へ飛び出した。
この離島にゴミ処理施設はない。
毎月決められた日に本土から来る収集業者がゴミを一気に回収している。生ゴミの回収日の前日にごみ袋を掲げた住人の姿が離島の町中に見受けられた。
私の横を大量のごみ袋を乗せた小型のトラックが悠々と走り去って行く。
「帆柱さんのトラックですね。うらやましいなぁ。」
「若菜さんもゴミ捨てですか?多くないですか?」
「これはコンビニから出たゴミですよ。」
私の背後から両手にゴミ袋を掲げた若菜が恨めしそうに通り過ぎるトラックを眺めていた。
「帆柱さんクラスのお金持ちになると猛暑とは無縁の生活ができるんですね。」
「緒方さん、運転席もちゃんと見てました?飛谷さんが運転していましたよ。植木屋さんも仕事を選べない時代なんですねぇ……」
若菜が長いため息をつく。
しばらく二人で道なりに歩いていると、人だかりの光景が広がった。コンクリート壁で囲われた簡易的なゴミ捨て場に集まる島民たちが軽く挨拶を交わしてすれ違っていく。人の往来が止むのを待つカラスの声が近くの木の上から聞こえてくる。普段はおしゃべりな島民も厳しい日差しと臭いに曝される中で長話をする気力はないようで、足早にゴミ捨て場から離れていく。
「あっ!あかねちゃん!」
知り合いを見つけた若菜がぼさぼさ頭のジャージ姿の女性に駆け寄る。背後から突然近づかれたその女性は一瞬肩を震わせて若菜の方を振り向いた。
「もう!女の子なんだから少しはオシャレしたら?」
「ゴミ捨てに行くだけだから別にいいだろ……」
気だるげに語る女性の黒い瞳と私の目線が合った。
「この人、誰?」
「はじめましてよね?緒方高来さん。東京から来たオリバー先生の診療所の助手さんよ。」
「ああ、そう……」
ゴミ袋を放り投げて会釈する女性に若菜は呆れながらも言葉を付け足した。
「この子は天野あかねさん。この島で一番有名な動画配信者なのよ!」
「変な紹介は止めな……」
はしゃぐ若菜の口を押えて頭を掻く天野の姿を見ながら、私はゴミ袋を収集所に放り込んだ。
「天野さんって……港の商店街にある天野酒店の方ですか?」
「あれは親父の店だよ。アタシは在宅でプログラミングの仕事をしてる。」
「在宅でプログラミング……?家にいながら働けるものですねぇ。」
在宅勤務を国が推奨していても、私の同期の何人かは相変わらず満員電車に揺られていると聞く。通勤のストレスを感じることなく、自然豊かな離島で働けることに魅力を感じる人もいるのだろう。
そんな羨望を吐露したつもりだったが、天野が私に向ける瞳には嫉妬が込められていた。
「東京に比べればネット接続は悪いけど、仕事に支障はないからね。ほいじゃ。」
淡白な言葉を残して去っていく天野の背中を見送る私に若菜が声をかけた。
「あかねちゃんは東京で働いていたけど、この島に帰って来たの。」
「どうしてですか?」
私の問いに若菜は首を横に振る。
「分からないわ。ただ、仕事に追われるのに疲れたとか言っていたけど……」
首をかしげる若菜の隣で私は去り行く天野の背中にどこか哀愁を感じていた。
若菜とコンビニの側で別れ、診療所にたどり着いた私を心地よい冷気が迎えてくれた。
「そうなのよ!うちの旦那ったら漁に出るけど、雑魚しか捕ってこないのよ!」
診療所内に響く高笑いの中に蚊の鳴くような小さな相槌が聞こえてくる。
恐らく、話し相手は漁師の小堀鉄平の奥さんだろう。
毎週この診療所に来ては、特に診療することなくオリバー先生と談笑している。オリバー先生がこの島に来てからずっと続いている日課であり、小堀婦人のストレス発散の時間となっている。一度だけ彼女との会話に慣れていないオリバー先生を見かねて、私が話し相手を引き受けようとしたが、小堀婦人にあっさりと断られてしまった。
「小堀さん。今日も変わらずお元気ですね。」
診察室に入った私を見るやいなやオリバー先生の頬が緩んでいた。嫌々会話をしていたのかと責められてもおかしくはなかったが、小堀婦人がそれに気づく様子はない。
「彼氏さんが来たから、私はそろそろお暇するわね。ありがとね、オリバーちゃん。」
「ええ……。ありがとうございます……。」
微笑みながら小堀婦人は困惑したままの先生を置いてあっという間に診療所を出て行く。
「来るのが遅いですよ!」
「すみません……。」
ゴミ捨ても考慮して開業の三十分前に来たにもかかわらずなぜか怒られてしまう。朝早くから診療所の外に並んでいた小堀婦人を見て断れずに中に招いた自分を彼女は完全に棚に上げていた。
頬を膨らませて出迎えるオリバー先生に微笑み返して待合室のソファーに腰を掛ける。
「まだ慣れませんか?」
「やっぱり慣れません……」
そう言って彼女は私の隣に座る。すっかり安心しきった彼女の表情は私がヒューマノイドだと疑っていたのを忘れているのではないかと思わせる。昨日、自分から余計な詮索をしないと言った手前、どんな話題で時間をつぶそうかと考えていると、彼女の方から声をかけてきた。
「緒方さんはどうして医者に?」
私の方を振り向くオリバーの艶やかな髪がふわりとなびく。どこか気恥ずかしそうに微笑む彼女のしぐさに思わず心を揺さぶられる。
「私の両親は農家でして……」
私は言葉を続ける。
「近所の学校でそこそこ勉強ができたから、医者になってお金を稼いで両親を楽にしてやろうと思ったんですが……。病院のパワハラに屈してこのざまです。両親に顔向けもできないし……情けない限りです。」
「そんなことありませんよ」
オリバーの即答に思わず笑みがこぼれる。私の反応に首をかしげるオリバーに説明を加える。
「敬愛ヶ峰病院の安生先生にも同じように励まされましたよ。ご存じですか?心療内科の先生です。まさか……」
……ロボットに励まされるとは……
思わず零れそうになる言葉を慌てて飲み込む。自分のせいで詮索できなくなったのだが、心の中に未だにしこりが残ってしまっている。歯がゆさに頭を搔いていると、
「どう返答すればよかったですか?今後の診療の参考にさせてください!」
好奇心に満ちた視線を向けるオリバー先生の姿があった。
AIは学んだことから結果を出すことだけに終始する。率先して自ら学ぼうとする彼女の学習意欲はAIと言うより、人に近いものがある。
いやいや、自分の方こそ好奇心旺盛な野次馬根性丸出しじゃないか!
一人で悶絶している私に気にかける様子もなくオリバー先生は何かを思い出したかのように突然両手を叩いた。
「どうしましたか……?」
唐突な彼女の行動に私は恐る恐る尋ねた。
「ゴミを出すのをすっかり忘れてしまいましたわ!」
「何だ……。そんなことですか。私が捨ててきますよ。」
「いいえ。緒方さんはゆっくりしてください。私の家なんですから!」
「いや……」
オリバー先生の足取りは軽やかだった。給湯室に駆け込み、茶葉まみれのゴミ袋を持って「よろしくお願いしますね。」と私に軽く頭を下げて、診療所から足早に出て行った。
「誰が診療するんですか……」
一人残された私の呟きが無人の診療所に響くと、すぐさま静寂が訪れる。蝉の甲高い鳴き声の裏で室外機の重低音が響き、診察室の窓に吊るしたままの風鈴がリズムを刻んでいた。初めのうちはまるでパーカッションのようだと詩的な感想を抱いたが、やがて飽きが訪れる。いくら待っても島民は誰も来ないし、先生も帰ってこない。
そして、一人呟く。
「これってチャンスでは……?」
いつもの仕事場である平賀診療所―――仕事で使う診察室、待合室や給湯室、給湯室の奥にあるトイレに何が収納されているかは把握している。だが、診察室の奥のカーテンで隠された階段を上った先は未知の領域だ。たぶんオリバー先生の私室があるのだろう程度の考えで気にも留めていなかったが、
「ちょっとだけなら、バレませんよね?」
今は違った。
彼女を疑っていたこともあるし、疑いを追求できないもどかしさが罪悪感をかき消していた。
気づけば二階に足が向かっていた。二階に上ると短い廊下の左右に部屋が分かれていた。左側の扉を開けた先は段ボール箱が転がっており、物置と化していた。オリバー先生のずぼらな一面を感じながら続いて右側の部屋を開ける。
本棚の隣に小さな机とベッドが置かれているだけの質素な和室だ。
本棚に並べられた医学書の帯に触れると粉雪のように埃が舞い落ちる。この部屋も掃除が行き届いていないのかと呆れていると、
「これは?」
不意にプラスチックの触感に出くわした。そこには医学書の間に青色のファイルが紛れていた。私は舞い散る埃を気に留めることなくファイルを抜き取った。
中には何もない。ページの所々にある剥がし残したセロハンテープと写真が張り付けられた痕がアルバム帳であることを物語っていた。一度貼り付けた写真を剥がさなければならない理由が何かあるのだろうかと疑問符を浮かべながら、ファイルの隣にある医学書に手を伸ばした。
その医学書は二十年前のものだった。離島での診察なら古い知識でも十分と言うことだろうか。
そんな疑問が脳裏によぎりつつ、ページをめくっていくと本の隙間から一枚の紙が舞い落ちた。
「これはオリバー先生の写真?」
それは新聞から切り抜かれた写真だった。今とあまり見た目の変わらないオリバー先生の隣に角刈りの破天荒な見た目をした学者が二人で肩を組んで並んでいた。写真の中の男は希望に満ちた笑みを浮かべ、オリバー先生は不愛想な顔で佇んでいた。
「これが平賀さんですか。」
角刈りの学者の首からぶら下がったネームプレートに小さな文字で『平賀藍水』と書かれていた。
「健司の奴、写真が欲しいとか言っていたよな……」
今朝がた電話した健司の言葉を不意に思い出す。
その時、けたたましいサイレンが辺り一面に鳴り響く。
「何だ!」
思わず机の目の前にある窓から外を覗く。
遥か遠方に見える水平線に黒い煙が立ち昇っていた。
「火事だ!」
家から飛び出した島民の叫び声が島中に鳴り響くサイレンにかき消された。