第四話 真夜中に伸びるケーブル
縄梯子を登った先にはずぶ濡れになりながら縄梯子を支える駐在さんの姿があった。三人全員が崖を登り終え、輝坊の容態をオリバー先生に伝えたところ、「すぐにでも診察しましょう!」とはりきっていた。
雨に打たれながら診療所に戻って来たオリバー先生は安堵の表情を浮かべる若菜を無視して診察に取り掛かる。
「捻挫ですね。」
即座に診察して輝坊の足首に包帯を巻き終えた頃、輝坊の両親が診療所に姿を現した。
輝坊とは顔つきは母親に、目元は父親にそっくりなのですぐに判別がついた。
「輝!人様に迷惑をかけて!」
「ごめんよぉ!かあちゃん!」
診療所の扉を開けた瞬間に怒鳴られる輝坊を横目に私はタオルを手渡していく。
「話は若菜さんから聞きました。ありがとうございました。」
輝坊の父親に頭を下げられ、オリバー先生は困り果てた笑みを浮かべていた。その様子を微笑ましく見ていた駐在さんが彼女に声をかける。
「いやはや、オリバー先生のお手柄ですな。」
「いえ……わたしは何もしていません。」
今思い返すと、奇跡としか言いようがない。
捜索を始めた時に縄梯子を持っている者はいなかった。恐らく、縄梯子が必要と判断して駐在さんが取りに戻ったのだろう。だが、私がかざした懐中電灯の光も豪雨のせいで崖上には届いていないから、私たちが崖下で立ち往生しているなど知る由もないはずだ。
「駐在さん。どうして縄梯子が必要と判断したのですか?私たちが崖下にいることをどうやって知ったのですか?」
快活に笑う駐在さんに尋ねてみた。
「いやいや、オリバー先生のおかげですよ。」
話を続けようとする駐在さんをなぜか制止しようと慌てふためくオリバー先生を無視して事の顛末を教えてくれた。
「雨が強くなって一度二人で合流したのですが、緒方さんの姿が見当たらないとなりましてな。そしたら、オリバー先生があなたの携帯の位置情報を調べてくれたのですよ。そしたら、崖下にいるから梯子をとってきてほしいと頼まれまして、交番まで慌てて取りに戻りましたわ。」
オリバー先生の方を見ると、濡れた栗色の髪をタオルで拭きながら私から視線をそらした。
私は思わずポケットにしまい込んでいた携帯電話を取り出した。画面に亀裂が走りすっかり動かなくなり、連絡帳を確認する手段はない。
だが、オリバー先生に連絡先を教えたことはない。
携帯番号を教えていない相手がどうやってGPSで位置情報を特定できたのか……
いつの間にか個人情報を知っている先生に一抹の恐怖を感じたが、彼女は先ほどから私と目を合わせようとしない。よほど言いたくない理由でもあるのだろうかと邪推したが、その邪念を振りほどく様に私は首を横に振った。
―――オリバー先生は私の命の恩人だ。
命の恩人を猜疑の目で見るのは義理に反することだろう。
「オリバー先生。ありがとうございました。」
今回の出来事を忘れようと努めることにした。私の言葉を聞いて濡れたタオルの隙間から彼女のエメラルドグリーンの瞳が私を捉えていた。
「皆さん、ありがとうございました。」
輝坊の家族三人が私たちに再び頭を下げる。
「警官として当然のことをしたまでですよ!ハハハ!」
「輝君。足首を捻挫しているのでしばらくは安静にしてくださいね。」
微笑むオリバーと駐在さんに輝坊はどこか気恥ずかしそうに頭を下げた。
和やかな空気が流れ始めた瞬間、吹き付ける雨音をかき消すような腹の音が待合室に鳴り響く。振り返ると顔を赤らめて、お腹を押さえる若菜の姿があった。
「そういえば、晩御飯も遅くなりましたな。私の家で食べていきませんか?」
「よろしいですかな?」
輝坊の父親の誘いに駐在さんの声が明るくなる。
「無事に輝坊が帰ってきてくれたお祝いです。ほらっ!先生達も若菜さんもいかがですかな?」
「良いんですか?」
「遠慮なさらないでください!ぜひお礼をさせてください!」
輝坊の母親も夫の提案に賛同して首を縦に振っている。すっかり日も暮れてしまい、今から晩御飯を作るのも億劫に感じた私に断る理由はなかった。
「私もお邪魔しましょう。オリバー先生はどうしますか?」
オリバー先生は考え込むような素振りを見せてゆっくりと話した。
「わたしは……遠慮しておきます。緒方さんは……わたしのことは気にせず楽しんでください。」
「では、皆さん!私の家に来てください!」
ぞろぞろと豪雨の中へ突き進んでいく。
一人だけ見送りを続けるオリバー先生を背中越しに見つめて私は夕食に向かった。
空には薄雲が広がり、薄雲の向こう側に三日月が浮かんでいた。あの夕立が嘘だったかのように雨は止んでいたが、路面に残る大きな水たまりだけがゲリラ豪雨の激しさを物語っていた。
輝坊の家で缶ビールを開けて晩御飯を食べて上機嫌のまま、島の港近くにある長屋のようなアパートに帰るはずだったが、
「まさか、携帯を忘れてしまうとは……」
帰路の半ば、携帯電話がないことに気付いた私は自宅と逆方向にある診療所に向かっていた。壊れてしまったとは言え、携帯ショップで新しい携帯に交換するにはSDカードが必要だ。診療所へ続く坂道を一歩ずつ踏みしめていく度にほろ酔い気分が抜けていくのが嫌でも感じてしまう。かつての職場である敬愛ヶ峰総合病院とは違って不便な職場だと愚痴らずにはいられなかった。
携帯電話を忘れた後悔を続けているうちに診療所が見えてきた。
「もう鍵をかけているよな……」
玄関前まで来て痛恨のミスに気付いたが、手遅れだ。もう開けてみるしかない。
強風に煽られることなく立てかけられた平賀診療所の看板を横目に私は扉に手をかけた。
「あれ?開いてる?」
何事もなくすっと扉が開く。
不用心だと思いつつも私は真っ暗な診療所の中を突き進んだ。
診察室から伸びる階段の先で寝ているであろうオリバー先生に心の中で謝りながら、診療所を物色していく。ほどなくして待合室のソファーの隙間から壊れた携帯電話を見つけ出した。
「ばれないうちに帰ろう。」
その場で回れ右をして帰ろうとした。
不意に待合室の奥にある給湯室の扉がわずかに開いているのが目についた。
ほんの出来心で、興味本位で給湯室を覗いた。いや、覗いてしまった。
「うわっ!」慌てて口をふさぐ。
どうやらまだ気づかれていないらしい。
私は逃げるようにその場を後にした。覚束ない足取りで坂を転げ落ちるように駆けていく。
目を瞑れば今でもよみがえる奇妙な光景が甦る。
正座して眠る女医の姿がそこにはあった。
一見すれば西洋の彫刻のような艶やかな姿だ。
―――ただ、彼女の首筋から伸びる一本のケーブルが異質さを物語っていた。
古い長屋の一室に差し込む夏の日差しと熱気に目を覚ます。四六時中稼働し続けているエアコンのモーター音を聞きながら、新しく買い替えたばかりの携帯電話に手を伸ばす。診療所が開店する一時間前のいつも通りの起床時間だが、どうも寝覚めが悪い。
―――うだるような暑さのせいか?いや、違う。
原因ははっきりしている。
―――あの時の光景が今でも夢に出てくるからだ。
あの日からすでに三日経ち、私は客観的にあの光景を分析できるようになっていた。
あのコードは冷蔵庫の近くに置いてある発電機に伸びていた。恐らく充電しているのだろう。だが、普通の人間には首筋に電源コードを刺す場所は存在しないし、まして充電などしない。
考えられる合理的な結論は一つしかない。
フレデリック・オリバーはヒューマノイド、つまり人型アンドロイドだと。
「合理的?」思わず首を振りながら自問自答を繰り返す。
「毎日起きる度にこの調子じゃたまったものじゃないな。」
ワイシャツに袖を通しながら一人呟く。袖を通し終えてズボンを脱ごうとしたところで不意に携帯電話に視線が移る。
「あいつに聞いてみようかな……」
徐に携帯電話に手を伸ばすとこの手の話に詳しい同期に電話をかけた。