第三話 離島の捜索
「輝坊を知らない?」
「どうしたんですか……?」
息を切らしながら鬼気迫る様子で輝坊の居場所を尋ねる若菜に、唖然としながらも何とか言葉をひねり出す。診察室に篭っていたオリバー先生も外の慌ただしさに気付いて顔を覗かせる。若菜は一目オリバー先生の方を見るとその場に崩れ落ちた。
「若菜さん!」
慌てて駆け寄り、若菜の華奢な体を支えながら診察室に担ぎ込む。荒い息を上げる彼女の身体が異常なまでに火照っているのが肩越しに伝わってくる。この炎天下で考えられる症状はただ一つしかない。
「熱中症ですね。」
ベッドに横たわらせた若菜を一目診て、オリバーも私と同じ結論に至ったようだ。
「わたしが水と氷枕を用意します。緒方さんは彼女の身体を拭いてあげてください。」
「逆ですよ!オリバーさん!」
こんな緊急事態で何の冗談を言っているのかと突っ込む暇すら惜しかった。
オリバーさんにタオルを手渡して駐在さんを診察室から追い出すと、水を汲みに給湯室に向かった。食塩を少し含ませた水を作り、氷枕に水を足していく。
ふと私の視線が冷蔵庫の隣に鎮座している電子レンジ程の大きさの充電器に向かう。前に冷蔵庫を開けるのに邪魔ではないかと尋ねたが、必要なものだと一蹴された覚えがある。電動自動車も見当たらないのに何のための充電器なのかはさっぱり見当つかないが、常に充電されているそれを押しのけて冷凍庫から氷を取り出した。
「入りますよ。」
診察室の扉をノックして中に入ると薄い毛布をかけられて横になる若菜の姿があった。彼女の頭に氷枕を敷いて水を飲ませる。ストロー越しに水を飲もうとする意識がある若菜の姿に安堵する私の傍らでオリバー先生は団扇で火照った彼女を扇いでいた。エアコンの効いた診療室で休むうちに徐々に若菜の呼吸は落ち着きを取り戻していた。
「ありがとうございます。」
若菜がこちらに微笑みかけてくる。
「炎天下で運動するときは水分補給に気を付けてください。」
「オリバー先生は少し静かにしていてください。」
どうにも抜けているオリバー先生の言葉を遮り、若菜に尋ねる。
「輝君を探していたようですが、どうしたんですか?」
「そうなんです!」
若菜は思い出したかのように勢いよく起き上がるが、自分のあられもない姿に気付いて慌てふためきながら毛布でその裸体を隠した。解剖で見慣れたはずの裸体に私も慌てて目を背けた。
「輝坊と雑木林ではぐれてしまって……」
「雑木林……?」
「この島の南側にある墓地の奥のことじゃな?どうしてそんなところに?」
診察室での話に聞き耳を立てていた駐在さんが顔を覗かせる。
今日の午前中に輝坊は虫捕り網を持って、カブトムシを捕まえると息巻いていた。駐在さんに説明すると、渋い顔をしながら頷いていた。
「保護者として一緒について行ったのに……目を離した隙に……」
「いなくなってからどれくらい経ちましたかな?」
駐在さんの質問に若菜は診察室に立てかけられた時計をちらりと見つめる。
「だいたい二時間くらいかしら……?」
若菜の視線の先にある時計は午後三時を指していた。三時間経てば日が沈み、夜のとばりが訪れる。ただでさえ電柱も民家も少ない離島だ。夜の雑木林に迷い込んでしまえば、街の明かりを頼りに帰ることは困難だろう。
「案外、ひょっこり帰ってくるかもしれませんぞ?アハハ。」
私の心配をよそに楽観視する駐在さんの言葉をオリバー先生が遮った。
「いえ。探した方が良いかもしれません。」
『各地で夕立が予想されます。早めに洗濯物を取り込んでください。』
待合室で点けっぱなしにしていたテレビから流れる天気予報士の明朗な声にその場にいた誰もが静かに頷いた。
「輝坊!どこじゃ!」
島の中央にそびえる山のわき道を抜けた先には墓が立ち並んでいた。お盆という時期もあり、墓に供えられた献花に小さな蜜蜂が飛び交っていた。足元に生い茂る草むらに足を取られながら、私とオリバー先生と駐在さんの三人で輝君を探していた。
雑木林に海からの湿った風が一気になだれ込む。その場にいる誰しもが夕立を予感する。
「これだけ呼び掛けても見つからないということは雑木林の方ではないですか?」
「そうとしか考えられんのぉ……」
私と駐在さんは揃って雑木林の奥へ続く獣道を見つめる。
「緒方さんはここに来るのは初めてでしたな?熊はおりませんが、マムシに気を付けてください。」
こんな草むらに紛れ込んでいるマムシなど見つけられるはずもないが、そんな文句をぶつける時間はどうやら残されていないらしい。不穏な雷の音を鳴らしながら上空を覆う暗雲を睨みつける。
「わたしも探しに行きます。」
「では、皆さんに明かりを渡しておきましょう。」
駐在さんは腰にぶら下げた懐中電灯を二つ私とオリバー先生に手渡した。
「何かあれば明かりで知らせてください。」
三人とも互いに頷き返すと雑木林の奥へと突き進んでいく。やがて獣道は途切れ鬱蒼と生い茂る木々が行く手を阻む。三手に別れて各々が道なき道を突き進んで行った。
「輝君!どこですか!」
ひざ丈まで伸びる草むらをかぎ分けながら、迷子になった少年の名前を叫び続ける。私の声に返事はない。ただただ不穏な雷鳴だけが辺りに轟く。
どれほど歩いたかは覚えていない。空を覆う暗雲のせいでもう日が沈んでしまったのか判別がつかないし、輝坊を探している他の二人の呼び声もほとんど聞こえなくなっていた。携帯電話があるとは言え、このままでは探している側が迷子になってしまうだろう。
そう危惧して墓地に戻ろうとした瞬間、かすかに人の声が聞こえた。
思わず辺りを懐中電灯で照らすも、そこには木々と雑草だけが広がり、人の姿はなかった。
「誰か……!」
不穏な雷鳴に紛れてしまったが、それは確実に人の声だった。
「輝君!いるんですか!」
かすかな声を頼りに雑木林をかきわけるように走り抜けていく。
次の瞬間、視界が急降下する。
そして、受け身もままならず尻もちをついてしまった。
「緒方先生、大丈夫?」
尻をさする私の隣から聞こえる声に振り向くと、そこには探し求めていた輝坊の姿があった。輝坊に目立った外傷がないことを確認して頭上を見上げる。切り立った赤茶色の崖の所々に木の枝が伸び、その先に雑木林の木々が見えた。ロッククライミングをやったことはないが、木の枝につかまれば自力で登れないことはなさそうだ。
そう判断した私は輝坊に声をかける。
「輝君、私と同じでここに落ちてきましたか?」
輝坊は静かに頷いた。不安を隠しきれない様子だが、受け答えできる程度には落ち着いているようだ。精神面に問題がなければ、次は身体の異常を確認する。
「どこか痛むところはありませんか?」
「足が痛い……」
輝坊は赤く腫れる右足首をさすった。
「立てそうですか?」
輝坊は首を横に振った。恐らく捻挫か骨折かのどちらかだろう。のたうち回るほどの痛みではないらしいが、いずれにせよ安全な場所で診察する必要がありそうだ。
「私の背中につかまってください。」
促されるがままに輝坊が私の背につかまると、私は再び切り立った崖を見上げた。
子どもを抱えてロッククライミングなどやったことはないが、やるしかない。
覚悟を決めて赤茶色の岩肌から飛び出した木の枝を握り始めた瞬間、一粒の水滴が頬をかすめた。
夕立―――いや、ゲリラ豪雨というべきだろう。
私が掴んでいた赤茶色の岩肌はあっという間に濡れてしまい、掴むたびに岩肌が削れて私の手から滑り落ちていく。崖下の滑る足場と降り注ぐ雨を交互に見上げて、奥歯をかみしめる。
私の直感を察したのか、輝坊の顔がみるみる青く染まる。
「大丈夫ですよ、オリバー先生と駐在さんが必ず来てくれますから。」
輝坊を励ますように語りかけて、ポケットから携帯電話を取り出す。そして、驚愕する。
携帯電話の画面に大きなひびが入り、その隙間から緑の配電板が覗いていた。崖から転落して尻もちをついた時に尻ポケットにしまい込んでいた携帯電話は壊れてしまったのだろう。助けを呼べなくなったことを輝坊に悟られないように笑顔を振りまきながら、懐中電灯を必死に振り続けた。小さな懐中電灯から伸びる光は豪雨でかき消されてしまっているが、それでも必死に振り続けた。
「くそっ……!」
―――ダメか
思わず口から出そうになった弱気な言葉を慌てて飲み込んだが、多感な時期の輝坊にはすでに勘づかれていたようだ。少年の華奢な腕が小刻みに震えていた。
「緒方先生……」
「大丈夫ですよ!必ず助けが来てくれます!」
容赦なく降り注ぐ豪雨に負けじと声を張り上げる。
「オリバー先生!駐在さん!」
私と輝坊は腹の底から声を張り上げたが、無情にも降り注ぐ雨が私たちの声をかき消す。声を張り上げる度に体力が消耗していく。滝のように降り注ぐ雨は私たちの体温すらも奪っていった。降り止む気配のない雨は次第に強さを増し、切り立った崖をドロドロに融かしてしまい登ることすら許してくれないようだ。
そこに海からの強烈な風が吹き付ける。
―――嵐が去るのを待つしかない
覚悟を決めて輝坊を抱きかかえてその場でうずくまる。
その瞬間、強風に紛れて何かが降ってくる音を耳にする。崩れ落ちる小石よりはるかに大きいものが目の前に落ちた音だ。
「大丈夫ですか?」
聞き覚えのある声にゆっくりと顔を上げる。
目の前には縄梯子に手をかけたオリバー先生の姿があった。