第二話 疑いの芽生え
フレデリック・オリバーはアンドロイドなのか?
荒唐無稽な容疑を向けられている彼女との出会いは恩師の杉田栄一先生の一言から始まった。
「緒方君、私の知り合いがやっている診療内科の手伝いに行ってくれないだろうか?」
かつて敬愛ヶ峰総合病院で研修医を務めていた私は職場でパワハラに会い、重度のうつ病と診断された。そして、志半ばで研修医を辞めて次の就職先をどうしようか途方に暮れていた真夏のある日、私のアパートに杉田先生が訪ねてきた。
「君は私が定年退職する最後の年に配属された研修医だ。二年前のことを忘れてしまう程、まだボケてはいないよ。」
敬愛ヶ峰総合病院の元院長である杉田先生は突然の訪問に戸惑う私にそう声をかけてくれた。話を聞くと、院内で起きたパワハラを耳にした杉田先生は私を気遣って駆けつけてくれたらしい。人の優しさを実感して心温まるものを感じた矢先に、先生は私に次の仕事を紹介してくれた。
その仕事場こそが庵義央島にあるフレデリック・オリバー女医が経営する診療所だった。
「センセー!こんにちは!」
「オリバー先生、おはようございます。」
思い出に浸る私を小さなお客さんの明るい掛け声が現実に引き戻した。一人は坊主頭の生意気そうな少年、もう一人は三つ編みおさげでバイオリンが得意な女子高生だ。
「輝君に若菜さん。おはようございます。」
島民から輝坊の愛称で親しまれている少年は虫捕り網を肩に担ぎながらにこりと微笑み、女子高生の若菜が私に満面の笑みを浮かべて会釈する。
「お……おはようございます……」
診療所への来客に気付いたオリバー先生は恐る恐る診察室から顔を覗かせていた。
オリバー先生は奥手と言えば聞こえは良いが、悪く言えば、会話が苦手だった。
島に一つしかない診療内科の看板を掲げる女医にとって致命的ではないかと初めは危惧したが、働き始めて一週間が経った頃にはただの杞憂にすぎないと確信した。
そもそも毎日患者が頻繁に訪れない。
「診察しない医者ってなんだろう……?」
働き始めてわずか三日でそんな愚痴が零れるほどこの診療所には仕事がない。杉田先生はなぜオリバーを手伝ってほしいと私に頼んだのか疑問符しか思い浮かばない。
たまに訪れる患者も日頃のストレスを発散させるための話し相手か、下心丸出しで近づく島の若い男衆くらいしかいない。両者とも「はぁ」と適当に頷いておけば、満足して帰っていくので口下手でも十分に務まる職場だった。
「今日は若菜ねーちゃんと虫捕りに行くんだ!カブトムシとってきたらセンセーにも見せてあげるね!」
輝坊の言葉に再び現実に引き戻される。肩に担いだ虫捕り網を狭い診療所内で勢いよく振り回す輝坊とその傍らで苦笑いを浮かべる若菜の姿がそこにあった。
「今日は暑いので……水分補給はこまめにしてください。」
「うん!」
オリバー先生のアドバイスに元気に頷くと、若菜の袖を引っ張って輝坊は診療所を飛び出した。
「若菜さんにとっては今年がこの島での最後の夏休みです。素敵な思い出になると良いですね。」
私の率直な感想を聞いて診察室から顔を覗かせたままオリバー先生は首を慌ただしく縦に振る。彼女のおどおどした態度に思わずため息をついてしまう。
「やっぱり人と話すのは苦手ですか?」
「少々……」
少々どころではないでしょうと言う愚痴を押し殺しつつ、苦笑いを浮かべる彼女を見つめる。
整った顔つきに美しい曲線美を描く体つきの女性と二人きりの職場となれば、島の若い男衆から嫉妬の目を向けられるのは至極当然だ。
だが、口数が少ないということは彼女と私のコミュニケーションはほとんどないということだ。彼女の素性を探ろうと質問を投げかけてもろくに返事はない。必然的に会話が少なくなり、仕事もなく無言で待ち続けるのは中々の苦痛だ。
「オリバー先生。外で水まきをしていますね。」
「はい。」
居ても立っても居られなくなった私はエアコンの効いた室内を飛び出した。
ホースから勢いよく飛び出した水が真夏の日差しで焦げそうな背中を冷やす。裏庭に生えた雑草を横目に玄関に回って水をまき散らしていく。玄関の脇に立てかけてある樫木の看板に水をかけると『平賀診療所』の文字が鮮やかに浮かび上がった。オリバー先生が書いたとは思えない程の達筆だった。
「玄関の看板の名前の人はどんな人なんですか?」
この診療所に来た初日にオリバー先生に尋ねたことがある。私の質問に彼女は淡々と返事した。
「わたしの父親のようなものです。」
『ような』とは一体どういう意味かと好奇心に駆られたが、他人の家庭事情に踏み込むのは図々しいと踏みとどまった覚えがある。
オリバー先生には複雑な家庭事情を抱えているという陰鬱な情報を得てからは、家族の話題は出さないようにしている。その結果として、初日から彼女とのコミュニケーションは疎遠になり、途方に暮れていた。
ため息をつく私の頭上には輝く青空が一面に広がり、坂の上に立つ平賀診療所から眺め下す海は鮮やかな青色に染まっていた。その海の上に一隻の遊覧船の影が浮かぶ景色は趣のある田舎の情景だ。
さすが庵義央島。二十一世紀の日本に取り残された最後の孤島とネットで嘲笑され、羨望されるだけのことはある。
「おーい!緒方君。少し休ませてくれないか?」
玄関前で水を巻いていると不意に声をかけられる。
坂の下から白髪交じりの警官が自転車を押しながらやって来た。
「駐在さん。お仕事お疲れ様です。」
「すまんが、休ませてくれんかね?わしの老体にこの坂は少々厳しい。」
「ええ。どうぞ。」
脱ぎ捨てた警帽を扇ぐ駐在さんを診療所に案内する。
待合室のソファーに倒れこむように寛ぐ駐在さんを見届けると、私は待合室の奥にある給湯室に向かいお茶を沸かし始める。
「おお!オリバー先生!今日も相変わらず美人ですなぁ!」
来客に気付いて診察室から恐る恐る顔を出したオリバー先生に駐在さんが元気よく声をかける。
オリバーさんは軽く会釈をすると、隠れるように医務室へ閉じこもってしまった。
「相変わらず引っ込み思案というか、奥ゆかしい方ですな。」
「そうですね……」
そう呟きながら、駐在さんに緑茶を渡すと、駐在さんは流し込むように一気に飲み干した。
他人から見れば奥ゆかしい程度の生易しい表現になるのだろう。だが、制服姿の駐在さんで患者ではないと分かり切った相手ですらたじろいでしまうとはあんまりだ。もはや彼女の性格の問題だと割り切っていた私に駐在さんが衝撃の新事実を告げる。
「彼女が来てからもう三年になりますな。」
「えっ?彼女はそんなにいるんですか?」
「ほほぅ……。まだそこまで親密な間柄ではないのですな?」
三年も内科診療をしていて島民とのコミュニケーションに慣れていない彼女に驚きを隠せなかった。豆鉄砲をくらった鳩のような表情を浮かべる私に駐在さんは自慢気に微笑む。
「三年もいるにしては随分と話下手だなぁと……」
「先生の口数の少なさはこの島の七不思議のひとつですな、ワハハ!」
恐らく私は、目の前で快活な笑い声をあげる駐在さんよりも彼女のことを何も知らないのだろう。ごく普通の学生程度の最低限度のコミュニケーション能力はあるとこれまで自負していたが、その自信すらも折れてしまいそうだ。
自信を取り戻そうと、共に働く仕事仲間でないと知り得ないような情報はないだろうかと思考を巡らせる。
そうだ……!
オリバーは昼ご飯を食べない……!
ダイエットをしなければならない体型でもないし、ダイエットをするにしても昼食を抜くのは健康的でない。そう指摘しても「少食なので」と返されるばかりで理由は分からないが、仕事仲間ならではの情報を持っていることに思わず安堵する。駐在さんに優越感を覚えた私は待合室にある小さなテレビに電源を入れた。
『続いてのニュースです。』
脈絡のないニュースを次々と読み上げるアナウンサーの声が待合室に響く。顔を上げてテレビ画面を食い入るように眺める駐在さんが一人愚痴をこぼす。
「医療保険がまた値上がりする一方でカジノ誘致とは……金持ちと貧乏人の差がますます広がるばかり……何とかならんのですか?」
「私は政治家ではなく、医者ですからね。」
たわいもない談笑を続けていると、診療所の扉が勢い良く開かれる。
「若菜ちゃん。どうしたんじゃ?そんな血相を変えて?」
綺麗に整えた三つ編みもくしゃくしゃになり、汗だくでインナーが透けていることに気付いてすらいないほど切羽詰まった様子の若菜は肩で息をしながら尋ねてくる。
「輝坊を知らない?」
息も絶え絶えに尋ねてくる若菜に私と駐在さんが唖然としていた。