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 スマートフォンを鳴らしてワンコールだった。


「田中です」


 無機質な応答。それから数分も待たないうちに田中さんはやってきた。見るからに高そうな黒い車だった。ボンネットに飾られたエンブレムがこの車の価値の高さを主張するようだったけれど、車なんてどれも同じに見えてしまう僕には本当のところは分からない。


 所有者の夕暮さんも知らないんだと思う。引き籠りには無用の長物で、どうせ田中さんに出来るだけ無駄遣いするように頼んだ結果に過ぎないだろうから。

 車体に傷や汚れはほとんどなく、タイヤも全くと言っていいほど削れていなかった。当然だ。今まで使いみちなんてあるはずもない。敷地内で動かなくなってしまった夕暮さんを僅か100メートル程度輸送することが、きっとこの高級車の初仕事なのだ。


 車から降りた田中さんは、後部座席の扉を開けた後、僕に軽く礼をした。気品のある会釈で僕もつい合わせて頭を下げてしまう。この人は一体いくつなんだろう。完全に白髪頭だし、50は超えてるんだろうか。それにしては若若しい。流石に30に満たないってことはないんだろうけど。

 無個性な燕尾服と伸びた背筋がこの執事の年齢を巧妙にカモフラージュしていた。


 さりとて、どうでもいいことだった。碌に話したこともない人だし。この人の年齢をしったところでどうこうなるわけじゃないのだ。


 無駄な思考の最中、夕暮さんの撤去作業は順調に進んでいった。


 僕は相当に骨を折ると考えていた工程だけど、実際に実演されると単純そのものでわざわざお姫様抱っこの可能性を考える必要もなかったなと僕は思った。


①ノートパソコンをこっそりと奪う。

②夕暮さんを移動させたいところまでノートパソコンを運ぶ。


 たったこれだけだ。

 夕暮さんがどれだけ記録媒体に固執しようとも、そこは引き籠りの細腕だ。引き離すことなど訳がない。引き剥がされたノートパソコンに誘導され、タイピングを続けながらも、おぼつかない足取りで車に連れ込まれる夕暮さんの姿は、書くことに縛り付けられた罪人さながらで、哀れにも見える。

 なんだか微妙な気分だった。

 けれど、虚ろな目でふらつく夕暮さんの脳内では目まぐるしく刺激的な出来事が起こっているはずで、彼女はいま間違いなく幸福なのだ。

 現実世界と彼女との脳内のギャップこそが僕になんともいえない気分を起こさせる。


「レジィ様もお乗りください」


 言われるがまま僕も乗った。後部座席に。もしかしたら助手席にのるのがマナーなのかもしれないけれど、大して会話も交わしたこともないこの人と隣に座ってよろしくするほどには、僕の対人スキルは高くない。

 車内は居心地が悪いくらい清潔で、夕暮さんのキータッチの音だけが響いていた。

 僕は窓から桜を見る。一枚ドアを隔ててもやはりそれは、別世界のように幻想的で。いつまでも僕の目の前から消える気配がなかった。比喩的な表現でなく、それはつまり車が動かないからだ。


「あの、出発しないんですか?」


 一向にエンジンをかけない田中さんに僕は聞く。

 少しの間があって、落ち着いた声で田中さんは返答した。


「いい機会ですから、お礼を申し上げようかと」

「お礼?」


 僕が聞くと、「はい」という返事が返ってくる。

 夕暮さんのことだろうとすぐに察しはつくが、慈善事業ではなく給料をもらってここにきている僕に改めてなにかあるとは思えない。

 この一年間やったことと言えば、覇気のない少年として雇われて、前評判通りの時間を過ごしただけなのだ。何もしていない。椅子に座って、待って、時折夕暮さんのインタビューを受けた。たったこれだけ。下手をしたらオウムにだって完遂可能だ。

 バックミラー越し。田中さんはハンドルを握って、前方を見つめている。


「お嬢様の外出は、3年と7カ月ぶりになります」


 そう田中さんは言う。

 それはまぁ随分と引き籠りを拗らせたものだ。けれど確かに夕暮さんの肌や腕は、田中さんの言葉を証明するかのように白くて細かった。


「執筆も立派なお仕事で、お嬢様でしか成しえないことも多分に含まれますが、しかし、お嬢様ももう少し誰でもこなせることに興味を持っていただいても悪くはないと、むしろそうあるべきだと、私は思うのです」


 変わった言い回しだった。田中さんとはこういう人なのかと意外な思いがした。


「例えば、たまには外に出るとかそういうことですか?」

「はい」


 と田中さんは穏やかに言う。

「ですから、感謝しております。あなたが現れなければお嬢様は一生涯、庭に散歩にでることすらままならなかったのかもしれません」

 なんて、田中さんは夕暮さんの久しぶりの外出をまるで僕のおかげであるかのように言った。けれど、流石に僕はそこまで自惚れることは出来ない。お花見は、ただの彼女の気まぐれの一つに過ぎないとそんな風に思うのだ。


「たまたまですよ」と僕は言った。

「そういう時だったってだけです。僕がどうとか、あんまり関係ないんだと思います」

「そうかもしれませんね」

 実際、僕と喋っている最中に、彼女は此処から興味を失ったのだ。

「現に今、こうやって振られてしまいましたし」

 横目に見た隣の夕暮さんは、僕たちの会話にも一切の反応を示さない。話しているのは他でもなく彼女自身のことだというのに。

僕のことなど本当に興味がないのだ。

「なるほど」


 田中さんは、苦笑いみたいに微かに笑う。それからキーを回すと、エンジンをかけた。

そして言う「これだけは確かです」と。

まるで子供諭すかのように。

「お嬢様は今日、あなたが来るのを待って外出なされた。これだけで、私にとっては充分にお礼を申し上げる根拠になるのです」


 車は走り始める。僕はもう喋らない。わざわざエンジン音を遮ってまで伝えたいことは何もなかった。

 


 裏口にはタクシーが止められていた。レジィ様でしょうか?という恥ずかしい名前の尋ねられかたをして、僕の家まで。料金は当然のように求められなかった。


 僕の家は至って一般的だ。隣の家と内装や外装を今日からそっくり入れ替えますと言われてもきっと僕は困らない。それぐらいには普遍的。代えがたいものなんて何一つありはしない。夕暮さんのお屋敷とは大違いで、だけど、僕の主な居住スペース、僕の部屋はこじんまりとした5畳の空間だから、そこは夕暮さんの部屋とは大して変わらなかった。

…だから何だというのだろう。

 僕と彼女はあまりにも違い過ぎて、共通項を無理矢理見つけ出して、僕は一体なにがしたいんだ。

 なんて。

 どうでもいいことを少し考えた。


 玄関を開け、靴を脱いで、ぎしぎしとした音を時折立てる階段をのぼって、僕は自室に入った。


 煩雑さと清潔さの境界線。所有物の不足が故にぎりぎり整頓された部屋。見慣れた僕の部屋には、見慣れた美少女、葉月の姿があった。


 床に正座をして、小説を読んでいた彼女は僕が来ると目線を上げた。

 長い睫毛と共に瞼が何度か瞬き、口紅で紅く塗られた唇が動いた。


「おかえりお兄ちゃん、今日も覇気がないね」

「何でここにいるんだよ」

 ただいまも言わず、僕は無理にでも不愛想な声を出す。

 葉月は気に留める様子もなく本を閉じると少し体重を後ろに預けた。

「本でも借りてみようかなって」

「珍しいな」 


 僕はそう言って、ベッドに腰かける。葉月が本を読みたがることも、リビングのソファにいないことも、滅多にないことで、夕暮さんといい葉月と言いなんだか今日は普段しないことをしたがる日みたいだ。


「王子様は待たなくていいのかよ」

「いじわる」


 僕が言うと、責められたように葉月は不貞腐れた声をだす。

こと妹の表情やしぐさに関して、僕の思考回路の論理にfalseは存在しない。だから僕はただそれだけのことで肯定的にたまらない気分になってしまうのだ。


 僕はベットまで歩いてそこで上半身を倒す。白い天井が廻るようだった。


 鼓動が微かにスピードを上げ、体温がほのかに上昇する。大きく息を吐いて、無理矢理平静を装ったところで、僕をのぞき込む葉月の顔が視界に現れた。


 背中までかかる長い茶髪。引き込まれそうな目。家の中だというのに念入りにメイクされた顔。僕はこの妹に対して、正常な判断を下すことはもう不可能だけど、贔屓目、盲目。それを差し引いても葉月は美人には違いないのだと思う。


 前髪を重力に預けて垂らし、葉月は僕を見下ろして語りかけてくる。


「一年前ぐらいだっけ、言ったよね。お兄ちゃんは葉月の保険なんだって」

「もう忘れた」僕は努力してぶっきらぼうに答える。

「嘘。まだバイト続けてる癖に」


 可笑しそうに言って、葉月は僕の横、ベッドに腰かけた。葉月がいなくなった視界は白い天井だけになって、僕はその代わりすぐ近くに迫った葉月の穏やかな息遣いを感じた。


「じゃあ、もう一回言ってあげるよ」


 そう葉月は諭すように優しく言う。葉月の指先が僕の額に触れて、意味もなく前髪を弄ぶ。

 僕は忘れてなんかいなかったけど、喋らないし、留めることもしなかった。実際、続きを聞きたいのかも知れないな、なんて考えてただ降ってくる言葉を待った。

 微かに息を吸う音が聞こえて、僕は目を閉じる。


「お兄ちゃんさ、葉月が運命の王子様を見つけられなかったら結婚してよ」


 葉月は、この一年間でまるきり変わることはなかった。兄と結婚を試みるという迷走を未だに軌道修正できずにいて、そしてつまりそれは、僕が妹の過ちを未だに正してやれないでいるということと同義だった。

 無駄だと悟りながら僕は形だけの抵抗を試みる。


「だから、僕とお前の婚姻届けはこの国じゃ受理されないんだって」

「関係ないでしょ、そんなの」

「関係ないって…」

「法律以外は問題ないんだよ」


 葉月は簡単に言う。けれど、法律的に問題なのが大問題じゃないのかと僕は思う。倫理とか生物学的にとかいろいろ問題があるからこそ、法律で封じられたわけで、冗談でだれかが決めたわけではないのだ。

 けれど。

 結局僕も法律ぐらい大した問題ではないと、考えてしまっているのだから救いようのない兄妹だ。


「…子供も出来ないんじゃないのか?」僕は聞く。

「お兄ちゃん子どもが欲しいの?」


 葉月は心底意外そうだった。僕をなんだと思っているのだろう。まぁ確かに、今のは適当にそれらしい反論を述べただけで、結婚したら子供が出来ないから嫌だな、とは別に考えてはいないが。

 僕はようやく上半身を起こす。葉月は屈託のない笑顔を僕に向けていて

本当にため息が出る。


「なるかも知れないだろ。お前だってそうならないとは限らない」

「良く分からないけど、そうなったら、養子でもとればいいんじゃない?」

「適当だな」

「適当だよ」


 葉月はあっさりと言う。葉月と話すときはいつもこんな感じだ。葉月は滅茶苦茶な理論を強引に押し通して、僕はそれに上手く反論できない。

 主導権はいつだって葉月が握っていた。


「そんな簡単なことじゃなくて色々あるだろ」

「まぁいいじゃん、そういう難しいことはおいおい考えようよ」

 葉月は僕に肩を寄せる。

「ねぇ、お兄ちゃん」


と普段通りの声で囁いた。あまりに自然で、僕には葉月が心の中で何を考えているのか少しもつかめなかい。


「お兄ちゃんさ。特に好きな人も、嫌いな人だっていないでしょ」


 僕はそんなにドライな人間じゃない。お前のことが好きなんだよと、簡単に言えたらどんなに楽だったのだろうと思う。けれど僕は兄で。だから僕は曖昧な返答をする。


「そうかもな」

「つまりさ、お兄ちゃん」

「なに?」

「お兄ちゃんのパートナー、別に葉月でも構わないよね?」


 僕には分からない。

 こんな台詞を葉月がどんな気持ちで言っているのか。どうして笑っていられるのか僕には理解できなかった。

 それで僕はどうしてこんなに浮かない気分になっているのだろう。

 僕をよそに葉月は勝手に言うだけ言って、立ち上がる。読んでいた小説を手に取って、お帰りのご様子。どうやら本当に僕に用はなかったみたいだった。

 帰り際、葉月は一度顔を半分だけこちらに向けて、ばいばいと左手をひらひらさせながら言った。


「覇気のない少年募集。こんなバイトさっさとクビになってよね。葉月、どうせなら格好いい人と結婚したいもん」


 ドアが閉じ、去っていった葉月を見送って、僕はもう一度ベッドに沈み込む。

 困った妹だった。

 さて。

 葉月が僕を指して何気なく言った。

 好きな人も嫌いな人もいない、これが全ての問題の原因のように僕は思えてならない。葉月は限りなく誤っている。けれど、僕の心情を踏まえずにあくまで状態だけ解析すれば僕の振る舞いは全く持って葉月の言った通りなのだ。


 殆どの出来事が。殆どの人間が。何もかもが。僕にとって重要でないもの事だ。

 けれどそれは無関心を貫いているわけではなくて、葉月という存在が僕にとって大きすぎて、常に葉月のことで頭を一杯にしているからで。


 その癖、葉月のことなど微塵も気にかけていないように振舞っているのだから、覇気がないようにも見えるだろうし、誰にも何にも興味を抱いていないように見えるのだろう。


 素直になればすべてが変わる。覇気を取り戻して、バイトは首になって、葉月は、葉月はそのときどう思うのだろう。


 自由気ままに後先考えず、葉月に愛の告白をして、バイトもやめて、そんな風に生きることなんて僕には無理そうだった。


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