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恋人

 「飽きた。そろそろ跳びそうだ」


 長い睫毛が何度か瞬いて、夕暮さんの視線は何もない空中をさまよった。僕はもう少しだけこの場所にいたかったけど、生命活動に関わるわけでもなく、わざわざ我を通す理由はどこにもない…というか、僕はバイトで夕暮さんは雇い主で、友達でもなんでもないので夕暮さんが終わりだと言えば終わりなのだ。

随分と時間が経った気もするし、何にせよそろそろ頃合いなんだろう。


「じゃあ、帰りますか」

 僕は立ち上がる。けれど、夕暮さんはあごを膝に乗せたまま不機嫌な表情をした。

「帰らない」

「帰らないって」

 飽きたんでしょう。じゃあ帰りましょうよ。そう思うけれど、夕暮さんは動かない。

「何かが起きるまで帰らない」

 不貞腐れた子供そのものに、そんなことを言うのだった。


 何が起きるというのだろう。確かに起承転結は物語の基本で、僕たちの花見が物語ならば何かが起きるころだった。

 小説家である夕暮さんがストーリの転換を待つのは至極真っ当で。

 だけどただの学生である僕は知っている。

 ただの学生だからこそ、20年にも満たない人生で一般人であり続けた僕は気づいてしまっている。

 世の中、起承転結どころか起承結すらままらならないのだ。結ばれることもなく、始まることすらもなく、平坦に平坦に進行していくばかりだ。

 だから僕言う。

「何も起きませんって」

「ふぅん」

 夕暮さんは訝し気に眼を細め、僕を観察した。

 嫌な予感がする。こういう時の夕暮さんは経験上、めんどうくさい。言い始めたら納得するまで動かないし、僕の話など聞きはしない。

「じゃあ、何をしようか」

 そんな風に夕暮さんは言った。


 つまりは、これが今日のお仕事だった。天才作家である夕暮さんが納得するような結末でこのお花見を締める。

 まぁ、なんというか土台無理な話で、退屈してしまった夕暮さんはその内どこかに跳んでしまうんだろうなと僕は予感する。

「何か持ってきてるんですか?」

 背後に打ち捨てられたままの夕暮さんのリュックサックに目をやりながら聞くと、

「いや、ノートパソコンだけだよ。食べ物もない、花より団子なんてことになったらあまりにもしょうもないからね」

 と答えた。


 絶望的な答えだった。僕はいよいよ諦める。夕暮さんも言ってはみたもののも具体的な方針はまだ決めていなかったみたいで、どこか気怠そうに身体を丸めて黙っていた。

「キスとかしてみる?」

 僕が隣に腰を下ろして数秒、夕暮さんは突拍子もないことを言った。

「なんでですか?」

 禄でもない方向に話が進みだしたなと僕は思う。

「むかし観た世界のクライマックスだ。あれも確か桜の木の下で、報われない男女がキスをしてそれでお終いだった。もしあの世界の続きが観えるなら観てみたい」


 そのお話は知っている。読んだことがあるからだ。

バイトを始めたころ、暇つぶしに読んだ夕暮さんの書斎に並んでいる数少ない本の一つ。

 人間をたくさん殺した女の子と青空を眺めるのが好きな男の子の話だ。

 あのお話の続きならば僕だって知りたいところなのだけど、僕は生憎、アスファルトの方が好きだし、夕暮さんだって幸い人殺しじゃない。残念ながら、彼らは彼らで僕らは僕らなのだ。どうしようもなく代替手段にはなりえそうもなかった。


「止めましょう。夕暮さんの好きな世界なんでしょう?」

「そうだね。綺麗なまま、めでたしめでたしで終わっておくのが一番いいのかもしれないね」 

 だけど、と夕暮さんは言う。

「悪くない方向性なのかもしれない」

 それから結論までには時間はかからなかった。

「恋人ごっこをしよう」

 方針は決定されたようだった。この決定はもう僕には覆せない。ため息を一つついみたところで、夕暮さんの気分が変わるわけでもなかった。

「分かりました。で、具体的に何するんです?」

「おや、素直じゃないか」

「嫌って言っても無理矢理やらせるでしょう」

「まぁ、そうだけど」


 夕暮さんが僕に体を寄せる。夕暮さんの距離感はよく分かっていない。恋人ごっこはもう始まっているのだろうか。


「でも、キスは駄目だし、さっき手もつないだし」

 夕暮さんは顎に手を当てて考える。どう効果的に恋人ごっこを行うか考えているらしい。桜の下で身を寄せ合っていたら、僕にはそれだけで恋人に見えるけれど、夕暮さんにとっては違うのだろう。

「取り敢えず、段階を踏んで恋人になるところから始めみようか」

 そう言って、夕暮さんは立ち上がった。

 …何だそれ。僕の理解はまだ追いついていない。

「え?」

「だから、きちんと初めから始めようと言っているんだ。君は今から私に告白するんだよ。好きですってね」

「楽しいんですか? それ」

「やってみれば分かる。私は今から女子高生になろう」


 セーラー服の夕暮さんは確かに女子高生だった。だったら僕は何だろう。ありのまま女子高生に告白する、大学生か。というかこの人僕より年上のはずなんだけどな。

 もしかしたら告白されるのは、私ではないと、そう言いたいのかもしれない。そう思うと空しくなった。夕暮さんは告白されたいんじゃなくて、僕が告白するところを観察したいんだろうな。


「始めるよ」


 夕暮さんが催促するから、僕は立ち上がり、桜を背にした夕暮さんと向かい合った。

 言葉に詰まる。経験がなかった。だいたい突然が過ぎるという話だろう。

 告白する人間は、少なくとも一週間ぐらいは心の準備をするのだろうから、事前通知ぐらいはしてほしいというものだ。


「えーと、夕暮さん」

「違う、凪」


 夕暮さんが訂正する。どっちでもいいだろうと思うけど、語気が強い。どっちでもいいから、素直に従う。


「凪」

「どうしたの、レジィ君」


 首を傾げた夕暮さんのお下げが揺れて、きゅるんと潤んだ瞳が僕を捉える。あまりに器用に乙女を演じるから、僕はなんだか本当にこれから愛の告白をするような気分になった。

 今の夕暮さんは僕を試すような雰囲気じゃない。あの瞳から見たこの世界はどう映っているのだろう。僕の意識は一瞬どうでもいいことに奪われて、また戻ってくる。


「ずっと好きだった。付き合ってほしい」

 シンプルに言ってみると、夕暮さんは眩しそうに笑った。

「嬉しいな。喜んで」


 夕暮さんは器用にも頬を赤らめて、まるで初心で無垢な少女みたいだった。「悪くないね」そう呟いた後、夕暮さんの手がだらりと垂れた。

 夕暮さんはそのまま数歩進んで、僕に近づいて、そしてだんだん遠ざかる。

僕は夢遊病者さながらに、投げ捨てられたリュックに向かう彼女の後ろ姿を眺める。


 夕暮さんは当分戻ってくる雰囲気はなかったけれど、もう待つ必要もない。

 花見をするという今日のミッションは完遂されたわけで、バイトはこれで終わりなのだ。


 夕暮さんは、もう僕には毛ほどの興味もないんだろう。悪くない、だなんて言ってみても、結局この人はこうなのだ。この世界から逃れられるならば、僕を置いてすぐにどこかへ行ってしまう。


 鞄から取り出されたノートパソコンが、正座した夕暮さんの膝で音を鳴らしていた。


 夕暮凪は今どんな世界に跳んだのか。

 彼女の脳内にはいくつも世界があって、気が付いたらその世界に跳んでいる。

ただし、期限付き。途中下車は可能だけど、一度しか乗れないテーマパークのアトラクションのようだ。と彼女は言っている。だから、楽しかった思い出を写真に残すように、永遠にしようと、僅かに残った現実世界での意識をフル稼働して、必死に記録する。


 彼女にとって、現実世界は退屈でたまらないのだ。


 この世界ではヒーロもヒロインもヒール役だって、役不足で。だから、メリハリのない中途半端な物語があちらこちらで不完全燃焼のまま完結を迎える。

 自分の中で、劇的な日々を送り続けている夕暮さんにとっては耐え難い苦痛で。

 だから、彼女は現実世界に居続けることが出来ない。

 退屈で退屈で。

 耐え切れずに、直ぐに逃げ出してしまう。

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