セーラ
夕暮邸の玄関口。春一番の温かい太陽。僕はまた葉月の事を考えていた。
夕暮さんが準備をするといって、僕をここで待たせているからだ。
しかし、待ち時間=葉月の記憶をリフレインする時間、となったのはいつからだろう。それは間違いなく、このアルバイトを始めたころから、膨大過ぎる待ち時間を消費するためであって、だんだんと鮮明になっていく妄想の中の葉月の表情は、僕の異常性を際立たせるようで、しかし幸福であることに違いがなかった。
夏だった。
これは確か、去年の夏、僕がまだ慣れていないアルバイトから帰って来た時の記憶だ。
それでちょうど生産性がなさすぎるただ待つだけのアルバイトにも、夏にだってうんざりしたころだった。
葉月はソファーにいつも通り座っていて、アイスクリームを食べていた。
「おいしいよ?」
小突いてやりたいくらい生意気な顔をして葉月は言った。
「よかったな」
「はい、あーん」
差し出されたスプーンを僕は平静を装いながら無表情にくわえて、葉月は満足げに笑って。そんな夏の記憶を僕は何度も何度も繰り返し、繰り返す。
♢
「レジィ、待った?」
背後から声がして、僕は振り返る。
夕暮さんだ。
僕は質問には答えなかった。答えるまでもなく待っていて、夕暮さんは待った? ではなく、待たせたね、というべきで、さらに言えば、待つ待たないの男女の機微を僕は彼女と演じたくなく、それにもっと別に聞きたいことがあったからだ。
「……えっと、なんでセーラー服なんです?」
夕暮さんが着替えると言って、それなりの時間を掛けてチョイスした服装は、黒いセーラー服だった。あたかも教科書が詰まってますとでも言いたげなリュックサックを背負い(実際に入っているのはノートパソコンだろう。彼女が記録媒体を手放すことはあり得ない)ご丁寧にローファーやニーソックスまで着込んでいる。
見れば見るほど手の込んだコスプレのようで、時間がかかるわけだと僕は思う。
「うん? そうだね」
夕暮さんは眉を上げる。一瞬の沈黙の後、夕暮さんはあごを挑戦的に僕のほうに向けた。
「似合っているだろう?」
まぁ、似合っているけどさ。
そもそも、夕暮さんは何を着ても似合わせないってのは、難しいんじゃないですか。と言うのが本音だったけど、そのまま伝えるのは無防備が過ぎるように思えて、僕のほうも一瞬黙ってしまう。それで、結局出てきたのはひどく曖昧な答えだった。
「…まぁ、はい」
「そう思ったよ」
夕暮さんは僕から視線を外した。嬉しそうに頬が緩んでいて、こんなことならもっと素直に褒めておけばよかったと僕は後悔する。
こういう無邪気な顔をしているときのこの人を、僕は嫌いじゃないのだ。僕を観察しているわけでもないし、虚ろな目で現実世界を完全に遮断しているわけでもない。
無駄に警戒して予防線を張る必要なんてどこにもなかったのだ。
「じゃあ行きましょうか」
僕がそう言った時には、もう夕暮さんの表情からは、幼子のような可愛らしさは失われていた。僕は残念に思うけれど、そもそもこれが本来の夕暮さんなのだ。
だから失ったというよりは、取り戻したといった感じで、いつもらしく夕暮さんは言うのだ。
「いや、お姫様抱っこしてもらおうと思ってるから、すぐには行かないよ」
「…勘弁してください」
愉しくてたまらないみたいだった。愉快そうに夕暮さんは満面の笑みを
「レジィは本当に嫌そうな顔だけは上手だね。分かったよ。じゃあせいぜい繋ぎ留めておいてくれたまえ」
言い終えて、夕暮さんは僕に手を伸ばした。僕は広げられた手のひらを殆ど無意識に掴む。夕暮さんの手はひんやりと冷たくて、絡みついた指から体温が吸い取られていくのを感じた。
「桜はどこにあるんです?」
「知らないの? 裏手だよ」驚いた顔で夕暮さんは言う。
「仕方ない。エスコートしてあげよう」
そう言って、歩き始めた彼女に手を引かれて、僕はローファーの踵に付いていった。芝生は踏みしめられて、心地よい音を立てていた。
屋敷を回る途中、玄関で控えめに手を振っているメイドの佐藤さんの姿が見えた。夕暮さんは夢中で歩いているから気づかない。例え、気づいたとしても気に留めないだろう。僕と目が合うと、佐藤さんは中指を立てて舌を出した。ばーか、と口だけで言っている。
どうしてあの人は無駄にリスキーな行動を取るんだ。
僕は苦笑いした。
それで僕は佐藤さんが見ている内に、夕暮さんとおしゃべりがしたいと思った。
それもできるだけ仲睦まじそうに。
佐藤さんが夕暮さんに恋慕にも似た執着を抱いていて、ついでに拗らせているのも知っているからだ。
まぁだから、ちょっとした意趣返しで仕返しで。
子供っぽいのはお互い様だということだ。
「なんで、セーラー服なんです?」
さっきははぐらかされてしまった服装について気にはなっていた僕は取り敢えず質問する。
「どうでもいいじゃないか、そんなこと」
夕暮さんは面倒くさそうだった。まぁ、僕も無理矢理にでも聞きだしたいこと、というわけでもないので
「なら、いいですけど」
とすぐに諦めた。けれど、ため息とともに答えが返ってきた。
「非日常だから」
そう言った夕暮さんの視線は前だけを向いていて、表情は伺い知れない。
「何ですか、それ」
「日常にはない刺激で脳をいっぱいにしておかないと、すぐに飽きてしまう。飛ばないための悪あがきだよ」
淡泊で無感情な口調で、僕は罰が当たったなと思った。聞くまでもない愚問だった。おふざけでコスプレしているわけではないと、そんなことはちゃんと頭を働かせればすぐに分かったはずなのに。
「やっぱり、この世界はつまらないですか?」
「最高に。数十メートル歩くのでやっとだ」
冗談めかして言っていたけれど、僕にはその声は悲痛に聞こえた。夕暮さんにとっては大きなお世話だろう。彼女は自ら好んで、この世界に見切りを付けているのだ。
だけど、僕は何か哀しくて、繋ぎ留めておけるだろうかと、少しだけ握る手を強める。
「そういうことだよ。レジィ」
そう言った夕暮さんの手は未だに冷たくて、どこか現実離れしていた。
♢
果たして、夕暮さんは跳ばなかった。
夕暮さんの言う、ギリギリ持つんじゃないかは正しく、僕の不安は杞憂に終わり、それでつまり、僕たちの前には桜がある。
満開の桜が僕の視界を覆っていた。時折吹く風に合わせて散った花弁は、不規則な軌道を描き、グリーンの芝生にピンクのまだら模様を作っていた。
これだけの大樹を僕は一年間、見過ごしていたらしい。僕と夕暮さん以外に人の気配はなく、(私有地なのだから当たり前だ)なんだかいきなり別世界に飛ばされてしまった気分だった。
きっと夕暮さんが普段見ている世界はいつだってこんな風なんだろう。
こんな風に綺麗なものばかり見ていたら、現実世界はさぞ汚れてみえることだろう、とそんなことを思う。
「夕暮さん」桜を見上げながら僕は声をかける。
「なんだい、レジィ」
「これからどうする予定なんですか?」
「だから花見だよ」
そう言うと、夕暮さんは僕の手を解放した。リュックを地べたに置くと、そのまま木の根元まで進み、体育座りで座り込んで、スカートと一緒に膝を抱え込んで上空の桜を見上げ始めた。
あの眼だった。
全てを呑み込もうとするような、深い目。
ただし、普段と違うのは興味の対象が僕ではなく桜であることだった。
このひとは情報媒体を通さない、リアルな桜を見たのはいつぶりなんだろう。少なくとも僕はこの一年間でこのひとが、あの部屋から出たところを見たことがなかった。
今、夕暮さんは桜を見ることに夢中だった。それ以外には意識のリソースは一切割かれていない。肩や髪に舞い落ちた花びらにも、隣に僕が座ったことにも構いもしない。そもそも気づいてすらいないのかもしれない。
また、彼女に言葉は届かない。僕はまた待ち続けることになったのだ。けれど、不思議と無益な時間だとはあまり思えない。打鍵の音が響いていないだけで、夕暮さんが心身ともにすぐ隣にいるというだけで、本質的にはいつもと何も変わらないというのに。
幹に背を預けた僕は夕暮さんに倣って、桜を鑑賞する。
僕にしても、いつもは景色の一つとして横目に眺めるばかりで、腰を据えて桜を見ることだけに集中するのは初めてのことだった。
随分と勿体ないことをしてきたようにも思えるし、それはつまり、大して必要のないこだったという証明になりえるのかもしれない。
けれどまぁ、不必要だから価値がないというわけではないだろう。現に今僕は悪くない気分で、暇つぶしに葉月のことを考えようすら思っていないのだし。