夕暮さん
脳内で反響したのは、何度目かもしれない、おはよう、だった。
しかし、ウィンクする葉月が映し出されることはなく、そこで僕の夢想は中断される。
「やぁ、レジィ、今日も覇気のない顔をしているね」
と、代わりに聞こえたのは夕暮さんの声だった。目を開けると、ルームチェアはこちらを向いていて、打鍵は止んでいる。彼女の後ろ、窓の先の明るさから見るに、まだそれほど時間は経っていない。ラッキーだった。僕だって無意味に時を消費したいわけではないのだ。
「呼び出したうえで待たせておいて、随分な言い草ですね」
僕は言ってみる。一応、苦情を言う権利くらいはあるだろう。けれど、
「いつものことだろう?」
と夕暮さんは悪びれもしなかった。
悪戯っぽく笑う瞳の上では、切り揃えられた重い純黒の前髪が綺麗に並んでいる。
まぁ、本当にいつものことなので、いまさら声を荒げることもない。だから僕は淡々と事実を伝えた。
「今日は速い方でしたよ」
「そう」
僕が言うと、夕暮さんは大して興味もなさそうに肯いて、首を鳴らしながらゆっくり立ち上がる。
いつも通り代わり映えのしない、灰色のスウェット姿だった。夕暮さんは大きく伸びをすると、ぽきりぽきりと関節が小気味のよい音を鳴らした。
「今は二つしか書いてないから」
と彼女は言う。二つも書いていたら十分でしょう、僕は思うけれど口に出すことはない。それはあくまで僕の感覚であって、彼女の感覚ではないのだから。
「それで、今日はどういったご用件で?」
話題を変えたひと言がトリガーになってしまった。そこで突然、電池が切れたように夕暮さんの動きが静止した。
肩から力を抜いて棒立ちになった夕暮さんは、別の世界へ跳んでしまったときの格好で、僕は一瞬また待ち時間が増えるのかと悲しくなったけれど、しかしまだ好奇の光が宿った目が僕を射抜いていた。
有難いというよりは面倒だと感じる。
「レジィ、いきなり本題とは、感心しないな」
ゆらりと首を傾げて、夕暮さんは言う。やっぱり面倒そうな、嫌な目つきをしている。
「夕暮さんがここにいる内に話を進めたいんですよ」
「ふぅん」
夕暮さんは僕の意志を組む気があるのかないのか、分からないような返答を残して、ノートパソコンつかみ、チェアを乱雑に引き寄せた。そして一歩ずつ近づいてくる。
夕暮さんに引きずられた椅子のキャスタとフローリングが擦れる音が妙に大きく聞こえた。
「それで君は、無事二回生になれたのかい?」
超至近距離。チェアに座った夕暮さんは僕を見る。顔が異様に近い。鼻と鼻が触れ合いそうな距離で、夕暮さんの膝が、僕の足の間に割り込んでくる。視界は彼女の瞳にジャックされた。瞳孔は開いていて、瞬きすらしない。
僕を観察しているのだ。
「おかげさまで」
僕が答えても、目はまだ見開かれたままだった。
「そう」
「不満そうですね」
「別に。ただこの国の未来を憂いただけだよ。少なくとも教育機関はまともに機能していないみたいだ」
失礼なことを夕暮さんは言う。
「僕に留年してほしかった?」
「留年がどうとかより、レジィの人生が勝手に順調に進むのが気に入らないな。君にはサイコロを振ったら一番小さい値しか出ないような、そんな、ままらない人生を歩んで欲しいと思っているんだ」
「………」
「何故だか分かる?」
「いえ、皆目」
「私の庇護の元でなければ生きられないようならば、君をずっと手元に置いておけるだろう?」
そう言った後に夕暮さんは口を大きくゆがめた。会話の最中、一度も目が逸らされることはなかった。それでも目だけは一度もにこりともせず、見開かれて、僕の表情の変化を凝視していた。いったい会話の中に本音はどれほど含まれていたのか、この人はビーカに試験薬でも垂らすように、言葉を発しているだけなのだ。
「それはどうも」
こういうの何回目だろう。いい加減慣れてきていて、いい加減にしてほしい僕は、おざなりな返答をする。
「つれないな」
と、空を仰いだ夕暮さんは諦めたように言うと、やっと僕から視線を外した。彼女は床を蹴って、反発したチェアは夕暮さんを載せて、僕から遠ざかっていく。
「レジィの喰い付きがよければ、結構甘やかしてあげようと思ったのに」
そういった夕暮さんの目はもう僕を捉えていなかった。つまらなそうに俯いている。だから、僕は結構反応に困った。目を合わせていないときの方が、彼女の言葉は信用できるのだ。
「何かあったんですか?」
「うん」と夕暮さんは頷く。
「なじみの骨董屋、正確にはアンティークショップかな、まぁ、なじみの店があるのだけど、それがもう売るものはないと言ってきたらしい。別に価値のないものでも構わないのに、そういうとこ、頑固なんだ。だからこそ、田中はあそこでオーダしていたのだろうけど、困ったね、お金の消費先としては、適度に無益で丁度よかったのに」
まぁ、このひとは部屋から殆ど外に出ないんだから、欲しいものとか大してないんだろうな。
「無理に使わなくても」僕は言う。
「貯め込んで腐らせるのもなんだか悪いことをしている気がするんだ」
「じゃあ、募金とか」
「嫌だね。善人じみた真似は趣味じゃない」
悪人にも善人にもなりたくないらしい。不器用で偏屈な人だった。
「それで?」僕は聞く。
「だから、ペットでも飼ってみようかなって」
簡潔で禄でもない答えが返ってきた。
「嫌ですよ」
僕が言うと、夕暮さんは天井を仰いで、投げやりに言った。
「まだ君を飼いたいとは言ってないだろう。自意識過剰なんじゃないか?」
「違うんですか?」
「そうだけど」
あっさりと夕暮さんは白状して、僕の頭には人身売買は犯罪だと、下らない冗談が浮かんだ。明らかに的を射ていない。夕暮さんがいうのは、いわばヒモとしての、僕が僕の意志で彼女に飼われることで、それで、それが嫌だって話で、馬鹿みたいな話はこれでお終いにした方がよさそうだった。
夕暮さんはいつまでも、ここにいてくれるわけではないのだから。
「で、今日は何の用なんですか」
僕が聞くと、夕暮さんは背もたれに体を預けて、こちらに視線を合わせた。少し身構えたけれど、夕暮さんが発したのは純粋な毒気のない一言だった。
「庭の桜が満開らしくて、だから花見でもしようかなって」
「どうぞ」僕は少し驚いて、取り敢えず答えた。
「君もするんだよ。君と私が一緒に花見をするんだ。一体君は何のために呼び出したと思ってるんだ」
それもそうだ。肩透かしを食らった感じで、反射的に答えてしまった。しかしそれでも、アルバイトつまりはお金をもらって呼び出されておいて、僕は素直に頷けなかった。夕暮さんは引き籠りを拗らせていて、そして、理由もなく拗らせたというわけではないのだ。
「…外に出るんですか?」
「たまにはね」
「大丈夫なんですか?」
「外、といっても敷地内だ。長い移動距離じゃない。君が手を引いていってくれれば、まぁなんとかギリギリ持つんじゃないかな」
「ないかって」
嫌だった。保証はなくて、そして根拠ないギリギリで夕暮さんが持たなかった場合、現実世界で立ち往生するのは僕だけなのだ。
夕暮さんは、困っている僕の顔が可笑しいのか (いい性格をしている)拳で口を隠すと、「こういう時だけ君の表情は分かりやすく動くよね」と能天気に肩を揺らしている。
そんなに嗜虐心をくすぐる表情をしているのつもりはないのだけど。
「最悪、君がお姫様抱っこで運べばいいんだ。桜まで運んで、後はいつものように待っていてくれればいい」
無理なことを、なんでもないことのように言うのが夕暮さんだ。僕の都合など関心がない。残念ながらもう絶対的に決まってしまっていて、何があろうとも覆ることはないのだ。
「分かりましたよ」
ため息をついて、僕は口だけの返答をする。本気じゃなかった。もし夕暮さんが途中で別の世界に行ってしまったら、容赦なく置いて行こう。幸いここは夕暮邸なのだから。いくらなんでも死にはしない。それで田中さんを呼べばいい。心の内ではそんな風に決めていた。
のに。
僕の算段は、あまりにも脆く瓦解する。
口角を緩ませて、幸せそうに、混じりっけゼロの幼子みたいな顔をして夕暮さんが凄く嬉しそうに微笑んだせいだ。
「ありがとう。レジィ」
葉月がいる。と僕は思う。あれは葉月がわがままを通したときの顔そのものだった。そして、あの類の表情を見せつけられる度に僕は思うのだ。
卑怯だ、と。
もう逆らえない。そんな顔をされると、僕が卑怯になれなくなってしまう。嘘や誤魔化し、あるいはことを上手く運ぶための方便すらも封じられ、徹底的に誠実であることを強制的に要求される悪魔のような純粋さだ。
こうなってしまうと彼女の体重がどれくらいか考えるぐらいにしか、僕にはもう打つ手がない。