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結婚

 覇気のない人間募集。

 A4サイズの残りのスペースには日給一万円とだけ記載されていた。


 そんな冗談みたいなアルバイトの求人広告を僕の所に持ってきたのが葉月ならば、僕の個人情報で埋め尽くされた必要書類を揃えて、勝手にポストに投函したのも葉月だった。


 言い分はこうだった。


「お兄ちゃんなら絶対受かる」

「で、出来るだけ早くクビになって」

「葉月、どうせ結婚するならかっこいい人がいいもん」


 要は、僕がバイトをクビになる頃には、少なくとも僕は覇気のある人間であり、背筋の伸びた一回り成長した人間になっているだろうという算段らしい。 


 お前は僕で妥協したんじゃなかったのかよ。しかもあくまで保険で。

 と思ったけれど、口にも出してみたけれど、結局妹の頼みには何一つ逆らえないのが僕なのだった。


 しかし、まぁ世の中上手く行かないものである。


 あっさりと、アルバイトの面接を合格し、(妹に無理やり応募させられたという志望動機が決まり手だった。確かに本当に覇気のない人間はこんな怪しげなアルバイトに自主的に応募などしない)ほくそ笑む葉月を見たときは、世界は僕ばかりに牙をむき、葉月には良い顔をし続けるのかと、嬉しくも悲しくもあったものだけど、結局一年たった今でも、僕はバイトをクビになれていないのだから、もう悲しいだけ、本当に世の中上手く行かないものだ。


 妥協で兄と結婚しようと目論む妹と、何一つ妹に逆らえない僕。


 僕たちはいつだってLose-Loseの関係で、一緒に居ない方がお互いに幸せになれるに決まっているのに、居心地がいいせいでいつまでも離れられないでいた




 どうしてこんなことになったのか。


 思えばすべての始まりはあの地点。大学一年生、19歳の五月だった。

 ここに至るまでは何の伏線も脈絡もなかった。あるいは何か前兆はあったのかもしれないけれど、いちいち伏線だとか原因を洗い出していったら、それはもう僕の誕生から語らなければいけないわけで、やはり物語を語るのであればここから始めるのが適切なんだと思う。


 初夏のあの日は前日までの涼しい気候が嘘みたいに気温が上がった日だった。僕は前日通り羽織ってしまった上着を後悔していて、首筋にかいた汗がうっとおしかった。


 大学から帰り、リビングに足を踏み入れると、妹、葉月がいつものようにソファに寝そべっていた。葉月は、食事の時と、寝るとき以外は、いつだってここにいる。もう高校生で、彼女にも部屋は当然あるというのに、それでもリビングのソファが彼女の定位置だった。


「ただいま」


 僕が言うと葉月は


「うん」


 と、つけっ放しのテレビにも、兄の帰宅にも目もくれず、手のひらの中の液晶画面をフリック操作しながら答えた。


 全くいかにもな16歳の女の子だった。いつも通りで、別に話すことがあるわけでもなく、それなりに汗をかいていた僕は、水分をいくばくか取り戻そうと飲み物を取りにキッチンへ足を延ばした。


 その時、葉月が言ったのだった。


「お兄ちゃん、結婚しようよ」

「……………は?」


 一瞬、何を言っているのか理解できなかった。


 葉月の言葉を脳内で反芻して、そして結局フリーズした僕は、間抜けな一文字を発して、葉月の方に向き直る。しかし、葉月の視線は未だにスマートフォンに注がれていた。聞き間違いか、と僕は思う。

 いくらなんでも、言動の不一致が過ぎたからだ。

 葉月はスマートフォンを眺めながら、どうでもよさそうに兄に結婚を申し込む頭のおかしい人間ではない。と僕は信じている。

 ならば葉月が本当は何と言ったのか僕には分からなかったけれど、どのみち兄妹間の会話に大して有益なものなど存在しないのだから、まぁいいかと僕は歩を進める。


「お兄ちゃん」


 けれど、三歩も歩かないうちに僕の背中に、葉月が言った。リビング中に響き渡る程度の、葉月にしては大きな声だった。

 振り返ると、今度は葉月の視線はしっかりと僕に注がれている。そうして、葉月は綺麗にメイクされた顔と朱に塗られた唇を不機嫌そうに尖らせて僕を詰問したのだ。


「は? じゃなくて、結婚。YesなのNoなの?」


 聞き間違いじゃなかった。

 じゃあ、もうお前頭のおかしい奴だよ。

 

 とはいえ、たった一人の妹なのだから、強烈に個性的な人間と接するときのように、赤の他人を装って目線を合わせないようにするというわけにもいかないだろう。


 だから僕は、兄として必要以上に真面目に答えた。


「Noだろ、お前は僕の妹なんだから。婚姻届けは受理されない。したくても出来ない。だからNo」


 葉月は瞬きを一度して、なにか喋りかける。が、メッセージの着信を告げる受信音が鳴って、葉月はまた僕から視線を外した。そして指先を素早く躍らせながら、葉月が言った。


「血が繋がってないとしたら?」

「え?」

「連れ子なんだってお兄ちゃん」

「マジで言ってる?」 


 言った葉月は、返信を終えてスマートフォンをポケットにしまうと、にこりともせず、僕を見た。いつも通りのフラットな視線。感情は宿っていなくて、高校生のくせに茶色に染めた髪も、室内でもスウェットやジャージのような部屋着には頼らず、ロングスカートとニットなんて、きちんとした格好をしているのもいつも通りで、いつもと違うところなんて何一つない。会話の内容だけが異常事態で、なんだかとてもアンバランスだった。


「おい、誰がそんなこと言ってたんだ?」


 僕が聞いても、葉月は答えずただ真っすぐに僕の目を見つめてくる。そうして、目を合わせたまま数秒経って、葉月はにやりと笑うと一言、言った。


「冗談」


 ふぅ、と小さな吐息が漏らしたのは僕だ。


「…びっくりさせるなよ」


 葉月はにやにや笑いながら上半身を上げた。それからソファの空いたスペースを、右手で二回、ぽんぽんと叩いた。僕は、もう面倒臭い気分になっていたけど、促されるまま、にやにやと笑っている葉月の隣に座る。


「で、何があったんだよ。理想の王子様以外とは、結婚はおろか、男女交際もしないんじゃなかったのか?」

「うん、そうなんだけどね」


 言いながら、肩にしな垂れかかってきた葉月を僕は押し返す。

 もう、と葉月は不満そうに鼻を鳴らした。


 葉月は、夢見がちな16歳だ。


 脳内がお花畑と言ってしまってもいい。いつの日か、王子様がやってきて、自分をどこかに連れて行ってくれる。そんな御伽噺みたいな絵空事を、本気で信じているのだ。


だから、いつだって葉月は備えている。王子様がいつインターホンを鳴らしてもいいように、予定のない日でも、部屋着なんて甘えた格好はしないし、化粧も怠らない。いつだってリビングにいるのも、きっと現れた王子様にすぐに会うためだろう。

 二階から一階のタイムラグだって葉月は我慢できないのだ。


 葉月は伸びをして、それから、実に深刻そうな表情をした。


「もう高校生になったのにさ、全然、王子様が現れる気配がないんだよ」

「まだ高校生だろ」


 僕は言う。高校で出会って、そのまま結ばれる男女が一体どれほどいるというのだろう。そうはいっても葉月は取り合わず、またあくまで深刻そうに続ける。


「もしかして、王子様とかいないのかな?」

「その王子様しか恋愛対象としてみないなら、べつにどっちでも良いだろ」


 僕は適当だ。


「良くない」


 頬を膨らませた葉月は、小動物のようでやはり可愛かったけれど、話の内容は実に生産性がなかった。世界線だとか、王子様だとか、僕には知りえない話で、さりとて、話の本質でもない。


「どうして、僕と結婚しようと思ったわけ?」


 僕が本当に聞きたかった質問に、葉月は眉間に皺を刻みながら実にシリアスに言い放った。


「いや、この際、お兄ちゃんで妥協してもいいかなって」

「馬鹿かお前は」


 明らかに葉月は悩み過ぎていた。兄との結婚を視野に入れてくるのはどう考えても迷走してしまっている。

 僕は、葉月の頭を軽く小突いて、立ち上がる。だけど、葉月の右手が伸びてきて、僕の動きを制した。


「なんだよ」

「本気で言ってるんだよ?」


 そう言った葉月の顔は、照明を浴びて、ライトアップされていて、息を呑むほど綺麗だった。

 ああ駄目だ。

 あの時の僕は、蜘蛛の巣に捉えられた昆虫そのものだった。体が硬直してまともに動けない。視線も葉月の目から一部も逸らせない。あとはもう捕食を待つばかりの格好だ。

 そして葉月は僕を開放しないまま、憎たらしくも潤ませた瞳で容赦なくとどめの一言を放ったのだった。


「お兄ちゃん。お願い、もしこの世界に王子様がいなかったら、その時は葉月とずっと一緒に居て、葉月を一人にしないで」


 こいつは、上目遣いに僕を見つめる自分の顔がどれぐらい可愛いか理解していないんだろう。僕にとっては心臓に直接、銃口を突き付けられるのと同等で、あまりにも暴力的な脅迫行為だ。逆らう術などあるはずもない。


「好きにしろよ」


 だから、すぐに降参した。兄なのに。本当は現実を見ろと軽くあしらうのが一番良いに決まっていたのに。すべての責任を放棄したのだ。


「えへへ、ありがと」


 ちょっと前まで、今にも泣きそうな顔をしていた癖に、器用にも葉月は簡単に破顔する。それだけで、僕は後悔の念すら失ってしまうのだ。

 だって、仕方がないだろう。

葉月にとっては妥協でも、僕にとって葉月は、初恋の相手なのだ。そして性質の悪いことにその初恋は今になっても継続してしまっている。

妹に現在進行形で本気で恋している僕である。

断れるはずもない。


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