リクの世話人
リクはドアを開ける音で目が覚めた。自分は一人暮らしのはずで、今は冬で、こんなに日が差しているということは結構遅い時間で、つまり、
「遅刻だ!」
焦ってがばっと起き上がった。
「遅刻? なんだ、お前湖沼の学院にでも行ってるのか。その年で」
「あ、はあ? いや、俺突然ここに落とされて」
起き上がったとたん、知らない部屋で、急に誰かに話しかけられたリクは戸惑ってそちらを向いた。見たことのあるような目つきの悪い男がいた。そうだ、自分は昨日女神にこの世界に落とされて、やっとたどり着いたのがこの人のうちで。昨日のことがいっぺんに思い出された。
「落とされてだって。やはりか」
そう言って腕を組んで難しい顔をすると男の目つきはもっと悪く見える。それにしても、たくましい。リクは元の自分のよく言えば流行りの細い体を思い浮かべ、ちょっと切なくなった。鍛えても筋肉がつきにくいうえに、仕事が忙しくて体を鍛えている暇なんてなかったんだ。いやいや、そんなことを考えている場合ではない。ちゃんと話をして、これからどう身をたてるのか考えなくては。
「お前、親はどうした」
「親、とは、もう会えないんだ」
リクは思わずうつむいた。リクは小さいころ両親が離婚して、大学を卒業するまで母親と二人暮らしだった。父親とは小学生の頃は何度か会ったが、中学に入る頃には疎遠になっていたし、もう十数年会っていない。向こうの事情もあるのかもしれないが、母親を苦労させているのがこの男だと思うと、同じ男として素直に会って嬉しいとは思えなくなっていた。
しかし、母親とは仕事で離れていても、仲は良かった。今頃事故の話を聞いて心配しているかと思うと、心が痛む。しかも、母親もいずれは狩られるという。もう二度と会えないのだ。
「では、お前の面倒を見るものは今はいないということか」
「そうです」
「そうか」
男はそれ以外何も言わずに、黙って厚手のシャツを差し出すと、こちらへ来いというようにドアのところで待っている。リクは急いでベッドから出ると、大きすぎるシャツを羽織って急いで男の後に続いた。
ドアを出ると、すぐに居間だった。決して大きくはないが、白い漆喰の壁は明るく、いくつもある大きな格子の窓から草原が見えている。四人掛けのテーブル。簡易に仕切られた台所。片付けられていて、居心地がいい。
「そこに座れ」
椅子は子ども用なのか、段がついていてすこし高かった。男は台所から、スープボウルにたっぷりとシチューと、それから厚く切って焼いたパンを持ってきてくれた。バターが添えられている。
「お代わりもある」
つまり食べていいということなんだろう。リクはスプーンをつかむと、熱々のシチューをフーフー冷ましながら口に運ぶ。ミルクがたっぷりでうまい。次に少しだけ焦げ目がついたパンを手に取る。温かいうちにバターを塗らないと。バターに添えられている小さいスプーンでバターを塗り広げていく。それを見て男が眉を上げていることに気づかずに。
体が小さくなったせいかすぐにお腹がいっぱいになり、残念ながらお代わりはできなかったが、リクはおいしい食事に満足した。うん、この世界でもやっていけそうだ。
リクが食事を終わってごちそうさまの挨拶をすると、男は黙ったまま皿を下げようとした。リクは慌ててそれを止めると、急いで椅子から降りて食器を自分で持った。また眉を上げる男に付いて台所に行く。リクが流しに皿を置くと、男はすぐに皿を洗い始めた。柄のついたたわしのようなものでこすって流した後、薬缶のようなものから注いだお湯にくるくると皿を通し、すぐに上げている。熱くないんだろうか。
「慣れだ」
そうですか。自分がやるときは何かつかむものを用意してもらおうとリクは思った。あれ、俺何にも言われていないのに、ここで世話になる気になっているとリクは首を傾げた。
すべてが終わると男はリクをまたテーブルに座らせ、自分も向かい側に座った。そしてリクをじっと見つめた。部屋には沈黙が落ちた。そうしてやっと男が話し始めた。
「俺はサイラス。ここで農業をやってる」
そして黙り込んだ。次、自分の番ってことかなとリクは焦った。男は名前しか言っていない。それならば自分も、とりあえず名前だけ言おう。
「私は」
いけね、仕事じゃないし。
「俺は、陸人って言います。知り合いはリクって呼ぶけど」
「リクトー。珍しい名前だな。リクトー、リクトー」
男は一生懸命リクの名前を繰り返している。しかも間違った発音で。すごくいい人な気がしてきたリクだった。
「いや、リクで! リクでいいですから!」
「そうか。じゃあリク」
「はい、サイラスさん」
「いや、サイラスさんって……。ここらじゃさん付けする人なんていねえよ。俺のことはサイラスと呼べ」
「ええと、サイラス」
サイラスは軽く頷いた。
「お前、落とされたって言ったよな」
「はい」
「親もいない。帰る場所もない」
「はい」
「じゃあ、ここにいて俺の仕事を手伝え」
「え、いいの?」
リクはちょっとうつむいていた顔をぱっと上げた。
「ああ、だが、俺の仕事はちょっと変わってるからな。まずそれを見てからにしよう」
サイラスはそう言うとすぐに立ち上がった。そして玄関に掛けてある上着をさっと羽織った。そして隣にもう一枚かけてあった上着をリクに着せた。
「よし。少し歩くぞ」
そうして外に出てみると、昨日は見えなかった母屋より大きい納屋が隣にあり、さらにそこからずいぶん離れたところに牛舎があった。そしてその向こう側には、茶色の牛が何頭もおり、寒風の中でも思い思いに草を食んでいる。
「牛だ」
「そうだ。乳を搾ってバターを作るのが主な仕事なんだよ」
「それでバターがおいしかったのか」
リクは今日のパンに付けたバターの味を思い出した。癖のない、あっさりしたバターだ。出来立てなら納得の味だ。
「と言っても、牛を育てるのが主で、乳を搾ったりバターを作ったりというのは近所の奥さんたちが中心だけどな。ここら辺は麦の産地なんだが、俺はその外側に放牧地を広げて、牛を増やす仕事をしているんだ」
サイラスが今までと違って雄弁にそう話した。
「最初は数頭から始めて、バターも自分一人で作っていたんだ。だが、自分のところにもバターを分けてほしいという人が出てきて、そのうち遠くからも買いたいという人が現れて、少しずつこの規模にな。今では牛を育てたいという奴も出てきて、その指導もしている。つまり」
サイラスはリクを見た。
「人手はいくらあってもいいんだ。もちろん、朝の仕事が終わったら、ちゃんと教会にも行かせる。どうだ。うちで暮らさないか」
願ってもない。それに、確かに女神は世話人を用意してくれるとは言っていた。でも都合がよすぎないだろうか。
「ありがたいけど。でもサイラスは、なんでそんなに親切なんだよ。俺なんて得体のしれない子どもにさ」
「得体は知れないのは確かだが、子どもはどこでも大切にされるものなんだ、普通はな。それに」
「それに?」
「いや、子どもを育ててみたっていいだろう」
最後はふてくされたように言うサイラスに、思わずリクは笑ってしまった。育ててみたっていいだろうって、なんだよ。やりたいと言っていた農業は、野菜や果物のことだったんだけれど、酪農をすることになるとは思わなかった。でも。
「サイラス、ありがとう。よろしくお願いします」
「ああ」
こうしてリクは、あっさりと世話人が決まったのだった。
次は来週金曜日に更新です(´ω`)
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