いいんじゃない?
何が起こったのか混乱するハルを抱えているのはレオンだ。いかにも鈍そうなハルの動きを最初から見抜き、助けに走っていたのだった。
「あ、あの」
そこにゆっくりと人の近づく気配がした。ハルはどうしようもなくて、抱え込まれたまま目の前の硬い人の腕にギュッとしがみついた。その腕にハルの黒髪がさらりとかかる。きれいだ、とレオンは思った。そんなハルにショウは呼びかけた。
「ハル」
返事はない。
「ハル?」
呼びかけるショウの声に、ハルは無性にいらいらした。
「ハルじゃないもの」
レオンの腕のところでもごもごと言った。
「ハル、何を言っているのだ」
ライナスが驚いてそう言った。
「ハルじゃない。ほんとはハルじゃないもの!」
大人たちは戸惑ってお互いをみるが、ハルが何を言っているのかさっぱりわからなかった。
「ハル……」
触ろうとしたショウの手は振り払われ、ハルはいっそうレオンにしがみついた。
「しょうがないなあ」
ハルがぎゅっと目をつぶっていると、がさっと何か音がした。
「おい、ショウ、それ」
「そう」
ファルコの声に、ショウが簡潔に答える。誰も何も言わないから、ハルはちょっとだけ目を開けてみた。さっきの音はなんだろう。
「えーと、小さいリンゴっと。次に飴」
ショウが何かブツブツ言っている。がさっといったのは、地面に紙を敷いた音のようだ。
「沼ぶどう。これはいらないか」
いらないかだって。沼ぶどうはとても食べたかったのに、寮の食事では出たことがなかった。お小遣いもないハルは、買いたくても買えなかったのだ。湖沼の名産だというのに。
ショウは一度出したつやつやの沼ぶどうをポーチにしまおうとしていた。
「あ!」
「え?」
思わず声を出してしまったハルだった。ショウは何事もなかったようにうなずくと、
「沼ぶどうはありっと。それから湖沼で買った焼き菓子」
焼き菓子! しばらく食べてない!
「それからっと。これ、すっごいおいしかったんだ。バターケーキ」
バターケーキだって。それをまた大きな紙の上に並べている。
「あら、ショウ、まだ残ってたの? 私も食べたいわ」
「うん、おいしかったよね。でもちょっと待ってね。あとは、焼き菓子の深森バージョン」
「懐かしいですね。よく頂いたものです」
「ライナスさん、おいしいですよね」
そう言うとショウは、ポーチから今度は小さなコンロとお鍋を取りだしている。お茶を沸かすようだ。
「ハル?」
そうしてハルと目を合わさずに声をかけた。
「ハルじゃないもの」
「じゃあ、春子?」
「違う」
「千春?」
「近い」
思わず言ってしまった。
「じゃあね、美晴?」
「……」
のどに何かが詰まったようで、返事をしたいのに声が出ない。ショウはコンロに火を着けている。どうしてわかったんだろう。美晴って珍しい名前なのに。
「美晴」
「うん」
今度はちゃんと声が出た。
「美晴かあ。友だちとおんなじ名前だ」
「そうなの」
それでわかったんだ。
「じゃあさ、美晴、私の本当の名前は?」
「ショウの?」
「そう」
ショウの本当の名前、と後ろの黒髪の狩人がつぶやいた。
「翔子」
「ちぇ、一発で当たりかあ。よくある名前だからなあ」
ショウが悔しそうに言った。ハルは思わずクスッと笑った。ショウもニヤリとすると、小さなお茶碗を魔法のように人数分ポーチから出すと、お茶を注ぎ始めた。
「はい」
とお茶を渡されて、ハルは思わずレオンから手を離して両手でそれを受け取った。
「はい、レオン」
「おう、ありがとう」
あ、この人に寄りかかったままだ。あわてて離れようとしたハルの腰に、そっと手が回った。
「いいから、このまま寄りかかっていろ」
いいのだろうか。ハルはちらりと周りを見渡したが、ライナスさんも含めて誰も気にしていない。それぞれ思い思いのところに座り込んで、ショウからお茶を受け取っている。
「さ、ミハル、何から食べたい?」
「何から? えーと、沼ぶどう、じゃなくて、バターケーキ、焼き菓子も、えーと」
ショウに聞かれて混乱した。しかしショウはのんびりとバターケーキを取りわけてライラに渡し、ライナスに深森の焼き菓子を手渡し、ファルコの口に沼ぶどうを詰め込んで笑っている。
どれでもいいんだ。好きなものから、好きなだけ。好きなものを後で食べてもいい。それなら、湖沼で食べたかったあれを。
「沼ぶどう」
ぽつりと口に出すと、
「はーい」
とショウが渡そうとした沼ぶどうは、ハルの手の届く前にレオンにさっとさらわれた。
「あ」
ハルが口を開けて後ろを振り向くと、その口にぶどうがぽん、と詰め込まれた。詰め込まれたらとりあえず食べなきゃ。ハルはもぐもぐとぶどうをかみしめた。厚い皮をかみ切ると中から果汁がじゅわっと出てきて、少し酸味のあるつるっとした中身が滑り出してくる。皮だって香りが高くておいしい。
「おいしい……」
「うん」
ニッコリうなずくショウにちょっと見とれていると、次のブドウが口元にやってきた。ぽん。もぐもぐもぐ。次も? もぐもぐ。
「レオン、ブドウの他にも食べたいかもしれないでしょ」
「そうか、おもしろいからつい」
おもしろい? まわりを見ると、みんな楽しそうにしている。ハルをバカにした顔ではなく、ただこの時間が楽しいのだと、そんな顔だ。
「ミハル、お勧めはバターケーキ。めったに手に入らないんだよ」
「じゃあそれにする」
「おっと、レオン、バターケーキは自分で食べたいでしょ」
横からケーキをさらおうとしたレオンをショウが牽制する。レオンは片方の眉を上げて、
「そうか、ミハール、遠慮するな」
と言った。
「い、いえ、自分で」
ハルは厚く切られたバターケーキを今度は自分の手で食べることができた。
「おいしい」
「そうよね、おいしいわよね」
ライラがいっしょに喜んでいる。
ハルはバターケーキの残りを膝に置くと、
「あの、逃げたりして、子どもっぽいまねをしてごめんなさい」
と頭を下げた。
「え、いいんじゃない?」
ショウはきょとんとしてそう答えた。
「いいって……」
「だって子どもだもん。わがまま言って走り回ってもいいんじゃないかな」
「子どもって、私たち」
ハルがショウを見ると、ショウはニヤリとしてこう言った。
「まあまあ、前のことは前のこと。今はここで13歳の子どもなんだもん。10歳でここにきて、他の子に10年も遅れを取ってるんだよ。がんばって子ども時代を送らないと、追いつけないよ」
「遅れを取ってるって」
だって大人だったのに。
「ここの十年は経験なしだもの。がんばって経験する分、甘えたってわがまま言ったっていいんじゃない」
「いいの?」
「うん」
「もうがんばらなくていいの?」
「うん」
ハルは大きな口を開けて残りのケーキをほおばった。そうか、もういいのか。
このまま休まず最後まで更新します。
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