幸せの痛み
その日からドレッドと一緒にライラがついてくるようになった。
何が面白いのか、年少組と一緒になってスライムを狩ったりしている。特にはっきりとものをいうカインとは相性がいい。そうして折にふれては、
「ねえ、あの子は今なんて考えているの?」
「ショウはいま、何を思っているの?」
と聞く。
「そろそろスライム狩りに飽きてきたから、剣の訓練にしようか、でもまだみんな終わってないからもう少し待とうかって悩んでる」
「空が青いなって」
ショウは一つ一つていねいに応えていく。
「空が青い……」
「言う必要はないけど、思ってることだよ」
「そうね」
こんな調子だ。家に帰ったら今度はファルコを見ている。ファルコはなんだか居心地が悪そうだ。
そんな中、ドレッドがこう言った。
「ショウは、そんなに働いてつらくはないのか?」
今忙しいのは滞在客二人のせいなんですけどね。
「私ね、ハルもそうだったと思うんだけど、ここに来る前はもっと忙しかったの。夜遅くまで働いて、疲れて、ご飯も作れなくて。それに比べたら、毎日が楽しくてしょうがないよ」
あの電車に乗っていたほとんどの人は、そんな忙しい人たちだったと思う。ハルか。ほんとはハルナか、ハルミって言うんだろうな。
「ハルはな、魔術院で、雑用もさせられず働きもせず、勉強しながら過ごしているというのに」
勉強か。もういいかな。
「ハルが楽になったのならよかった」
「お前は」
ドレッドがあきれたように言った。
「もしね、ハルに会うことがあって、つらそうだったらこう言って。ショウが深森の国で、いつでも待ってるって。一緒にのんびり過ごそうって。ただしスライムは狩らせるよ」
「伝えよう」
そうして北の森に行く3日前、やっと二人は旅立つことになった。やれやれだ。
長く滞在して年少組とも遊んでいた二人を案外たくさんの人が見送りに来ていた。
「じゃあね、ファルコ、レオン、ショウ、お世話になったわ」
「有意義だった。また来る」
また来るのか。ファルコもレオンも苦笑していた。そうして馬車に乗ろうとした時、
「ファルコ」
ライラが振り向いて言った。
「なんだ?」
「あなたを産みたくて産んだのよ。一緒にいたいから一緒に旅に出たの。あなたの父親は置いて行けと言ったけれど、小さいころから狩りの素質が見えていたファルコを、平原に置いておきたくはなかった」
あっけにとられて何も言えないファルコに、ライラは続けて言った。
「毎日が楽しかったわ。そしてどんどん優秀な狩人になっていった。私が教えることは何もないほどに」
「だから、だから置いていったのか」
「そう」
「置いて行ってほしくなかった。そばにいたかったんだ!」
「わからなかったの。全然わからなかったのよ」
ライラは、笑っているような、泣きたいようなそんな顔をした。ファルコは両手を握りしめている。今さら、そうだ今さらそんな話をされても。
「後悔しているわけじゃないの。ただこれだけは言いたくて」
「……なんだ」
「ファルコ、同じ狩人として、誇りに思ってる」
それだけ言うと、馬車に乗りこんでしまった。
「勝手な女だよ、ライラは。言いたいことだけ言ってさ」
いつの間にかジーナも見送りに来ていた。馬車が走りだす。と、窓からライラが顔を出した。
「ファルコ、大好きよ!」
馬車は走りだした。
「ほんとに勝手な女だよ、ライラは。ほんとに」
ほんとだね、ジーナ。涙が落ちそうだよ。
立ち尽くすファルコの肩や背中を、一人ずつぽんと叩いて見送りの人がいなくなる。年少組は、ももを叩く。最後にレオンがよろしくなって合図して去って行った。握りしめたファルコの手を、ショウはそっと握った。
「ショウ」
「なに?」
「ここがさ」
ファルコは胸の上のほうを押さえた。
「ここが痛いんだ。ショウとおやつを食べる時、いっぱいになるここが。ぎゅうって締め付けられるみたいに。俺、どこか悪いのかな」
「いっぱいになりすぎたんだよ」
「ここが?」
「いつもほどよく一杯になるところが、幸せが多すぎて、ぎゅうぎゅう詰めなんだよ」
「幸せっていいものじゃないのか」
「いいものだけど、多すぎると痛いんだよ」
「どうしたらいいんだ」
しょうがないなあ。馬車は出発したばかりだ。ショウは人のいない、馬車の待合室のベンチに胸を押さえるファルコを連れて行った。
「座って?」
「こうか」
「そう」
そうしてショウはファルコの膝にそっと乗った。
「まず私をぎゅっとしてみて」
「いいのか」
「うん」
ファルコは苦しそうに、そしてちょっと嬉しそうにぎゅっとした。ショウはファルコの胸に顔を埋めたまま言った。
「そしたら、母さんって言ってみて」
「ライラのことか?もう母さんて呼ぶなって」
「本人がいないもの。言ってみて」
ファルコはしぶしぶ言った。
「母さん」
「もう一回」
「母さん」
「……」
「母さん、母さん、母さん、かあさん!」
ファルコはショウをいっそう強く抱きしめた。大きすぎる幸せは、外に出すしかないの。泣き方も知らないこの優しい人には、こうやって教えるしかない。ショウはとんとん、とファルコの背中に回した手でリズムをとる。
ショウの頭が、肩が濡れる。ショウの優しいリズムは、ファルコが泣きやむまで続いた。
「もう痛くない?」
「……ああ、痛くなくなった」
「空っぽ?」
「……いや、まだいっぱいだ」
「そっか」
今度はファルコがやさしくショウをとんとんとする。ショウが顔を上げようとすると、ファルコは急いで袖で顔をごしごしとこすった。
ああ、もうだめだ。ショウは思った。がんばったけど、だめだった。
ファルコが好きだ。まだ11歳の小さな体だけど、心は大人だ。こんなかわいい人を、好きにならずにいられるだろうか。好きになりたくなかった。成人したら、旅立とうって思ってたのに。
「今日は帰ろっか」
「そうだな、北の森の準備もあるしな」
「じゃあ、途中で焼き菓子屋さんに寄って行こう」
「何でだ?」
「また心の栄養がいるかもしれないでしょ」
「ショウが食べたいだけだろ」
「ちがうもん」
さあ、ファルコ、覚悟はいい? 今はかわいいとしか思っていない気持ちを、いつか変えてみせるから。そうなったらいつだって幸せで、胸がいっぱいで苦しいくらいなんだからね。ショウはそう心で宣言した。
ショウがいれば、いつでも俺の心は何かでいっぱいなんだ。ファルコは片手で胸を押さえ、のんきにそう思っていた。そう、ここが。
「さ、行こうよ」
ショウが手を伸ばす。ファルコはその手をとる。
「きっとレオンが待ってるよ!」
「そうだな」
いつか俺も。言えるのかな。
ショウの決意も知らず、ファルコは青い空を見上げた。ま、当分あの二人は来なくていいや。