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凡才俺と、天才少女

作者: 佐田直貴

「天才」と「凡才」。その判別を行うのはいつも、勝手な「他人」なのである。

 ――by 俺。


「兄貴のバカー!」

「ひでぶ!」

 七月五日、午後八時半。自宅の廊下。

 夕食を終えて二階の自室に戻ろうとした俺は、見事な半回転後ろ回し蹴りをみぞおちに喰らい、悶絶して膝をついた。

 待ち伏せしていた我が妹こと田中奏は、仁王立ちして俺を見下ろす。

「……何故、だ。奏……」

「何故も何もない。また勝手に私のケーキ食べたでしょ」

「お、お前はそれだけのことで、兄のみぞおちを狙うのか?」

「その腹に私のケーキが収まったままなんて、納得できないじゃん」

「吐かせる気だったのか!」

 どおりでメチャクチャ効いたと思った……!

 ちなみに、我が妹は空手四段。一年生でもフルコンタクト空手(寸止めではないやつだ)の高校全国大会に出られるくらいの強さだと言えば、きっと空手を知らない人にも伝わるだろう。

「見事な、後ろ回し蹴り、だ……」

 グッと親指を立ててから妹に笑顔を向けると、俺は腹を押さえたまま、ゴツンと地面に頭を預けた。妹はそんな俺を気遣うことなく、無言のまま二階へと戻っていく。冷たい。恐るべしケーキの恨み。

「本当に効いたぞ……」

 マジで胃液が逆流しそうだった。どれくらいマジかというと、口の中に不快な酸味が広がっているくらいだ。もう逆流してるよこれ。

 男有段者も顔負けの威力である。

 ――だからこそ、

「もったいない」

 今でこそ四段で『止まっている』が、本来ならば既に、その上のステップにも届いていたはず。

 天才少女と呼ばれた我が妹は、もう空手道場に通っていない。

 天才。

 ただそれだけの響きが、あいつを空手から遠ざけてしまった。

 

***


 俺こと田中尚樹は、自分を天才だと思ったことはない。

 当然だ。天才とは得てして他人が決めるものであり、自分で判断すべきものではない。そんなことは中学二年生以外、誰でも知っている。

 しかし、凡才と天才。その境界線は曖昧だ。

 他人は簡単に「あいつは天才だ」と言うが、何を基準に言っているのかと問うと、言った本人が首を傾げる。そんなものだ。

 天才とはフィーリングであり、それ以上でも以下でもない。その言葉がどんな力を持っているかなど、誰も考えない。要するに、自分より凄かったら天才なのである。

 バカバカしいと思わないだろうか。

 そんな事を言う凡才も、そんな事で傷つく天才も。



「あっちー……」

 七月も中旬に近づくと、夕方六時を過ぎてもまだまだ明るさが残るようになる。茜色の夕陽の下、道場の庭にある水道で直接髪を濡らした。こうすると汗と一緒に疲れが流れるようで気持ちいいのだ。

 俺の通う空手道場は、住宅街に並ぶ標準家の二軒分くらいの敷地を持つ、昔ながらの木造道場だ。師範も昔ながらの人ゆえに、練習はメチャクチャ厳しい。『何となく雰囲気がそれっぽいから』という理由で入門するような輩は、間違いなく後悔するだろう。少なくとも俺は後悔した。ここの師範孫娘(高校一年生)がいなければ早々に逃げ出していたことを保証する。

「尚樹さんも、お疲れさまです」

 髪を濡らしていると、優しい声と同時に、ポスっとタオルが肩に置かれた。

「……おう」

 件の師範孫娘(高校一年生)である真奈美は、鍛錬後の門下生にタオルを配って歩く、気のきいたお嬢さんなのだ。運動少女らしい黒髪のポニーテールと、元気そうな大きな瞳が印象的なナイスガール。細い目で気の強そうな瞳をしている我が妹だって負けないくらいナイスガールだが。

 俺は礼を言うために蛇口から頭をどかして、ブルドッグのごとく頭を振る。

「タオルで拭きなさいです!」

「おっぶ!」

 優しい声は一瞬にして、暴力的な暴力と一緒に暴力的な色になった。腹にめり込んだ正拳突きは、女子高生が放ったとは思えないほどに腰の入った一撃。……今、胃液の味がした。

「まったく。人がかけたタオルを使うことなく、隣に人が居るのに水を撒き散らし、あまつさえタオルを地面に落とすなんて、です」

「じ、地面に落ちたのは突きのせいだぞ……」

 ガクン、と俺は地面に片膝をついた。

「ちょ、ちょっと。私、そんなに強く殴ってないですよ」

「ふん。道場の孫娘こと山瀬真奈美は、俺の腹がどれだけ酷使されているのか知らないのだ」

 昨日の半回転後ろ回し蹴りから始まり、朝には我が妹による中段唐竹蹴り、昼には我が妹による中段突き蹴り、道場に来る前には我が妹によるミドルキック。

 もうお腹は一日中、悲鳴を上げている。

「どんだけ奏に嫌われてるんですか」

「ち、違う。奏は好きな人にちょっかいを出してしまうタイプなだけだ!」

「どうせ、朝ごはん勝手に食べたり、クラスに乱入して一緒に弁当食べようとしたり、放課後に肩を組もうとしたりしたんです。だから嫌われるんですよ」

 な、何だこの女……。まるで踏みつけたゴキブリを見るかのように俺を見やがる。しかし、大体当っているので何も言い返せない。

 元気少女はこれ見よがしに、ハァと大きく息を吐いた。

「何であの『天才少女』のお兄さんがコレなんでしょう」

「ふ。答えは簡単だ」

 そう。答えは簡単なのだ。

「天才は、一人しかいない」

 どれだけ天才と呼ばれた人間も、同じ時代で負ければ、天才ではなくなる。ただそれだけなのだ。つまり、きっと妹が天才過ぎるだけで、俺だって多分そこそこ才能はあるのだ。

 我ながらいい事を言ったのではないだろうか。

 どや顔で隣を見ると、いつの間にか真奈美は遠くの方で他の門下生にタオルを配っていた。

「……帰ろう」

 泣いてなんかない。ちょっと目から汗が出ているだけなのだ。



 七夕の日は、道場に竹が飾られる。

 その日、俺が学校を終えてすぐ道場に行く(今日の奏の蹴りは二発だけだったので比較的元気だった)と、町はずれの裏山から取ってきたと思われる大きな竹が、庭に存在していた。

「尚樹さん、こんにちは。これ、立派ですよね?」

 門をくぐると、すぐに真奈美が寄ってきて言った。いつもの制服ではなく体操着であるところを見るに、この飾りの準備を手伝ったのだろう。褒めてほしいのかもしれない。

「笹だったらよかったのにな」

 あまのじゃくな俺なのであった。ちなみに竹と笹の違いは、タケノコの皮が残っているかどうかくらいらしい。

 真奈美は俺の嫌味を完全に流して、持っていた短冊を渡してきた。聞かなかった事にしたようだ。

「はい、尚樹さんもどうぞです」

「うむ……」

 毎年、この短冊に書く願いというのは、非常に悩む。なぜならこの道場。

 ――願いを、叶えさせやがるのである。

 もちろん、魔法とか超能力じみた事が起きるわけではない。

 ただ、「願い事」という人の最も恥辱的なプライベートをこの孫娘が盗視し、実現可能なものであれば竹に飾りその願いを叶えるために努力させられ、明らかに実現不可能なものや、ふざけたものであればリライトを命じられる。というのが、この道場での七夕行事なのだ。何という嫌がらせ。

 ちなみに、ここで「ゲーム機が欲しい」とでも冗談を書こうものなら、みぞおちへの真っ直ぐな突きが飛んでくるだろう。少なくとも一昨年は飛んできた。

「うーむ」

 去年は確か「奥義を会得する」とか書いて、師範に呼び出しをくらった。体で覚えろと言われ、色んな締め技を味わった。一生同じ事は書くまいと誓った。

「これでどうだ」

「お、早いですね。ふむふむ、書き直しですね」

「マジか!」

「はいどうぞ、新しい短冊です」

 にこりと笑いながら、真奈美は俺に短冊を渡した。

 ちなみに、俺が書いたのは『奏と真奈美がまた空手をしますように』だ。

 我が妹と同じく真奈美もまた、今は空手をやっていない。子どもの頃からライバル同士だった二人は、ほぼ同時期に空手を辞めてしまった。

「実はかなり真面目な願いだったんだが」

「まあ、意外ではありました」

「再開する気はないのか?」

「そうですね。奏が戻ってきたら考えます」

 ポニーテールを揺らしながら笑う。しかし、時間がたてば奏が空手に戻る、というのは考えにくい。つまり、もうやる気はないということだろうか。

「今思いつかないようでしたら、帰るまでに考えといてくださいね」

 そう言い残して、真奈美は他の門下生のもとに歩いて行った。

「うーむ……」

 願い事、か。

「バカバカしい、よな」

 一瞬だけ書こうとしたことを思いとどまり、俺は短冊をポケットに閉まった。



「だー! げふっ」

 練習を終えて道場のドアを開くと、なんとも奇妙な声が庭に響いていた。道場内よりは涼しい、だけど非常に生温かい風を感じながら、俺は何をやっているのかと、庭に目をやる。

「……。なんだ?」

 さっぱり分からなかった。

 庭の真ん中にででーんと大きなマットが敷いてあり、そのマットの前に立った男児が、後ろ向きのまま飛んで、頭からマットに向かって突っ込んで崩れていく。それを何度も繰り返す。受け身とも違う。新しい自殺方法だろうか。

「あ、尚樹さん!」

 マットの傍で困り顔をしていた真奈美がこちらに気づき、手を振った。

「何してんだこれ? ジャンピング受け身?」

「なんですかそれ。違いますよ。これはバック転の練習です」

 嘘つけや!

 どうみてもお粗末な新種の受け身練習である。

「失礼ですね。私はこれで出来るようになったんです」

「いやお前と、この男児を一緒にするなよ……」

 何せ、真奈美は道場の孫娘として小さい頃から運動してきた人間なのだ。そこらの成人よりも断然運動神経が鍛えられている。そういえば我が妹の奏も、近所の砂場でバック転の練習をしていたらできるようになっていたとか言ってやがった。化け物どもである。

「この子の願いが『バック転ができるように』なんですけど、中々うまくいかなくて」

 小学五年生くらいの男児がバック転の練習(?)を中止し、シュンとした様子で俺たちの話を聞いていた。なんだかその姿が、奏のバック転を初めて見た時の俺を思い出させ、非常に共感を持ってしまった。

「お前な、バック転やらせるなら補助くらいやってやれよ」

「え? バック転に補助って必要なんですか?」

「俺は今、猛烈に才能ある人間が憎くなった」

 もうやだ。何この天才ども。

「ほら、ここに立て。真っ直ぐだぞ」

 男児をマットの前に後ろ向きで立たせる。そして俺はその横に移動し、少年の腰のあたりに、左手をそえる。

「いいか、今、俺の手がお前の腰にある。その手を中心に回るように、意識して飛んでみろ。飛んでる時はリラックスして、両手が地面に着いたときだけグッと体のバネを感じて、今度はそこを支点にするつもりで勢いを流してみろ。逆立ちはいつも準備運動でやってるだろう? 怖がるなよ」

 そして男児が飛んだ瞬間、余っている手で男児の足の回転を補助する。そうすることで一点をくぐるようにして飛ぶことを体に覚えさせる。

 子どもは吸収が早い。何度か補助をしてやる内に、随分とそれらしい形になっていった。

 まだ一人でやると頭からぐにゃりと落ちてしまうが、その内、反動を加えた飛び方や体のバネの使い方も分かってくるだろう。

「人の体は、一点を中心にできるんだ。例えば、蹴りだったら軸足。突きだったら腰に力を集約できる。でも、どこに集中するにしても、大事なのは体幹だからな。地上でも空中でも、バランスをとるために体幹を意識してみると、できるようになるぜ」

「おー、尚樹さん、意外と熱心に教えてくれるんですね」

「ふ。お前らと違って、伊達に長年凡才をやっているわけではない。誰が凡才だコラ」

「今日みたいに、普段から子ども達にアドバイスしてくれると嬉しいんですけど」

「やめてくんない? そのボケ流し」

 完全にスルーされた俺のボケはどこに行けばいいのか。

 俺たちがバカな話をしている間にも、少年は何度もバック転に挑戦していた。

「っておい、あんまりやると手首痛めるぞ」

「うん。でももう少しだけ」

「とは言っても、翔太君、ふらついてきていますよ。少し休みましょう」

「うん……。でももう少し」

 翔太君というらしいは、俺や真奈美の呼び掛けには応じず、それからも何度もバック転を練習を続けた。

「んぐっ」

 何度目だろうか。翔太君はまたマットの上に頭から落ちた。

 バック転の難しさは、飛ぶ時の勢いと共に、地面に手をついた瞬間にある。勢いを殺し過ぎると今のように崩れ、勢いをつけすぎると後ろに飛び過ぎて最後の着地ができなくなる。それはすぐに掴めるような感覚ではない。

「んわっ」

 またぐちゃりと、頭から崩れた。

 怪我をしないように見守っていたが、そろそろ限界だろう。もう手にも力が入っておらず、肩で息をしている。いくらマットが柔らかいと言っても、これ以上は本当に手首や首を痛めてしまう。

「もう駄目だよ、翔太君」

 俺が止めようとすると、真奈美がその小さな手を握って止めた。

「握力がなくなってます。鍛錬の後だし、疲れてるんですね。また今度やりましょう」

 いつの間にか、辺りは暗くなってきていた。もう七時近い時間だ。

 こんな住宅街の辺鄙な道場(失礼)に通っているということはここら辺に住んでいる子どもだろうが、さすがに親が心配する。

「そうだな。今日はやめた方がいい。怪我したら、しばらく練習もできなくなるぞ?」

 少年のすがるような眼を無視して、俺は言った。

「でも、やりたい」

 少年はそれでも辞めようとはしなかった。

「何でバック転をしたいんだ?」

 それは、素朴な疑問だった。

 人の願いに理由なんか必要ないだろう。「やりたい」とか「格好いい」とか「モテたい」とか。そういう理由で十分すぎるから。この子の年で習得したら、確かに凄い事だろう。自慢もできる。

 だけど、この翔太という少年からは、俺が考え付かないような答えがある気がした。なぜなら、少なくとも俺はここまで無理をしてバック転の練習をしようと思った事などないからだ。暇な時を見つけてちょくちょく練習して、できるようになっていった。そこに焦りなど存在しなかった。

「今頑張らなくても、いつかできるようになるぞ。お前は運動神経も悪くないみたいだしな」

「……今しかないから」

 だけど、この少年はやはり俺とは違っていた。

「もうすぐお父さんとお母さん、離婚するんだ。妹はお母さんの方に着いて行くんだ。明後日には妹も転校して、多分、しばらく会えなくなるって、お父さん言ってた。だから、別れる前に見せてやるんだ。僕はこんなこともできるようになったんだぞ、って! だからお前も頑張れ! って、僕は言うんだ!」

 翔太はそう言ってキッと顔を上げると、またマットに向かっていった。そしてバック転の練習を再開する。

「……凄いな」

「凄いですね」 

 俺たちはただ、その背中を見送ることしか出来なかった。例え誰に止められようとも、彼は本当の限界が来るまで練習を続けるだろう。努力をし続ける。例えその結果が、未修得に終わるとしても。

 夜八時過ぎ。

 翔太は迎えに来た母親と妹に連れられ、胴着を肩に掛けて帰って行った。

 ――バック転は、一度も成功しなかった。



 ポケットの中に入れた短冊が痛かった。

 帰りの道中、俺はずっとその存在を感じていた。歩くたびにポケットの中からこすれてくる、少し固い紙。しつこいくらいの自己主張。

 隣を歩く真奈美はそれを知っていたのだろうか。普段なら何も言わなくても話しかけてくる元気少女なのに、今日はそれがない。

 静まり切った住宅街を歩く俺の頭を渦巻くのは、あの少年の後ろ姿だ。バック転を必死に練習し、それでも習得できなった彼は、何を思っていたのだろう。

 ――それは、今の俺には分かるはずもない。

「なあ、お前は何で空手をやめたんだ」

「奏が辞めたからですよ」

 いつも通りの答えが返ってくる。真奈美はにこりと笑った。

「尚樹さんは、何で空手に戻ってきたんですか」

「……」

 何故、今更そんな事を聞くのだろう。真奈美の意図がつかめずに、俺は沈黙した。

 中学の一年から二年の終わりまで、俺は空手から遠ざかっていた。ぐんぐんと強くなっていく奏を尻目に、道場に行かなくなった俺は、毎日くだらない事を友達と話しながら帰宅する日々を送っていた。俺が中三の頃、奏が中二で空手を辞め、代わるようにして空手を再開するまで、完全に格闘技とはかけ離れた生活を送っていた。

「まあ、道場に通っていた頃に憧れた『何もない生活』っていうのが、思ってた以上に退屈だったんじゃないか」

「嘘ですね」

 あっさりと嘘にされた。

「少なくとも、あの二年間の尚樹さんは楽しそうでしたよ」

 どんだけダメ人間なんだ俺は。

「でも、それ以上に大切なものがあったんですよね?」

「……そうだな」

 その通りだ。

 空手を辞めた理由は思い出せなくても、戻った理由なら鮮明に覚えている。

 くしゃりと、ポケットの中の短冊を握りつぶした。

「奏が――いや。お前達が空手を辞めた本当の理由を教えてくれないか?」

 奏は、空手を辞めた理由を「天才のプレッシャーから離れたかったから」としか説明しなかった。それは嘘ではないだろうが、たったそれだけの理由であれだけ好きだった空手を辞められたかと思うと、俺には納得いかない。それに、真奈美も一緒に辞める理由が分からない。

「いいですよ。その代わり、その願いを聞いてからです」

 真奈美は俺のポケットを指差した。そこには、書きたくても書けなかった俺の短冊がある。

 俺が願う事。そんなの、ただ一つだ。

「……奏と、闘いたい」

 天才少女と呼ばれた妹。俺が努力して努力してようやく辿り着いた黒帯の、遥か上を登りつめていった存在。いくら奏に二年程のブランクがあるとはいえ、今の俺が勝てるとは思えない。

 それでも、闘わなくてはいけないのだ。そうしないと、俺が空手に戻った意味がない。

「ありがとうございます」

「何で真奈美が礼を言うんだ?」

「だって尚樹さんは、尚樹さんだけは、一度も天才だとは言いませんでしたから」

「……」

「ただのあまのじゃくだったからかもしれませんが、でも一度も、あの子の前で天才だなんて言わなかったですよね。だから、あの子を空手に戻すのはきっと尚樹さんしかできないんですよね」

「お前だって言わなかったじゃないか」

「私じゃダメなんですよ。私は、あの子の辛さに納得してしまいましたから。尚樹さんは、あの子の最後の大会のトロフィーを見た事がありますか?」

「……いや」

 そういえば、家にはたくさんのトロフィーが飾ってあるはずだが、奏の最後の大会となった地区予選のトロフィーだけは見た事がない。

「最後の地区予選、あの子は私に勝って個人戦で優勝しました。いい勝負だったんですけどね。自分でも納得する負けでした。だけど表彰式の後、奏はそのトロフィーを割ってしまったんです」

「何でだ?」

「通りすがりの観客が言った、何てことのない一言だったんですけどね。大会の度にずっと同じ事を言われ続けた奏は、きっと限界まで感情がたまっていたんだと思います」

 ずっと言われ続けていた事。そんなのは一つしかない。

「天才、か」

「はい。そして、その人は私にこう言いました。『お嬢さんは強くなってる。だからもっともっと頑張って、奏選手のいいライバルになって欲しい』と」

「きついな」

「きついですよね」

 頑張れ。なんて言葉は「天才」と同じくらい無責任で無神経な言葉だ。

「それで、あいつは友人がそんな事を言われたのに耐えきれなかったのか」

「いえいえ、そんな綺麗な理由じゃないですよ。実際、私もそんな事は言われ慣れていましたから軽く流しましたし。それに、奏がそんな繊細な事を気にしてくれるわけないじゃないですか」

 あははー。と笑う。確かに奏はそんなことは気にしないだろう。妙に納得してしまった。

「奏が辞めた理由は、もっと自分勝手で、だけど誰にも理解されない理由なんですよ。でもきっと奏がいなかったら、私が同じ理由で空手を辞めていたと思います」

 奏が現れる前は天才と謳われ、あらゆる大会で優勝を重ねてきた真奈美は遠くを見つめながら言った。

「辿り着く先はただの孤島で、何もなかった。進む道も、戻る道もない。そんなの、虚しすぎますよね」

 ――きっと、奏はあの時、そこに辿り着いてしまったんだと思います。

 そう呟くと、真奈美は俺の家のインターホンを押した。



「真奈美ー」

「おー、よしよし。甘えん坊ですなぁ奏は」

 玄関から出てきた奏は真奈美に抱きつくと、よしよしと頭を撫でられていた。あの強気で眼力のある真奈美がこんな子猫みたいな態度をとるとは……。

 兄として嫉妬で歯がみしながら、俺はその二人を眺めていた。

「しっし。兄貴はさっさと家に入れ」

 我が妹はその姿を見ることすら許してくれないようだ。暑い夜空の下、目から汗が出てきそうだ。

「まあまあ奏、そんな事言わずに。また尚樹さんが目から汗を出してしまいますから。さっきもメールしたけどね。今日は話があって来たんですよ」

「なになに? 泊まりたいなら別にいいよ。兄貴リビングに寝かすし」

 俺の部屋くらい俺のものにさせてくれ。

「そうじゃなくてね、奏。私、また空手やることにするよ」

 真奈美の言葉に、俺も奏も時間が止まった。

「おい、いきなり何を」

 しかし俺の呼びかけを無視して、真奈美は続ける。

「ずっと考えてたんだけどね。私はやっぱり空手が好きみたい。みんなの頑張る姿を見てると、自分も頑張りたいって思う。奏は? 奏は、尚樹さんが空手をやっているのを見ても何も思わなかった? 何も感じなかった? いつも蹴りをいれている体がだんだん固くなっていくのを感じて、何も思わなかった?」

「私は……」

 奏はこちらを睨むかのようにして見てくる。俺の肩にかかった胴着を見て、真奈美を見てを繰り返す。

「尚樹さんはもう三段にも手が届くくらい、強くなったよ。この人は努力の塊だと思う。誰よりも技の研究をして、誰よりもそれを実行しようと努力するの。でも、私と奏は違うよね。他人の研究なんかしなくても、自分で技を昇華できる。私たちは、天才だから」

 真奈美の言葉に、キッと奏の目つきが変わった。

「怒らないで聞いて。ねえ、奏は覚えてるかな。あの地区予選の日。通りすがりの人が言ってたよね。田中奏が居る限り、この代の空手をやっている人はナンバーワンにはなれない。可哀想な代だ。って。奏はそれを聞いてトロフィーを落として壊したよね。私は、なんて失礼な人だ。って思ったよ」

 ――通りすがりの人ではなく、奏の事をね。

 そう言われ、奏がビクッと体をはじかせた。

「ああ、この子は私の事をライバルと言っておきながら、心底では敵わないと確信していたんだな。って思った。私が努力して努力して、どれだけいい勝負をしても、自分には敵わないんだと確信してるんだと、思った。いつも手加減してるんだなって、感じた」

「ち、違うよ! 私はただ、その言葉がショックだっただけ!」

「じゃあ見せてよ」

 奏の必死の叫びにも動じず、真奈美は奏を睨みつけた。

「凡人と本気で闘う姿を、私に見せて」

「何で? 何でそんな事を言うの?」

 奏はいつもの雄々しい姿とは一転し、すがるようにして真奈美の裾を掴んだ。

 当然だろう。小さい頃から空手を一筋に続けてきた奏にとって、真奈美は紛れもないライバルであり親友だった。空手を辞めてからもずっと仲の良かった二人だ。その友人の突然の言葉に、奏は狼狽する。

 けど、はたから見ている俺には分かった。本当に辛そうな顔をしているのは、真奈美だということ。

「私は、奏の本気がもう一度見たいだけ。それにね、ちょうど真奈美と闘いたい人がいるから」

「……誰?」

 奏は真奈美を見上げながら言った。真奈美でなければよいという風に。

 真奈美は微笑しながら俺を指差した。奏がショートボブの髪を揺らしながら、俺の方を向く。

 ――ここまでお膳立てをさせておきながら、引く理由など、ないだろう。

「俺だよ、奏」

 肩に担いでいた胴着を奏に向かって投げた。奏は半ば唖然をしながらそれをキャッチする。

「明日の土曜日、道場に行くぞ。俺と勝負しろ。奏」

 



「一つだけ言っておくから」

 試合当日。蒸し暑い道場の中で胴着に着替え向き合った奏は、いつもとは違う真剣な表情で俺を睨んだ。

「怪我しても、私を怨まないで」

「っは。誰が怪我なんかするかよ」

 昨日から、兄妹の間で一言も会話はなかった。お互いに闘うべき相手だと認め、神経を研ぎすませていた。

「お前こそ、手加減なんかすんなよ。それこそ、本当に真奈美に嫌われるぞ」

「余計なお世話よ」

 奏は、俺たちの間に立っている真奈美の方を見向きもせずに答えた。

「すぐに終わらせるわ。そんで、真奈美の昨日の言葉も謝らせる」

 昨日は突然の事で混乱していたようだが、今日はいつもの奏に戻っているようだった。ゆさぶりが通じずに少しへこむ俺と、苦笑いする真奈美。

「じゃあ、はじめますよ。今回は正式な試合ではないので、細かいルールは特に設けません。ただし、金的と噛みつき、頭突きは厳禁です」

「すぐに終わらせるから別にいいけど。勝敗の判定は?」

「どちらかが負けを認めたら。あるいは、意識を失ったら。または、私の判断により試合を止める場合もあります」

「空手っていうか、総合格闘技みたいね」

 奏は苦笑する。そして、キッと気の強い眼で俺を睨む。

「私は特に問題ないわ。そっちは」

「別に。どんなルールだろうと勝つから問題ないさ」

 奏の目つきがさらに怖くなった気がするが気にしない。ギュッと帯を締める。

 二人同時に構えをし、それを見た真奈美が距離を置く。今日の試合では、審判はコートの外から俺たちの闘いを見ることになる。

「はじめ!」

 道場に、凛とした声が響いた。

「はあ!」

 先手必勝。俺はすぐさま一歩を踏み出した。



「うらぁ!」

 奏が繰り出した、距離を取るための前蹴りに、あえて俺は突っ込んだ。

「――な!」

 同時に奏は一瞬の怯みを見せる。その瞬間を見逃しはしない。俺はすかさず正拳で顎を狙う。

「甘いっ」

 しかし、奏は自由だった腕で拳をいなして俺の攻撃の軌道を変えた。

「これをいなすか」

 開始直後の不意を突いた一撃だったが、さすが天才少女と呼ばれただけある。軸足だけでも俺程度の攻撃を処理するには十分な体幹を持っているのだ。しかし、せっかくのチャンスをたった一撃で終わらせるつもりはない。俺はいなされた流れを利用して、そのまま今度は左手の裏拳に切り替える――が、

「っし!」

 既に落ち着きを取り戻していた奏は、バックステップで難なく裏拳をかわした。

「くそっ」

 間合いが空いてしまう。同時に構え正して、俺たちは睨みあった。奏は少しだけ口元を緩める。

「まさか、前蹴りに向かってくるとは思わなかったわ」

「あいにく、お前程度の蹴りで倒れるほどヤワじゃないんだよ、俺は」

 当然ウソだ。メチャクチャ効いてる。

 だけど、奏の蹴りに対して前に行くのは「アリ」だ。これだけは間違いないだろう。

 奏の蹴りは、しっかりと基礎を積み上げてようやく会得できる、空手家の「技」である。素人がやるような力任せに振り抜く蹴りではなく、相手に当てた瞬間に軸足を回転させることで、蹴りの威力を何倍にも仕上げてくるのだ。つまりタイミングと距離感が命であり「奏が描く位置」に居てはいけない。

 かといってバックステップをすると、そこから獲物を追い詰める二段構えの攻撃が来るだろう。だから「前に行く」。これこそが、蹴りを主体に攻める奏には有効な攻め手となる。

「真奈美に習った……ってわけではなさそうね」

 奏はちらりと横目で、道場の端に座る真奈美の方を見た。俺も視線をやるが、真奈美は驚いた表情をしているようだった。

 チリッと、頭の端に何かが引っ掛かった。何故ここで真奈美の名前が出るのか。そしてなぜ、真奈美があれほど驚いた表情をしているのか。

「よそ見なんか、するな!」

「――っち」

 考える暇もなく、左のミドルキックが飛んでくる。なんとか右腕と右足で防御するが、骨の芯に響くほどの衝撃に思わず足が止まってしまう。

 それを見た奏はここぞとばかりに、左足を着地。重心を右足に移し――

「させるか!」

 それは何度も見てきた態勢だ。右足に重心が移ったと同時に繰り出される、奏の得意技。

 瞬速必殺の、後ろ回し蹴り。

 しかし、これはチャンスでもある!

 俺は左側から来るであろう蹴りに備えつつ、無防備となる相手左側頭部に右拳でカウンターを――

「ダメ!」

 それは誰の声だったか。

 叫び声が耳に入ってくると同時に、

 衝撃が、

 体を硬直させた。

「……入った」

 ニヤリと「目の前」で、今は後ろを向いているはずの奏が笑っていた。

「ぐ……」

 ――フェイント、か。

 奏は左ミドルが不発に終わると左足を着地させ、一瞬だけ右足に重心を移す「タメ」を作った。熟練の経験者だけが見分けられる一瞬の重心移動だ。俺はいつも喰らっていたからこそ見破れただけだった。普段の俺レベルでは決して反応できない動作。

 だが、奏はそれをあえてフェイントにした。そして本来ならば着地させなくても続けて出せていたはずの「前蹴り」を、ノーガードとなった俺の腹に突き刺したのだ。しかもご丁寧に、前蹴りではほとんど使われる事のない、つま先蹴りで。

 急所を一点突きされた俺は、たまらず動きが止まってしまう。

「しっ」

 それを奏が見逃すはずもなく、今度こそ必殺の後ろ回し蹴りが飛んでくる!

 決して油断していたわけではない。最大限の注意を払い、奏の動きを読んでいた。

 読んでいたからこそ、嵌められたのだ。

「だら!」

 側頭に一直線で飛んできた蹴りを両手ではじき返す。じんじんと痛む腕が、それを喰らった時の結果を物語っていた。

「……しつこい! これで終わり、よ!」

「くそ!」

 もう一度飛んできた上段蹴りを両手で受け止める。

 俺が思っていた警戒心など、きっと奏からしてみたら、なんてことはなかったのだろう。研究されることなど慣れっこで、警戒されることなど当たり前。だから自身の必殺技も、ただのフェイクとして使うことになる。

 だけど、奏はそれを楽しんでいたはずだ。

 ……思い出した。

 なぜ、俺が奏の蹴りに対して前に出ようとしたのか。

 それは、奏自身が言っていたのだ。

 「真奈美が自分の蹴りをあえて喰らいに来た。こんなの初めてだった」いつだったか、こいつは嬉しそうに、楽しそうに、そう語っていた。それだけじゃない。回し蹴りを初めて見破られた時も、初めてカウンターを喰らった時も。嬉しそうに奏は話していた。

 なのに。

「なんで……」

 それなのに何で、目の前の今のコイツは、

 こんなに泣きそうな顔で空手をしているんだ!

「いい、加減、倒れろぉ!」

 それは、渾身の一撃だった。

 中段唐竹蹴りをみぞおちに喰らい、俺は、ゆっくりと、膝をついた。


 ***


 俺が初めて奏に負けたのは、小学六年生の頃だった。奏とは毎日組み手の相手をしていたが、その日は技を読み違えて、ラッキーパンチが当たってしまった。見ていた門下生に笑われるのが恥ずかしかったから、へらへらして体を起こした。周りに悔しがる素振りなんか見せられない。そう思い、嬉しそうな顔をする奏に「わざとだよ」と言った。きっと奏も覚えていない、昔の事。

 あの時だろう。俺が道を間違えたのは。

 ラッキーパンチなんか存在しない。そんなものは、格闘技をやっている人間なら誰でも知っている。何千回、何万回と鍛錬を重ねた拳だからこそ、相手を一撃で倒しうる武器となる。それは決して、ラッキーパンチという言葉で片付けられるものではない。

 それなのに、俺は相手を称えることすらせず、礼も尽くさず、悔しがることすらできなかった。ちっぽけなプライドに、俺は屈したのだ。

 俺はあの時、あの瞬間に『空手』を裏切った。

 礼を重んじ、礼で終わる競技。その道から、外れてしまった。

 ――だけど、気付いた。

 空手を辞めて活気がなくなった妹の姿を見て。事あるごとに繰り出される、体に沁み付いた技を喰らって。

 あの日、初めて俺が負けた時。

 俺は兄として、言うべき言葉があったのだ。

 それを伝えるために、また俺は空手の道に戻ってきた。

 もうあの真っ直ぐな道には戻れないけど、それでも一人の競技者として、兄として、伝えるべき言葉がある。

 それをまだ、俺は、言えていない。

 全然伝えることなんか、できていない。

 実力差は明白で、努力も全然敵わなくて、既に体は満身創痍で。

 ――それでも、また間違うわけには、いかない。

 

 

「なん、で……」

 唖然とした声が俺の耳を通り抜ける。片膝をついた状態で大きく息を吸うと、畳の匂いが頭いっぱいに広がった。耳鳴りはすぐに収まる。不快なくらいの熱気を体中で感じる。平衡感覚も問題ない。

 ――俺はまだ、立てる。

「続きをやろうぜ、奏」

 口の中に溜まっていた唾を飲み込む。少し鉄の味がした。倒れた時に口の中を切ったのか。だけど、闘うのに支障はない。

 構えをとる。もう何千回も練習してきた型だ。これだけで、スッと心が落ち着く。

「なんで、よ」

「俺はまだ負けたと言っていない」

「違う。そうじゃない。すぐ分かるでしょうが! 兄貴が、私に敵うことなんか、ない!」

「そんなの、やってみなくちゃ分からん」

 奏を睨む。

 そして、一歩を踏み出す!

「せや!」

 畳を貫くくらいの気持ちで踏み込み、最高の突きを放つ!

 脇をしめて、腕を張る。相手の芯に届くように、拳圧が道場の向こう側まで届くイメージで!

「甘い、って、言ってんのよっ」

 だが俺の突きを、奏は難なくかわした。斜め前にスッと体を移動させ、そこから首を刈り取るような、神速の上段蹴り。

「がはっ」

 完璧な上段蹴りは、喰らった瞬間に、意識が途絶える。脊髄を通って後頭部まで突き抜ける衝撃が、その場に踏み留まることすら許さないのだ。

 大きな音を立てて、体が畳にたたきつけられた。

(――痛い。嫌だ。もう動かない!)

 渾身の一撃をかわされたショックと、改めて思い知らされる絶望的な実力差に、自分の意志とは関係なく、頭の中で悲鳴が上がった。

 この瞬間、頭は完全に負けを認め、体への命令を中止する。

 ――きっとこれは、負けを突き付けられた人間にしか、分からない感覚だろう。

 スウッと体中から熱が抜けていくのを感じた。頭だけでなく、体も負けを認めたのだ。こうなったらもう最後。拳を握ることすら億劫になる。今まで培ってきたものが、体の中から失われていくような錯覚。

 きっとこの瞬間、人は「凡才」と「天才」の差を知るのだ。

「勝負、ありね」

「まだ、だ」

 だけど、「俺」はまだ、負けてはいない。

 震える手を地面に打ち付けて、体を支える。生まれたての仔馬のような醜さで、畳の上でもがき続ける。意識が薄れても、体がふらついても、もう一歩足を踏み込んで体勢を整える。

 気持ちが屈しようとも、体が屈しようとも関係ない。

『田中尚樹』が、屈するわけにはいかない。

「……もうやめてよ。勝負はついたでしょう!」

「まだだ。まだ、俺はやれる」

「真奈美も、もう止めて!」

 奏は後ろを振り返った。

 俺は真奈美を睨みつけ、動かないように訴える。

 一瞬だけ動きかけた真奈美は、そのまま腰を下ろしてくれた。

「何でよ。兄貴が私に勝てるわけがないでしょう!」

「ふざけんなよ。誰がそんなこと決めたよ」

「……才能が、違うからよ」

 叫ぶようにして、だけど小さい声で奏は言った。シンと静まり返った道場に、奏の悲痛な心の叫びだけが響いていた。

「私と兄貴とじゃ、才能が、違うからでしょうが……!」

 一体、コイツの勝利は、何度「天才」という言葉で片付けられてきただろうか。

 コイツの努力は、何度「天才」という言葉に埋もれてきただろう。その響きが、こいつの努力をどれほど無力にしてきただろう。

 努力して、努力して、努力して。

 それでも、その努力は誰にも理解されないのだ。

 それが、天才という存在だから。

「……ふざけんなよ」

 ――だけど、それで好きな事をやめるのは、違うじゃないか。

「天才を、言い訳にするんじゃねえ!」

「……なんですって」 

 努力して、努力して、努力して。

 だけど報われなくて。

 どれだけ努力しても無駄な気がして。

 それでも、また続ける。

 そんなの……誰だってそうじゃないか!

「お前が今まで勝ってきたのは天才だからか!? 違うだろ! その足で、その腕で積み重ねてきた努力の結果だろうが! そんなのは自分が一番よく知ってるはずだ。なのに、お前が天才なんて言葉を口にするんじゃない! お前だけは、お前の努力を否定するんじゃねーよ!」

「私じゃない! 他人が言うからだ!」

「他人はいいんだよ。他人は自分より凄い奴を、天才って言っていいんだ。そいつがどれだけ努力しているかなんて知らないんだから。だけど、自分だけはそれを言っちゃいけない。そうだろうが」

 天才とはただのフィーリングであり、だけど、努力を否定する響きだ。

 自分の努力を知らない他人がどう使ったって構わない。でも、だからこそ自分だけは使っちゃいけない。自分だけは自分を天才だと認めてはいけない。

 何故ならそれは、自分の努力を否定する事になるから。きっと自分だけは、自分の事を凡才だと思わなければいけないのだ。

「お前は言ったそうだな。天才天才言われて、努力したのに裏切られた気分になった、全てが無駄な気がしたって」

「……」

 奏は否定することなく、ギュッと唇をかみしめた。

 それが、奏が空手を辞めた理由。

 天才にしか分からない、理解されない苦痛。

 ――バカ野郎が。


「『空手』が、一度でもお前を裏切ったか!?」


「お前の大好きだった空手は、一度でもお前の努力を否定したか!? お前の大好きな空手は、一度でもお前を天才だと称賛したか!? 違うだろ! 『空手』にとって天才なんか関係ない! それなのに、お前が、空手の道から外れていったんだ」

「うるさい黙れ!」

 奏の怒声が道場に響いた。

「どんなに努力しても、努力しても、報われない! 天才だからの一言で片づけられる! その空しさがあんたなんかに分かるわけがない!」

「分かってたまるかよ」

 ギュッと拳を握る。

 何度も使ったコブシは、拳ダコでつぶれている。どれだけ努力したって、きっと越えられない壁はあるのだろう。どんなに努力したって、届かないものはあるのだろう。

 ――だけど、

「報われるための努力なら、俺は要らない」

 努力が報われるのはいい。

 だけど、報われるための努力なら、俺は要らない。

 あの時。翔太という少年に感じた尊敬は、その努力がきっと、報われるとかよりももっと先の次元にあったからだ。

「そんな努力なんて、努力とは呼ばない」

「このっ!」

「吠えるなよ。悔しかったら、俺を倒してみろ――天才!」

 相手を挑発するように、俺はチョイチョイと掌で奏の攻撃を誘う。空手では当然のタブー行為。ましてや格上の相手になど、死んでもできない。

「……っ!」

 挑発に乗った奏は、大げさな動きで前に1ステップしながら体を横にした。そのまま片足をグッと体に寄せてタメを作り、ロケットを発射するかのようにしてその足を伸ばす。体のバネを思う存分に活かした突き蹴りは、俺の腹にめり込んだ。足技を使う奏にとって、必ず相手を沈めるという自信の威力をもった一撃だ。

「……かかったな」

 しかしこの時初めて、奏は油断した。

 完全に俺を仕留めるために初めて、予備動作の大きい技を出したのだ。

 攻撃が来る場所さえ分かっていれば、備えることはできる。予備動作が大きい技は、出した後の硬直時間も、長くなる。俺は思いっきり腹に力を入れて、その攻撃に耐えながら、奏のボディにカウンターを入れた。

「おらあ!」

「ぐっ」

 身を削り、ようやく奏にダメージを与えた。

「この腹は、伊達じゃねえんだよ!」

 そう、この腹は伊達ではない。『ずっと奏の蹴りを喰らっていた腹』だ。

 そうやって毎日毎日、この時のために作ってきた体だ。こいつの蹴りを研究するために、いつかこいつと戦うために、何度も何度も犠牲になった腹だ。

「凡才が、いつまでも下にいると思うな!」

「こ、この……!」

 倒れない俺を見て、奏は更に熱が上がる。姿勢を整えると、そのまま足を上にあげ、

「踵落とし!」

 俺は嬉々として叫んだ。足技最強の威力を誇る踵落とし。

 空手有段者が放つ踵落としは、頭に当てられたら卒倒し、肩に当ったら脱臼する。足技のスペシャリストである奏の踵落としなど、その威力は想像すらできない。

 当然、それをガードする術は俺にはない。だから――

「おおおお!」

 躊躇したら終わりだ。俺は一直線に奏に向かって踏み込んだ。そのまま奏が上げている裏太ももを右肩で押し上げる。相手の襟首を左手で掴んで、今度は引き寄せる。タックルした体の重心は相手に乗せる。

 すると、バランスを崩した奏は驚愕の表情のまま、空中を支点にして半回転することになる。

「っきゃ!」

 後頭部から畳に叩きつけられ、奏は息を吐いた。頭を打った体は一瞬の硬直状態に陥る。その瞬間を逃しはしない。右手で逆襟を取り、掴んでいた左手と交差する形で頸動脈を締め上げる。ここまで形が仕上がったら、もう逃れることはできない。

「形勢逆転だ……!」

「かっ、は……」

 奏は口をあけて空気を吸いたがり暴れるが、こっちだって必死だ。完全に決まった絞め技を外すつもりはない。

「諦めろ」

「だ、れ、が……」

 奏は顔を赤くしてこちらを睨むが、その顔からは明らかに苦しそうな色が窺えた。単純な力比べであれば俺の方に軍配が上がる。ましてや、競技空手では基本的に禁止されている締め技だ。いくら奏といえども、かけられ慣れているものではない。

 奏は何度も、もがいていた。力の入らない状態で足を振り上げ、体の反動を使い、真っ赤になりながら俺の腕をはがそうとした。しかし当然、外れたりはしない。

 天才といえども、凡才の絞め技を抜くことはできない。

「技」も「競技」も、それ自体は決して、天才を贔屓しないから。


 ――そしてやがて、二度の、畳を叩く音がした。


「ストップ! です」

 真奈美の声にハッとして、俺は力を抜いた。

「かはっ! ……ハァハァ」

 同時に、涙目になった奏が目の前で大きく何度も息を吸う。

 悔しそうに畳を両手で叩きながら、嗚咽を漏らしていた。歯ぎしりしながら、何度も自分の足をはたいていた。

 もっと自分は動けたはずだと、もっとうまく戦えたはずだと。

 負けた時は、誰もがそんな「たら」「れば」を思い描く。そして「次こそは」と考える。

 だから、悔しがれるのだ。

 あの時悔しがれなかった俺には、その姿が何よりも眩しい。

「悔しい……! 兄貴に負けるなんて」

「そうだな」

「あんな投げ技、空手技じゃない!」

「ああ、そうだな」

 踵落としを跳ね返した技。あれは名前も型もない、ただの体当たりだ。言わば、力づくのバック転補助。

 公式の試合であれば、あの時点で審判から注意を受けていただろう。そもそも決め手となった締め技も、ウチの道場では教えられるものの、空手大会では認められていない締め技だ。

「次は、絶対、負けない……!」

 それでもこいつは、そんな事を負けた言い訳にはしない。

「ああ、分かってる」

 ぽんぽん、と奏の頭に手をやる。撥ね退けられた。

 手をやる。撥ね退けられた。手をやる。撥ね退けられた。手をやる。

「もう! なんなのよ!」

「お前は強くなったよ、奏」

 あの時。

 ちっぽけなプライドのせいで俺が言えなかった言葉。

 それはたった一言の、賛辞と展望だ。

「お前はもっともっと強くなれる」

 ――だから、

「だから、一緒に頑張ろうな」

 唖然とした顔で、奏はこっちを見た。俺が何を言ったのかまったく理解できないような顔だ。俺はもう一度言った。

「頑張ろう」

 天才は、頑張っていいのだ。

 その響きに押しつぶされながら、イラつきながら、羨望のまなざしを浴びながら。

 それでも、頑張っていいはずだ。

 例えその努力が「天才」という言葉で埋もれてしまっても、誰にも見えなくても。

 それでも、自分だけはその努力を誇る事ができるように。

 頑張るという事に、才能なんて関係ない。『空手』にとっては、そんなの関係ない。

 誰にでも平等に、果てのない道があるだけなのだから。

「頑張ろうな」

 妹の先を歩く兄になることはできなかったけど、せめて一緒の道を歩く兄でありたいと思う。

 そのために努力ができるなら、凡才で構わない。報われなくたって構わない。人一倍時間がかかってもいい。努力をし続けよう。

 それが、俺の見つけた空手道だ。

 

エピローグ


 とある日曜日の午後一時。自宅のリビング。

「兄貴のバカー!」

「ふっ甘い! ……グフッ」

「ふ。フェイントよ」

 どや顔で、我が妹は地に伏した俺を見下ろしていた。

 せっかく右のミドルを防いだと思ったのに、我が妹はそのまま跳躍して左の飛び蹴りを俺の腹にヒットさせたのだ。見事すぎるその動きを、防げるはずもなかった。

「これに懲りたら、勝手に人のプリンを食べないことね」

「お前は、プリン一個のために、兄を足蹴にするのか……」

「寸止めしようと思ったら、そっちがガードなんて生意気な事するからでしょうが」

「嘘つけ。ガードした腕もジンジンしてるぞ」

「寸止めが間に合わなかったのよ」

「寸止めが間に合わないって何!? それ普通の攻撃じゃね!?」

「あーもう。うるさいうるさい。今から真奈美が来るんだから早く部屋に戻ってよね」

 一年前に比べて大分伸びたセミロングの髪を手櫛で梳きながら、シッシと片方の手を振る。真奈美が俺との勝負をけしかけるためにあんなことを言ったと知ってから、一層俺への風当たりが強くなった気がするのは、気のせいだろうか。

「今日も来るのか。ここんとこ、毎週じゃないか? 練習しろ練習」

「いいの。次の部活の合宿について話あってるんだから。それよりそっちこそ、勉強しなさい勉強。大学落ちて道場の翔太君にバカにされたりしても知らないわよ」

「さいですね」

 俺はすごすごとリビングから退散する。

 奏も真奈美も、あの後すぐに空手部へと入部した。二人の最初の全国大会は真奈美が優勝を飾ったが、奏は妙に清々しい顔をしていた。二回戦負けのくせに。

 今は二人が部長と副部長になり、空手部の強化にあたっている。

 俺はと言うと、受験勉強に四苦八苦しながら、週一だけ道場に通いつつ、妹のデザートを奪う事に精を出している。

「ありがとね。今、凄く楽しんでる」

 リビングから聞こえた小さな声に、俺は片手をあげて応えた。見えてなくても構わない。向こうも、聞こえてなくても構わないと思っているだろうから。

 きっかけを与えたのは俺でも、乗り越えたのは奏だ。頑張ってるのも、奏だ。

 俺はグッと背伸びをして、息を吐いた。

「さてと、勉強。いっちょ頑張りますか」


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[良い点] この度はなろうコン大賞に御参加頂きまして真にありがとう御座います。 ある意味兄妹喧嘩、しかし実際には兄から妹への教育、大変良いものでした。 遠くにいるからこそ軽く言えてしまう事、近くにい…
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