三題小説第一弾「禁断愛」「可愛い系」「眼鏡」
その日の最後の授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。教室が、そしておそらく学校全体が、一斉にざわめく。陽は傾き、ほのかに赤みがかった光が教室を斜に射している。
視界から太陽を追い出すように僕は窓に背を向けた。隣の席に座る男、世間でいうところの友人ハヤマはシャープペンシルを軽く握って黒板を見詰めている。その視線を追うと。どうやらこのクラスの担任の女教師コウダを見つめているようだった。
まだ幼さの残る顔立ちの彼女は些細な微笑みを口元に浮かべていた。眼鏡の奥の目は柔和に垂れ、その唇は軽やかにしなっている
そのままショートホームルームが始まる。いくつかの事務的な連絡をしている間もハヤマは上の空の様子だった。
全て終えるとコウダ先生はさらっと別れの挨拶を皆に告げ、ふわりとしたボブスタイルの髪を弾ませて教室を出ていく。
生徒たちも各々に楽しげに帰宅や部活の準備を始めている。
ハヤマはコウダ先生の消えた扉の方を眺めて何事かを呟いている。僕はあからさまに大げさな溜息をつく。
「いいかい?」
「……いいよね」
そういう意味ではないけど、この際どうでもいいだろう。
「先に行くぞ」
そう告げ、教科書や文具を指定の学生鞄にいつもの形で詰め込んでいく。使い古した鞄はすぐにいっぱいになる。僕は立ちあがって一人去る。
「待って待って! 俺も行く! 俺が行かないでどうするんだよ!」
ハヤマは慌てて慌ただしく帰る支度をする。無造作に文具を詰め込まれた鞄を見るに、彼の部屋のゴミ箱の様子を容易に想像できる。この男の部屋にはそんなものないかもしれないが。
教室を出ると廊下は少し肌寒い。窓ガラスの向こうに広がる中庭の桜紅葉も葉が散り始め、寒々しい佇まいだ。夏はとうに過ぎ去り、秋もそろそろ終わりを迎える。
斜め後ろから、やはり大げさなため息が聞こえる。無視したい所だけど無視していてはエンドレスリピートで聞かされる。
「何だ? 恋煩いか?」
僕はほんの少しからかうような調子で言ったがハヤマは真剣なトーンで返してきた。
「ああ、そうだよ。コウダ先生いいなー」
この男の移り気にはもう付き合っていられない。前は誰だっただろうか。
「何というか可愛い系だよな?」
悪くない趣味だとは思うが僕に聞かれても困る。
「何が良いのかねえ」
「何が良いって眼鏡だよ! アンダーリムってのがいいんだね。あの涼しげな眼元! 添えるようにあって主張しすぎないわけ。吸い込まれるような薄茶の瞳が青みがかった黒のプラスチックフレームを引き立てるんだよ。あの細身のヨロイの湾曲に髪の隙間から見えるテンプルの艶! フロントとはまた若干色味が違ってさ。白い肌に映えてこれまた可愛いわけよ」
ハヤマという男は終始この調子だ。眼鏡フェチという言葉の意味は知っていたが、僕の人生で出会った『本物』はこいつ一人きりだ。こいつと比較できる者を知らないからこいつが『本物』だという根拠はないが。こいつが『本物』でないなら本物の『本物』は僕の理解の範疇外にあるUMAに近い存在という事になる。というわけで僕はハヤマを『本物』の眼鏡フェチと推定した。
「お前が好きなのは先生じゃなくて眼鏡だろう。この眼鏡フェチめ」
「いやいやいや。眼鏡の似合う先生が好きなんだよ。眼鏡あっての先生。先生あっての眼鏡だよ。あの魅力が分からないかなー」
「眼鏡あっての先生を先に持ってくる辺り、お前の反論には何の説得力も無いんだよ。先生も自分の眼鏡に自分の魅力がそこまで依存しているとは思ってないだろ。だけどまあお前の恋だ。好きにすればいいさ。どうせ教師への片思いなんてどうにもならないだろうし。どうにかしようとすれば先生の立場がどうにかなってしまう話だ。そもそもどこまで本気なのか僕にはよく分からないけどね」
というかこの男の発言はどれもこれも冗談にしか聞こえない。
「俺は眼鏡に対してはどこまでも本気だよ!」
気が付けばコウダ先生に追いついてしまった。コウダ先生はどうにも人懐っこい気質があって出会う人出会う人に話しかける。歩みが遅くなるのも当然だ。どうやらハヤマの如何わしい評価は耳に入らなかったようで、僕は心の中でほっと一息ついた。あるいはこの男の妖怪じみた正体を知ってもらった方が先生の為にも良いかもしれない。
「先生!」とハヤマが声をかけたが、特に先生への用事も、ハヤマを応援する気持ちもない僕はそのまま玄関へ向かった。何やら興奮するハヤマと若干気圧されるコウダ先生を後に置く。廊下の角を曲がる時、二人の方を見やるとハヤマが携帯電話のカメラでコウダ先生を撮影していた。何がどうなればそうなるのか。僕は呆れつつ、冷ややかな空気の漂う階段を下りていく。
ハヤマが僕に追いついたのは学校を出て五分ほど経った頃だった。グラウンドほどの大きさの貯め池とその周囲に散歩道が舗装されたた公園だ。新しく塗られた車止めや色褪せない看板を見るに、定期的に人の手が入っているようだ。散歩道にもちらほらメタセコイアの赤茶色の葉が散っている。ウォーキング、ジョギング、犬の散歩。近隣住民が思い思いの余暇を過ごしていた。ベンチに座って携帯ゲームに興じる小学生も何人かいる。
ここで待とうか、と一瞬の気の迷いが生じかけた時、ハヤマが追いついたのだった。息を弾ませて何かを言っているが僕には聞き取れなかった。少し息を整えるのを待つ。もう一度荒い息でハヤマが繰り返した。
「さっき、可愛い、眼鏡の、小学生が、いた」
「いつかやるんじゃないかと危惧はしていたけど……」
僕の顔は徹底的に侮蔑の表情を表現しているはずだ。
「いや、何も、してない、本当に、見かけ、ただけ」
「当たり前だ。何かしてたら二度と眼鏡を拝めないようにしてやったところだ」
ハヤマがしっかり息を整えるのを待ち、ぽつんぽつんと枯れ葉の落ちている帰路に戻る。
「何て酷い仕打ちなんだ。冗談でもそんな事言わないでくれ」と、ハヤマがわざとらしい泣き声で言う。
「丸々こっちのセリフだ。お前の眼鏡フェチに限界はないのか」
「そういうなよ。眼鏡は何も悪くない」
「誰も眼鏡を責めちゃいないよ。というかこの際眼鏡フェチ、もとい眼鏡パラフィリアに関してはどうでもいい。いくら眼鏡が似合ってるからといって小学生はないだろ。小学生は」
「ん? 眼鏡が似合ってるって言ったっけ?」
言ってなかったか?
「似合ってなかったのか?」
ハヤマが羽虫でも払うようにかすかに首を振って否定する。
「うん。似合ってなかったね。眼鏡も小学生もそれぞれ可愛かったけど、眼鏡の似合っている小学生ではなかったな。うん。つまり俺はあの子が眼鏡でなくても好きだったし。あの子以外の誰かがかける眼鏡だったとしても好きになったって事じゃね?」
僕の常識的な頭はハヤマを非常識という概念そのものと紐付けた。
【非常識】ひ‐じょうしき[名・形動]常識がないこと。常識に欠けていること。また、そのさま。ハヤマ。
「たぶん高学年の子なんだけどね。年の割に端正な顔立ちだったよ。ああいう顔だとむしろ大人になった時に崩れるなんて話があるけど本当なのかな。それももしかしたらスクエアフレームだからそういう引き締まった印象を受けただけなのかもしれないけど。ちょっと遠目だったから確信はないけど子供の癖にメタル系だったしさ。子供の癖にって事もないか。あ、でもテンプルに花か何かの模様があったな。そこは子供らしい感じだったけど彼女の初めの印象からすればむしろギャップ的な魅力かもしれない。そうそう、モダンはもちろんプラスチック素材だったんだけどね。そのオレンジのモダンと耳のほくろのコントラストが良い感じだった。って何だか結局誉めてるな。でも似合ってるというよりはミスマッチな魅力というか……聞いてる?」
聞かなかったことにしたい。聞こえなかったことにしよう。
「そういえばコウダ先生の写真撮ってたろ」
コウダ先生への恋煩いとやらはどうなったのやら。移り気にもほどがある。
「ああ。眼鏡似合ってますねって誉めて不意打ちで撮った。ちょっと怒ってたけど、まあまず誉めてからだったからな。満更でもなさそうだったぜ」
そう言って自分のスマートフォンを僕に寄越した。そこには驚く直前の表情のコウダ先生がいた。くしゃみの直前の表情にも似てる。僕にはこの眼鏡を評したり、いかに似合っているかを語ることはできない。まあ似合っているかもしれない、と思うだけ思った。
そこで一つのおぞましい予感が脳裏に浮かんだ。そんな可能性を思い浮かべること自体我が友人に対する裏切りなのかもしれない。二度と眼鏡を拝めなくても構わないが、二度と眼鏡を拝めないような目にはあいたくない。しかしそんな下劣な想像をする時点で僕はそんな目にあうに値するのかもしれない。
画面を右から左へスワイプする。車道を挟んで反対側の道を歩いてくる眼鏡をかけた女子小学生の画像。もしくは女子小学生がかけた眼鏡の画像。消去。
「何してんだよ馬鹿!」とハヤマが言った。
「何してんだよ馬鹿……」と僕が言った。
「俺の恋だろー。好きにさせろよー」
「完全に事案が発生してるっての。何が見かけただけだ。完全に盗撮だろ。家族が泣くぞ」
うう、とハヤマは錆びたネジをきつく締めあげるような声を口から漏らした。さすがに家族を持ちだされれば変人ハヤマも臆するようだ。あまり面識はないが両親と妹の4人家族だったはず。妹が最近冷たいとハヤマが数日前に嘆いていた事を思い出す。このことを知れば冷たい程度では済まされないことだろう。
「むしろ感謝してほしいくらいだ。友人を正道に引き戻して前科者になる悲劇を防いだってのに。小学生への片思いなんてどうにもならないからな? どうにかしようとすればお前の立場がどうにかなってしまう話だからな? 先生の場合とは違うんだ」
本当にどこまで本気なのか分からない男だ。
「でも年の差はどっちも同じくらいだろ?」
本当にどこまで本気なのか分からない男だ。
あれこれ言い合う内に我が家が見えてきた。国道に面する喧しい家だ。
「だいたい普通の家に生まれた俺の気持ちがお前にわかるわけないんだ」
お前自身は普通じゃないけどな。
「僕の家も平凡極まりないけど? 何の話だ?」
「お前の家、眼鏡屋じゃないか!」
大手企業が大いに繁栄し、そこら中にチェーン店が当たり前の現在でも珍しいというほどではないはずだ。
「僕の家が普通でないと感じるのはお前だけだよ」
今日ハヤマは眼鏡を買うというのだ。今の今まで持っていなかった事に驚いたが、単に視力が良かったのだそうだ。そうして念願の視力低下が訪れたというわけだった。「伊達眼鏡でいいじゃないか」と呈した疑問も「分かってないな」の一言で済まされた。別に分かりたいとも思わないが。そもそも前提たるこの男の嗜好を理解できないのだから仕方ない。
ガラスのドアを押し開けると温い空気が漏れだす。教室ほどの広さの店内には二人のお客様がいた。一人は五十代前後のナイスミドルといった風体の男性。ショーケースの上にパンフレットを広げて眺めていた。もう一人はわが校のセーラー服を着た女生徒だった。あ、とハヤマが調子の外れた声をあげる。その女生徒はハヤマの妹だった。回転するメガネスタンドをゆっくりと回して眺めていた。
「ハヤマ妹じゃないか」と声をかける。
「ご無沙汰してます。兄貴がお世話になります。その呼び方やめてください」
「ヨウちゃんどうしたの? 兄ちゃんの眼鏡姿を早く見たかったのかな?」
ハヤマは驚きと喜びの入り混じった声を出しながらヨウちゃんの隣に近づく。そしてちょっと距離を取られる。あまり似ていない兄妹だ。二人とも若干釣り目なところくらいだろうか。
「私も眼鏡を買いに来たんですよ。やっぱりコンタクトと併用しようと思いまして。決して兄の趣味に影響を受けたわけではありません」
ヨウちゃん。君の兄は既に趣味という域を超えてしまっていたんだ。とは言えなかった。健気な少女を泣かせる訳にはいかない。という僕の気遣いも実の兄は意に介さない。
「何だよー。恥ずかしがっちゃって。本当は兄ちゃんに眼鏡を選んで欲しいんだろ? 任せとけ」
「ヨウちゃん。コンタクトレンズだったのか。もう決めたの?」
「ええ。店長さん。先輩のお父様に相談させていただきました。正確にいえば既に先日注文した眼鏡を引き取りに来たんですけどね」
今のところ兄妹の間に会話はないのだった。どちらの言葉も相手には届いていなかった。片方の言葉はそもそも一方へと向けられていないが。
「やっぱりね。ヨウちゃんはオーバルのフルリムだね。眉のカーブ的にもそうだけど、若干釣り目ってのもあるし」
始まってしまったが、僕たちは、彼の友人と妹は心得ていた。
「そうだったのか。気付かなかったな」
「ええ。先輩から兄貴に伝わるのを避けたいですから」
「もちろんプラスチックフレーム。無難っちゃ無難なんだけどこれが一番似合ってるとも思うんだよ。まあ学生の内はあまり派手なものもね」
「心外だな。口止めしてくれたなら勿論のこと。そもそもハヤマに眼鏡の話をふるなんて事はまずしないさ」
「それはまあそうでしょうけど。先輩に口止めするというのも後輩としては心苦しい事なんですよ」
「色は茶色系統だね。肌白いしベージュがいいかな。いや、でも髪の色に合わせるなら少し濃い目もありか」
「それもそうか。ところで父さんは?」
「さっき私の眼鏡を取りに行ったところです」
「あ、さっきからセーラー服で考えてたけれどヨウちゃんって私服はナチュラル系だよね。なら天然素材フレームの方がいいよなー。ここにも幾つかはあるけど……あ、提携してるのか。それなら竹フレームとか良いかも。なんつって。手が届く額じゃないわな」
「お待たせしました。おお、お帰り」
やってきたのは店長である父だった。勿論眼鏡。黒縁眼鏡。
「ただいま。それが……ヨウちゃんの……眼鏡?」
父の手の中に収まっているのは開かれたプラスチックの眼鏡ケース、その中にはヨウちゃんが注文したとされる眼鏡だった。
「そうだよ。どうぞ」と言って父はヨウちゃんに眼鏡を差し出した。
ヨウちゃんはショーケースに眼鏡ケースを置き、眼鏡をかけ、少し目を細める。そうして父の差し出した鏡を覗き込む。とても似合っていた。あるべき所におさまったかのように、顔と眼鏡が一組で作られたかのようにぴったりだった。これじゃまるでハヤマだ、がそれが素直な感想だった。
「どうです? 先輩」
「とても似合ってるよ」
惜しむらくは、というか悔しい事に、それはさっきからハヤマが語っていた眼鏡そのものだったという事だ。オーバルのレンズにフルリムのプラスチックフレームは濃い目のベージュだった。
どうやらヨウちゃんは気付いてないようだ。というかハヤマよ。無視どころか完全にシャットダウンされているぞ。さながら大人にとってのモスキート音だ。
当のハヤマは眼鏡をかけたヨウちゃんを見て固まっているのだった。ハヤマを尻目にヨウちゃんは眼鏡を片づけ、眼鏡ケースを鞄にしまう。
「それではお代は既に払っているのでそろそろ帰ります。先輩。いつでも兄貴を見捨てていいんですよ」
そう言って微笑み、ヨウちゃんは店を去った。ハヤマはまだぽかんとしていた。この男はもう妹に見捨てられたのだろうか。
僕はハヤマを一人残し、荷物を店の奥に置いて戻ってきた。父はもう一人の客の元へ向かい、ハヤマはまだその場でじっとしている。そして胸に手を当てて僕の方を振り返った。その眼鏡をかけていない目を見、僕は悟った。ヨウちゃんの言うとおり、この男を見捨ててしまいたい気持ちだが、それはヨウちゃんの為にはならなさそうだ。