馬鹿か天才、どっちかなのです!
部屋にひとり入るとウイングはベッドに倒れ込む。
それから、ゴロリと体勢を変えて、天井をぼんやり見つめていた。
この部屋はウイングが三歳になってすぐの頃、与えられたものだ。
ウイングは最初に自分の愚かさを呪った。
何を馬鹿みたいに『チート』かもしれないなんてハシャいでいたのかと、ほんの数十分前の自分に怒りすら覚える。
レンバート先生に殺されるかと思ったのだ。
レンバート先生は何事もなかったように振る舞い、今晩この部屋に来て説明してくれるらしいが、信用していいものだろうか?と頭を悩ませる。
もし、レンバート先生がウイングを害するつもりなら、すでにウイングはこの世にいないだろう。
それにわざわざ夜に来ると宣言してウイングを害するなど、間抜けにも程がある。
そのことに気付いた時、ウイングの中でようやくレンバート先生を迎える腹が据わった。
それから、サアラのことが頭を過ぎる。
サアラから、彼女の名前は他の者に呼ばせないで欲しいと言われていたはずだ。
なのに、レンバート先生に呼ばせてしまった。
彼女が嫌がっているから止めてくれと言うべきだったと後悔が押し寄せる。
「真名をみだりに呼ばないようにと、主に伝えていないのですか?」
レンバート先生の声が頭の中で反芻される。
まるで、サアラが悪いかのような口振りが、余計にウイングを責める。
責められるべきは僕なのに!と申し訳なさで胃がぐるぐるする。
目の奥に熱いものが溜まってくる。
サアラの悔しそうな顔が脳裏に蘇った時、目の端に赤い衣の狐を擬人化したキャラクターが表れる。
「さ……」
思わず名前を呼びそうになり、慌てて口を噤む。
彼女はなんとも痛ましい申し訳なさそうな顔をしていた。
その表情にウイングの心は余計に締め付けられる。
「ご、ごめ……」
「申し訳御座いません!
例え魔法石とはいえ、あのような輩にいいように操られるなど、全てはわたくしの不徳の致すところ……言い訳のしようも御座いません」
サアラの言葉を聞きながら、ウイングは「ちがう……ちがう……」と何度も首を横に振っていた。
「かくなる上は、如何様な処分でも……」
「ちがうっ!」
サアラの謝罪を遮るようにウイングは声を上げる。
それから、その声に自分が驚いてしまう。
「あ、あの……ご、ごめん……きみがなまえでよばれるのを、きらいだって、せん、せーにいえなくて……」
今度はウイングがすまなそうな顔になり俯いてしまう。
サアラはその言葉にようやく自分の主がしている勘違いに気付いた。
「我が主様……顔をお上げください……」
サアラは無機質な感情で語り始める。
「『真名』とはただの名前ではないのです。
真名はそのものを定義し、そのものを我がものとするための名前なのです。
つまり、真名を知ることは知られたものの全てを支配するのと同義です。
ただし、真名の強制力とは完璧なものではありません。
お互いの支配力によっては、抗うことも可能なのです。
よほどの力量差がなければ真名の支配力に抗うことは適いませんが……。
そして、主様がわたしの名前をお呼びになるのは、いつ、どこで、どんな状況であろうと正しいことです。
主様がお呼びになる我が真名を他の誰かが聞きつけて、それを悪用しようとも、主様に責があろうはずがないのです。
あの死魂の者に真名で呼ばれ、操られたのは、ひとえにわたくしの力不足によるものです。
ですから、主様に悪いことなどひとつたりとも御座いません。
何卒、お心を乱されませぬようお止め置きくださいませ」
「でも……」
「いいえ。
主様に咎はありません。
精霊とはこの世界を取り巻く機構のひとつ。
そこに善悪の別などないのです。
ただ言えるのは、わたくしのせいで主様がお心を傷めるのをお止めできなかったこと、そのことについて深く謝意を表したいとお目汚し致しました」
それはウイングにとって最後を匂わせるには充分な言葉だった。
「え……もう、会えないの?」
「斯様な失態、もう会わせる顔が御座いません……」
「でも、それなら……ぼくがさあらをよべば、きてくれるよね?」
ウイングはサアラに断られるかもしれないという恐怖を押し隠して聞く。
「お呼びいただけますか?」
サアラは上目遣いで申し訳なさそうに聞く。
「よぶよ!さあらの真名はぼくがつけたんだ!よんで……いいよね?」
「サアラは……サアラは幸せ者に御座いますっ!」
目を潤ませてサアラが応じる。
「せんせーにさあらの真名をよばないでくださいって、おねがいしてみる」
ウイングが鼻息荒くやる気を見せるが、途端にサアラは冷静になって考え込む。
「……それは難しいかと思われます。
精霊を従えることはこの世界に生きるものにとって、神に近付く最良の手段であると認識されていますから……」
「でも、しはいりょくにさがあれば真名にあらがえるって……」
「はい、しかし今のわたくしの力では、あの死魂の者の支配力には抗えません」
「なにか、ほーほーはないの?」
「他の精霊に聞いた話ですが……真名を知られる前ならば仮名をつけていただき、真名を知られぬようにすることができたそうですが、真名を知られた今となっては、わたくしが力をつけるまで待っていただくしか御座いません」
「それってどれくらい?」
「三百年もあれば成し遂げてみせますっ!」
今度はサアラが鼻息荒くやる気を見せる。
ウイングは愛想笑いで遠くを見つめるが、はたと気付く。
「……ねえ、ぼくがさあらにさわってもダメかな?」
「そんなっ!恐れ多いことに御座います!」
「だって、ぼくがさわったら、さあら大きくなったよ!
ちからがついたってことじゃないの?」
「それはそうですが、我らは普段、魔法という事象を現実に現出せしめる対価として『糧』を得ているのです。
今までも我が主様からはあまりに多くのお力を対価も無しに授かりました……
本来ならばあり得べからざることです。
同時にこの世界と精霊界のバランスを崩しかねない危ういことです。
お気持ちだけでも恐悦至極に御座います」
「だって、このままじゃせんせーのめーれーにさからえないんでしょ?
もし、せんせーにぼくとあったらいけないって、めーれーされたら、あえなくなっちゃうってことだよね……そんなの……そんなのぼく、やだよ!」
その時、ウイングの感情に伴って月の宝珠が光を放つ。
ウイングは本能的にそれを行ったのだ。
そして、ウイングから放出される力をサアラは全身に浴びる。
サアラは自身が精霊として成長していくのを感じていた。
ちょうど三百年分ほどだろうか。
得ようと思えばいくらでも得られそうだった。
だが、サアラは世界のバランスのために、必要以上の糧を得てしまわないように身を捩った。
この世界に住まう魔法を使う者たちの器から得られる力、『糧』と呼ばれるそれを得てマナは精霊に、精霊は大精霊にと成長していく。
通常ならエーテル体を得たばかりの駆け出し精霊であるサアラが大精霊になるには五百年は必要になる。
しかし、その半ば以上の『糧』をいきなり得てしまったのだ。
ウイングが意図してやった訳ではない。
制御の覚束ない『月の宝珠』から感情に伴って漏れ出てしまった力の仕業であった。
「んあッ……我が主様……」
サアラは急激な成長に身悶える。
発声器官がエーテルの蠢動に耐えきれず、まるで荒い息を吐いているように聞こえる。
「さあら……?」
ウイングが苦しんでいるように見えるサアラを心配そうに見つめる。
「はあ、はぁ、はッ……す、全て我が……主様の、御命令……通りに……致します……うッ……あぁッ……」
一時的に身体の感覚をなくして、忘我の境地に達して、倒れ臥したサアラは、すでに三歳のウイングより頭ひとつほど背が高いくらいまで成長している。
ウイングは頭身が違うので、やけにほっそりと感じるサアラの手を取ると祈るように言った。
「さあら、だいじょうぶ?さあらっ!」
サアラは空いた手をそっとウイングの手に重ねる。
「……はい。もちろんです……我が主様……」
サアラはようやく成長の終わった身体を地から離すと、慈しむようにウイングに繋がれた自身の両手に頭を垂れる。
「我が主様のお望みのままに……」
サアラにとって世界のバランスを崩してしまった罪悪感があったが、それすらもどうでもよくなってしまうような、ウイングとの絆を感じていた。
暫くして、ようやく我に還ったサアラはウイングに微笑みかける。
ウイングも絆を感じたように笑った。
それから、サアラはそっと手を放すと空間に溶けるように消えた。
ウイングが驚いてサアラの名を呼ぶと、一瞬でサアラは表れる。
サアラは優しくウイング諭した。
曰わく、サアラの居場所は精霊界にある。
そして、精霊界とは、次元が異なるこの世界の写し鏡なのだという。
この世界に精霊が長く留まることは、この世界に悪影響を与える要因になる。
自分は次元を異にしても常にウイングと同じ座標に留まり、精霊界からウイングを見守り続ける。
だから、居なくなったりしていないのだということを、なるべくかみ砕いて説明した。
ウイングには精霊界がどういうものかはよく分からなかったが、サアラは呼べば表れると分かったので、ようやく安心した。
それに、見えなくなっても集中すればサアラがそこに居ることを感じられたのも大きい。
それから、メイドのディサドラが呼びに来て家族と晩の食事を取った。
父母や姉から今日のレンバート先生は楽しかっただろう、とか驚いたでしょう、とかどんな凄い魔法だったの、とか家庭教師の話題で持ちきりだった。
ウイングにとってはどれくらい怒られるだろうと覚悟していただけに、拍子抜けだった。
魔王城の横っ腹に大穴が空いたことも、大して問題ではなかったらしい。
父や姉が興奮しながら、レンバート先生の魔法を見たがったくらいの話だった。
食事が終わり、ゆっくりとしたお茶の時間が終わり、母と姉は湯浴みに、父は兵士たちと宴会に行って、その日は終わった。
そして、夜が来る。
ウイングは自分の部屋でレンバート先生が来るのを待っていたが、子供の身体は正直なもので、うとうとと船を漕いでいた。
扉がノックされて、慌てて返事をすれば、来たのはディサドラで、無理やり寝かしつけられてしまった。
ベッドに入ってしまえば睡魔に逆らうことはできず、ウイングは寝入ってしまった。
風が鳴っていた。
冷たい空気が頬を撫でるので、その寒さでウイングは目を覚ましてしまう。
暗い部屋の中に、ぼんやりとランプの明かりが点く。
その明かりを遮るように人影が浮かぶ。
その人影は静かにウイングを見下ろしていた。
赤く光る瞳がまるで獣のように、ギラギラとぬめるような眼差しを向けていた。
「ひっ……!」
思わず声を上げようとしたウイングの口を人影が抑える。
赤い瞳が急速に近づいて、三日月のように笑う。
それはレンバート先生だった。
レンバート先生は人差し指を口元に当てて、ウイングに静かにするように示すと、そっとウイングを抑えていた手を外す。
「こんばんは、良い夜ですな……」
レンバート先生が声を潜めて言う。
「あの……」
「特別授業を始めましょう」
ウイングを遮るように言って、レンバート先生がベッドの横に椅子を持ってきて座る。
ウイングも慌ててベッドから出ようとするが、レンバート先生に止められた。
「わたしの話を聞いてもらうだけですから、そのままでいいですぞ」
なので、ウイングは身体を起こしただけである。
レンバート先生はウイングの身体が冷えないように夜着を羽織らせ、自分はそのまま語りだした。
「いいですかな。
このままではウイング坊ちゃんは殺されます」
ウイングはその言葉になんの反応も返せなかった。
一瞬、なんの話だか分からなかったのだ。
ただ、このままでは殺されるという言葉は時が経つにつれ、じわじわとウイングの心を蝕んでいった。
どっと吹き出した汗がやけに冷たく感じられ、背筋を這い下りた。
やはり、魂の器がまずかったのだろうかと思うが、それがどうまずいのかが分からないのが余計にウイングを混乱させる。
「ウイング坊ちゃんのお兄様、お姉様が八人ほどお亡くなりになられているのはご存知ですかな?」
ウイングは答えていいのか分からないまま、ただレンバート先生を見た。
「ふむ、やはり死というものをご理解されているようですな」
レンバート先生はその目の動きでウイングの知性を感じ取り、続ける。
「……亡くなられた八人のお兄様、お姉様方は皆様、殺されておいでです。
このことは誰も知りません。お父様もお母様も知らないお話です。
何故なら、知れば殺されてしまうでしょうから……」
「ぼく……ころされるの?」
「いいえ。わたしがさせません。
ただ、その為にはウイング坊ちゃんにも覚えて貰わなければならないことがいくつかありますな」
ウイングは真剣な面持ちで首肯する。
「先ず、敵の存在ですな。
魔王族はその血筋から優秀な者が生まれやすいのですが、それを快く思わない者がいるのですな。
もし、ウイング坊ちゃんの魂の器が知られてしまえば、命を狙われてしまうことになるでしょうな」
やはり魂の器が問題だったのだとウイングは理解する。
「この魔王城には様々な種族の選ばれた者が仕えています。
それは魔王様への忠誠を誓った他種族からの忠誠の証であり、人質なのです。
しかし、同時に魔王様を恐れる者たちが放った間者でもあるのです。
誰が間者なのかはわたしにも分かりません。
ひとつだけ言えるのは、魔王様の血筋の中でも特に優秀な者ほどお亡くなりになっているということですな。
つまり、ウイング坊ちゃんの才能が知られてしまえば、遠からず命を狙われることになりますな。
ですから、ウイング坊ちゃんは馬鹿にならなくてはいけないのです。
お分かり頂けますかな?」
「でも、魔法のつかいかたもしらないよ……」
「しかし、サアラという精霊を従えていらっしゃる。
魔法の使い方など問題にならない程の大きな力だと言えますな。
何しろ自分で魔法を使う必要すらないのですから、充分に殺される資格があります」
「ど、どうすればいいの?」
「それをこれからお教えするのが、わたしの仕事ですな」
そう言って、レンバート先生は優しく微笑む。
手始めにと、ウイングはサアラを勝手に呼ばないことを約束させられた。
ただし、レンバート先生と二人きりの時はサアラにも話を聞かせるようにとも言われた。
そして、それからウイングはレンバート先生の教えを本当の意味で受けることになる。
表向きは凡庸な子供として、裏では生き抜くための英才教育を。