はじめ)Warming up
その0)Warming up
はたして僕は、夢という脳が描いた空想の世界の住人を満喫していたのだろうか? それともただただ、睡眠という欲求を満たしていただけなのだろうか? それを思い出してみようと努力してみても、残念ながらと言うべきか不思議な事にと言うべきか何一つ覚えていない。そもそも、只今就寝中ですと自覚した事が一度もないくらいだ。そんなハッキリとしない漠然とした夜という時間を、たぶんきっとだからこそなのだろう無自覚に消化し続け、その過程を経て朝と形容される時刻を迎える頃。予め、昨夜という名の過去の内にタイマーなる装置をセットしておいた目覚まし時計のベルの音で、なんとかかんとかどうにかこうにかやっとこさで起床する。そして、その後になんやかんやの身支度をもそもそと行い、いそいそもといもたもたと部屋をあとにしてとてとてと出勤し、のたのたと仕事に勤しみ、その日の業務を終えたらたらたらと退勤の準備にとりかかり、済ませるや否やとてててと帰宅する。その途中で、行きつけと言っても差し支えない程に利用しているコンビニエンスストアに立ち寄って缶ビールを二本とアメリカンドッグを一本買い、誰も居ない自宅にのそのそと無言のまま立ち入り、熱めのシャワーをさらさら浴びた後、帰宅途中のコンビニで購入した食事をただただ黙々と済ませつつ、なんとなくその日のTV番組を時折ザッピングしながら観賞して過ごす。そうして暫し益体なく時間を浪費した後、明日の為にそろそろ眠ろうかななんていう味気ない理由でもぞもぞとベッドとシーツの間に潜り込み、目覚まし時計をセットして、うつらうつらと就寝する。以下、ループ傾向。所謂ところの、変わり映えのしない毎日というヤツだ。僕ではない他者には伝わりにくいかもしれないへんてこりんな擬音の数々はさておいて、ね。
何はともあれ。
兎にも角にも。
このようにいつもの一日を文章にして表現してみると、途端に味気ない日常と化す。その日その日には少なからずな程度には感情の起伏があったであろう筈だし、味や匂いや歯応えのない時間ばかりを悪戯に過ごしてきたというワケでもないだろうし、酸素を頂戴して二酸化炭素を撒き散らしていただけという事でもないのに、詰まるところ時間を無駄に消化していたワケではないのに、だ。それでもあえて書き残しておくべき事はなかったのかしら? と、記憶を探ってみたところで結局は一切と表現しても差し支えないくらいに何一つ見当たらず、一秒を繋げて一分にしてみても更に繋げて一時間にしてみても更に更に一日にしてみてもその区切りの集合体であるところの毎日にしてみたとしても、思い出せる何もかもが何もかも何ら変わらない。そんな、ある意味で言えば奇跡的ですらあるのかもしれない日常の風景。こうして時間を割いて思い出してみたところで、やっぱり特別な出来事なんてこれといって見つけられないし、たぶんきっと見つからないだろうそんな毎日。劇的な空間が紙一重でも何でもなく起こり得ない、気配すらない、かと言って起こしてみる気持ちはないという、平和で平凡で平坦な刺激のない安穏とした生活。
けれど、でも、これも。
一つの幸せの形なのだ。
充実しているかどうか。
それは、それとしてね。
趣味と言える程に強い関心を抱く事、若しくは抱く物なんてないし、恋人とか連れ合いとかそれどころか友人さえいるわけでもないので、休日になると暇を持て余してしまうのだけれど、元々が人付き合いが頗る苦手なタイプなので、独りは案外と苦ではない。寂しいといった感慨を稀に抱いたとしても、酷く気になるという程ではない。そんな毎日、そんな時間、そんな瞬間の集合体が、これから先も繰り返し繰り返し同じように流れていけば、その先にもある未来という不確定な時間に到達した時に僕は一体、何を思うのだろうか? なんて、ね。そんな哲学もどきチック気味仕立て傾向風味きまぐれサラダ的な戯れ言の如き問答で、たかだか人が一人でしかない自らを演出する気も深く考えたりする気も全くもって更々ないのだけれど。
けれど、きっと、たぶん。
だからこそ、なのだろう。
このままで良いとも思う。
決してこのままがイイのではなく、このままじゃないとダメというワケでもなく。夢や憧れや願望は少なからず持っているのだけれど、諦めという劣情も小さくはないくらいの大きさで持っていたりする。故になのかどうなのか、なるべく有利な妥協点を探して有利な妥協案を提示しないとプライドが傷つくなんていう事もない。だからなのだろうか、そうであるからなのだろうか、僕には幾つもの矛盾がある。幾つもの矛盾を内包したまま生きている。生き長らえ続けていく。実のところ本心を言い訳とか屁理屈で隠そうとしているからなのだろうが、それは数を増して更には膨らんでいる気配さえ感じてもいる。僕という存在の内側にある思考やら感情やらを司る脳やら心やらといった構造というか概念はもしかしたら、凄く屈折された形で身体という身代わりであり一代限りの代用品に隙間なく収納されているのかもしれない。その証拠をあえてこの場に恥も外聞もなく提示してみるとすれば、御伽噺のあれやこれやに対する感想がそうであろうと思う。
例えばマーメイドという物語で言うと、ラストで泡となって消えてしまうのは作者が当時の身分社会の弊害みたいな最もらしい言い訳を用意していたのかどうかは別にして、ただ単に人魚と人間が無理なく結ばれる為に必要な良い案が考え浮かばなかったからなだけなのではないのか? もっと言ってしまうとするならば、実のところ物語なんて愚痴とか憂さ晴らしで書いた戯れ言日記みたいなモノだったのに、それだけではどうにも収まりが効かなくなって誰かにぶつけたくなってきたのだけれど自尊心的にアレだから、だからそういった自己顕示欲をある程度は自粛してある程度を包み隠し、その上でフィクション色を強くしてみましたって感じなのでは? とか、そんな風に感じてしまう。そう思ってしまう。それは例えば諺でもそうだ。三度目の正直に、二度あることは三度ある。七転び八起きに、七転八倒。等々。こんなの言い訳する用意が満載のエセ占い師と変わらないのではないか?とか、ね。
何はともあれ兎にも角にも僕のメンタルという存在は、こんな有り様で自身でも引いてしまうくらいにかなり捻くれた捉え方をしてくれたりする。しかもそれは、ローティーンの頃からだったりする。もしかしたら、幼児期体験あたりで性格設定における何かこう決定的な体験でもあったのだろうか? そういうトラウマはないのだけれど、身に覚えがない事なのだけれど。
でも、冷めていらっしゃいますねと言われてきたし、何を考えていらっしゃるのか判りませんとも言われてきたし、変わっていらっしゃいますねと愛想笑いで言われてきた過去を持つ身だ。それも、もうすっかり慣れましたよあははと両サイドの耳が飽き飽きするくらいに、だ。所謂ところの個性というヤツを他者に押し付けようとしたつもりは全くないし、ただ単に意見を問われたから素直に声にしましたってだけであっても、それだとしても決まってと言いきっても差し支えないくらいにそう言われてしまうという事は、どうやら不特定多数の側の人間ではないのだろうと自覚せざるを得ないのだけれど、けれどもしかしだ。そのように自覚する事によって困った事になってしまったぞと感じた記憶はないのだけれど、でもそれでも理解してもらえない寂しさはその度に感じていたという記憶ならたしかにある。だから、だ。きっとそういう心情も孕んで人は不特定多数の側に居ると安心するのだろう。そして裏腹に、個性的と思われたいという願望が欲求にならないよう自身から言い出さないよう潜めたつもりでもいるのではないだろうか、と。そんなふうに思うようになった。これもまた、捻くれているからなのだろうか。自身を無個性と自覚するのも思われるのも実のところはイヤなのだけれど、個性的な人を否定する事で常識人という立ち位置もキープしておきたい、みたいな感じ? ま、こういう考え方なんかはやっぱり屈折している証拠の一つなのかもしれないのだけれど、兎に角にもそのように結論づけてしまう事で僕は、人間という生き物に期待する事を諦めるようになっていった。それは勿論の事、自分自身に対してもそうだったし、それどころか自分自身に対しては特にそうだった。それはそうしないといつまでたってもガッカリしてしまうからで、いつになってもそれに慣れなかったからで、その度に傷になってしまったからだ。痛い。切ない。悲しい。苦しい。それがイヤだから、心に何個も鍵をかけ、更に厚い壁を作り、その上で作り物の笑顔を貼り、自身を偽る。彩りをなくす。消す。誤魔化す。そして、それを他者にまで演じ続けなければならない億劫さを避けようとして、なるべく独りでいようと更に心を閉ざしていく。
独りで生きていくのは実のところ難しいのだけれど、独りで暮らすのはそれほど難しい事ではない。しかも、それなら傷つけられる確率は小さくて済むし、傷つけてしまう事なんて殆どない筈だ。この街に帰ってきてからの、いいや。この街に帰ろうと決めてからの僕は、向こうに渡ってからの何もかもとは毛色の違う毎日を意図的に、作為的に、そのように自覚した上で選ぼうと思った。更に遡ってそれ以前の自分自身についても、遠い遠い過去として歩んでいけるようになろうと思っていた。思ってはいた。
僕には、忘れたくない人がいる。
今もまだ忘れられない人がいる。
けれど、でも。
せめて此処で。
この街に帰ってきてまだ僅かな時間しか流れていないのだけれど、平凡で、平和で、穏やかで、無味無臭で、刺激なんて皆無といった環境。そんなたぶん普通の日常であるといえる風景を、そういった毎日を、僕は此処から始めてみようと決めた。遠く離れた向こうで命を粗末にするような毎日を生き、それでもわざわざ死を選ぶような自暴自棄にまでは陥らず、生きていたいのか死んでしまいたいのかどちらの方がマシなのかという答えを見つけられないまま、結局のところはこの街に戻ってきてしまった。遠い向こうでダメだったのに、向こうよりも格段に近いであろうこの街に戻ってきた。
忘れたくないのであれば、
忘れられないのであれば、
思い出の世界で生きよう。
共に生きた証がある中で、
その空間で生きていこう。
そう、思ったから。
だから、そうしている。
故にこうしている、と。
忘れられないあの人との思い出。
それが沢山詰まったこの場所で。
夢に見てしまう事は何度もある。
けれど、良い夢を見たと喜ぼう。
何も期待せず、望まず、挑まず、
ただただ、ただ、流されていく。
現実から逃避する事なく、
現実の世界を生きていく。
それでイイんだ。
これでイイんだ。
………と。
そう思っていたのだけれど。思ってはいたのだけれど。幸運にもと言うべきなのか。不運にもと誤魔化すべきなのか。此処に戻ってきてからまだ僅か数日で、昨日も今日も明日も何一つ変わらないコンティニューだらけになる筈だったそんな予定調和に呆気なくエンドマークが刻印された。それは突然と言えば突然な事だし、唐突と言えば唐突な事なのだけれど、それでも当然と言えば当然な事なのかもしれない。と、そうなふうに思ってしまうようなフラグが立つ事となったその始まりは、お昼ご飯としてカップ麺を選んで食べていた、まだそんな日常の方だったある日の休日の午後の事だった。
………。
………。
その0終わり
その1に続く