散歩道
春の気配がようやく感じられるようになってきた五月。浅井のどかはのんびりと茶畑を歩いていた。
温かな風が吹いて、日差しも適度に照らしていて、散歩日和だ。
茶畑が声をかけてくる。
「今日もいい天気だね、のどかちゃん」
「――――」
のどかは、「そうだね」と返事をした。のどかから発せられる言葉はおおよそ人間には理解できない発音だ。のどかは生まれたときから植物と話すことができた。しかし、代わりに人間と話すことができなかった。
のどかの家の周囲には自然が色濃く残っているので寂しいと感じたことはない。いつだって誰かが声をかけてくれる。
ときには樫の木が老いた声で呼び、ときには桜が華やかな声で誘い、ときには雑草が甲高い声でのどかに声をかける。
人間と話すより、植物と話す方がのどかは好きだった。
誰も打算も計算もしていない。一生懸命に今を生きているのがひしひしと伝わってくるからだ。
学校では友達はいない。誰も喋れないのどかを相手にするのは億劫で、のどか自身も学校にそびえるイチョウの木と会話している方が楽しかった。
人間から見れば、のどかは孤独で変な人間だ。誰ものどかに積極的に話しかけようとしない。
のどかはそれでいいと思っていた。これから先、成長していく中でこの特技はきっと問題になるだろう。しかし、植物と話せなくなるのはイヤだと思う。将来の就職先はお花屋さんか、花を栽培する農家になりたいと決めていた。
春風がのどかの後頭部でひとつに結った髪を揺らす。くりくりとした愛らしい両目は新緑の大地を映している。どこか快活な印象を与える端正な顔立ち。あまり成長の色が見られない胸に細い手足。のどかには人形のように完成された美しさがあった。
学校では男子に人気がある。話しかけてくるのも大概は男子だ。告白をされたことを数回では足りない。しかしのどかは誰の告白も突っぱねた。のどかは男子に興味もなければ付き合うことなど考えたこともない。男子に人気があるからと女子グループからは仲間外れにされ、憂き目にあうことの方が多い。
自分はもっと泥臭い、不細工に生まれてくればよかったと思うのは贅沢だろう。
茶畑を抜け、鬱蒼とした散歩道を歩く。長い間整備されていない散歩道はアスファルトには亀裂が入り、そこから雑草が生えている。周りは木々に覆われていて、陽の光はわずかに差し込むばかりだ。
「のどかちゃん、おはよう」「のどかちゃん、今日も散歩?」「のどかちゃん、最近元気してる?」
投げかけられる言葉の数々。のどかは全てに返事をしながら歩いて行く。ここは賑やかな繁華街のような感覚がある。飛び交う言葉はのどかに声をかける以外にも背の高い木が枝葉を伸ばしたことで背の低い木が文句を言っている。植物界にも日照権のいさかいはあるのだ。
そんな言い争いすら心地よく思いながら、のどかは散歩道を進んでいく。散歩道の半分ほどの場所に朽ちた木製のベンチがあった。過去、ここは恋人たちが逢い引きをするために使っていたということを周囲の木から教えてもらい、のどかも気になっていた。今は誰も足を踏み入れない鬱蒼とした森になってしまった今、市が整備に乗り出さない限り変化することはないだろう。
それは悲しいことだとのどかは思う。こんなに素晴らしい場所なのに、誰にも知られないなんてもったいない。
誰かに伝えない。でも伝える相手がいない。のどかはジレンマに苛まれた。
荒れ果てた階段を降りて、一般道に出る。道路が整備された道の両端には等間隔でもみじの木が植えられていた。
もみじの木といくつか世間話をしながら歩いて行く。
のどかの散歩ルートは気分によって細部こそ異なるが、基本は同じ場所を回るだけだ。それ故に植物はのどかの顔を覚え、よく話すことがある。
「今日は変な人がいるんだ」
変な人って? とのどかが訊く。
「ずっと同じ場所で待っているみたい。結構カッコイイ男の子だったよ」
ふ~ん、とのどかは大して興味もそそられず、もみじ通りを後にした。
畑の間を流れる用水路の上には小さな橋がかかっている。橋の欄干に腰を下ろしている少年を見付けた。
髪はさっぱりと切りそろえられ、どこか遠くを見ているような涼しげな目。モデルみたいに高い鼻。ちょっと分厚い唇。無地のTシャツの上に空色のポロシャツを羽織り、ジーンズを穿いている。ぱっと見たときモデルかと思うほど整った顔立ちをしていた。
少年は視線に気付いたのか、のどかの方を見た。
そして優しく微笑み、「おはよう」と挨拶をした。
のどかは無言で少年の方に歩み寄ると、ポケットから携帯電話を取り出して常人よりも遥かに早い速度で文章を打つと、少年に見せた。
『おはようございます。わたし、喋れないからこんな形ですいません』
「そっか、喋れないんだ。それは大変だね」
『そんなことありません。わたし、人と会話するの嫌いですから』
「偶然だね。ぼくもあまり好きじゃないんだ。最近、親が死んでね。会社の社長だったんだけど、その遺産の取り合いで親戚連中が争っているのを見て嫌になった」
『あなたも大変ですね』
「子供のぼくにはあまり関係のないことだけどね。人間ってつくづく汚い生き物なんだなって思ったよ」
少年は自虐的な笑みを浮かべた。
「ぼくの名前は佐藤琢磨。きみの名前は?」
『浅井のどかです』
「のどかか。いい名前だね」
琢磨は打って変わって優しい笑みを見せた。人を引き付けるような魅力的な笑みだ。
「ぼくはここから見える何でもない景色が好きでね。よく来るんだ。今日は来てよかったよ。きみみたいな同じ人間に会えたんだから」
『わたしたち、似たもの同士ですね』
「そうだね。これからずっと話していたい気分だよ。ぼくはきみに惹かれているのかもしれない」
『恋なんて思い込みの産物です。わたしは信じていません』
「ぼくはそうは思わないよ。ぼくときみが出逢ったのは運命のような感じがするんだ。神様がまだ人間には捨てたもんじゃない人がいるって教えてくれたんだろうね」
『佐藤さんはロマンチストですね』
「正しくは夢でも見てないとやってられない、というのが本当だろうね。いつも周りにはしがらみがあったから」
琢磨は年齢の割に達観した視点を持っていた。どこか人生を諦めたような、そんな目だ。
『わたし、もう行きますね。散歩の途中なんで』
「ああ、引き止めて悪かったね。また会おう」
二人は手を振り合い、別れた。
それから二人は何度となく同じ場所で出会った。雨の日を除いて、ほぼ毎日だ。その度に他愛もない話をしている内に二人は名前で呼び合う仲になっていた。
「おはよう、のどかちゃん」
『琢磨さん、おはようございます』
「昨日教えてくれた散歩コースよかったよ。なんかマイナスイオンをたっぷり浴びた感じだった」
『また教えてあげますね』
「頼むよ。ぼくは見て判る通り暇人だからね、どんなコースを紹介されても行く自信があるよ」
『これで琢磨さんも散歩仲間ですね。わたし、同じ趣味を持つ人が増えて嬉しいです』
「できれば一緒に散歩したいね。今からなんてどうだい?」
『いいですよ。どこに行きましょうか?』
「散歩のベテランのきみに任せるよ」
そう言われてのどかは考えた。この橋からどこか近くてオススメの場所はないだろうか。
「遠くでも構わないからね」
考える範囲を拡大する。いくつかまだ紹介していないスポットが上がる。どこに連れて行けば一番喜んでもらえるだろうか、とまた考える。
気分はまるでバスガイドで、そういう職業も悪くないなと思う。
『それじゃあ行きましょうか。ついてきてください』
「ああ、楽しみにさせてもらうよ」
のどかは琢磨の前を歩いて目的地へと向かう。
目的地は畑の中にずんと佇む大カヤノキだ。高さ二十二メートルほどの国の天然記念物に指定されている。それを支える樹木の太さは十メートルを超えていて、近くに立っている木とは明らかに違う。
のどかもたまに話しを聞きに訪れることがある。樹齢を二百年を超えるものだから、戦争が起こる前の風景や、変わってしまった景色のことを教えてくれる。のどかはそれによって過去の話をお婆ちゃんなどとすることができる。いつも「誰から教わったの?」と訊かれるが、ソースは明かせない。いつもはぐらかしている。
カヤノキがしわがれた声でのどかに話しかける。
「今日も来たのかい。おや、連れもいるようだね。きみは一人でいることが多いから友人ができてわたしも嬉しいよ。もしかして恋人かい?」
違う違う、と慌てて否定をするがカヤノキはからかうように笑う。
そのやり取りを見ていた琢磨は不思議そうな目をしている。当たり前だろう、琢磨にはおおよそ理解できないであろう発言をして、焦っているのどかははっきり言ってしまって変人だ。
しかし琢磨は変な目で見ようとせず、現状を理解しようと必死に頭を悩ませた。
「何をしていたんだい?」
琢磨の問いかけにのどかは迷った。自分が植物と話すことができるということを告白するかどうか、それは信頼に比例する。数分ほど考えた結果、のどかは話すことに決めた。これで呆れられたらそこまでの関係だと割り切ることにした。
『植物と話しているんです』
「そうなのかい? それは素敵なことだね」
琢磨は呆れも、笑いもしなかった。ただ柔らかな笑みを浮べている。
『信じてくれるんですか?』
「きみが嘘をつく理由がないからね。ぼくを遠ざけたいならもっと酷い嘘をつくはずだし」
打ち明けるのが初めてだっただけに、のどかは安堵の息を吐く。
『正直、ホッとしました。琢磨さんは優しいんですね』
「ぼくはきみを信じただけさ。優しさは関係ない」
その優しい声にのどかの心はほだされた。心の中に琢磨という存在が大きくなっていくのを感じる。それはほのかに温かく、安らぐような感覚。生まれてから恋というものをしてこなかったのどかには、それが何なのかわからなかった。
彼の一挙手一投足に目が惹かれる。その度に胸が高鳴る。
(わたし、どうなっちゃたんだろう)
自分の変化に不安を覚える。今までになかったことだけに尚更だ。
「どうかしたのかい?」
返事を打つ手が震えて、うまく打てない。いつもより倍近い時間をかけてのどかはようやく返事を返した。
『ちょっと風邪みたいです』
「そうか、それなら今日はここまでにしようか。悪化しちゃ悪いからね」
『すいません』
「謝ることはないよ。こっちこそ体調が悪いのに付きあわせてごめんね。ぼくはこれから一人で散策しようと思う。何かいい場所はないかい?」
のどかは思いつく限りの見どころを教える。その一つ一つに相槌を打って琢磨は手を振って去っていった。
小さくなっていく背中に一抹の寂しさを感じる。
胸の高鳴りは収まったが、代わりにぎゅうっと締め付けられるような切なさを得た。
家に帰って、ベッドに横になって考えても自分がどうなっているのかわからなかった。琢磨の顔を思い浮かべるだけで胸が高鳴る。この苦しさは何だろう。
のどかは決心して、お母さんに話すことにした。自分に起きていることを全て隠さず話すと、お母さんは優しく笑った。
「それは恋ね。そうか、やっとうちののどかも恋をするようになったのね。お母さん嬉しいわ」
『恋? 恋ってあの恋?』
「あなたよく少女漫画読んでいるじゃない。あの恋よ、あの恋」
自分のおかしな状況に「恋」と名前を付けられただけで、頭の先から足の爪先まで真っ赤になる思いだった。
今まで夢だと思っていたことが現実に起こるなど、のどかは思いもしなかった。
(嘘…信じられない)
明日ちゃんと琢磨の顔を見れるだろうか。のどかはそのことばかり考えていた。
翌日、あまり眠れなかったのどかは寝ぼけ眼で寝床を後にした。いつもの時間に家を出て、いつもの場所へ向かう。琢磨もきっといるだろう。そのことを思うと頭がのぼせたように熱い。
今日は絶好の散歩日和で、日差しも適度に温かく、風も強くない。
琢磨は今日もいた。いつものように欄干に腰を掛けて、短い髪を風になびかせている。そんな何でもないはずの風景がのどかには強烈で、胸が早鐘を打つ。
(本当にわたし、好きなんだ…)
心の中で好きという気持ちが膨らんでいく。どこか優しい温かさのそれはとても苦しくて、でも居心地がよかった。
琢磨はのどかに気づき、小さく手を振った。
「おはよう、のどかちゃん。風邪はよくなったかい?」
言いたい。話したい。メールの文面じゃなくて自分の言葉で。その思いがどんどんのどかの中で膨れ上がっていく。
でも、自分には人間と話す言葉を持っていない。植物と話すようにできたらとのどかは思う。
「あ――――」
必死に声を絞り出す。必死で人間の言葉を喋ろうとする。
「頑張って、のどかちゃん」花が応援してくれる。一つじゃなく、次々と続き、のどかへのエールはうるさいほど響いた。
「あなたが、あなたが大好きです」
言えた。のどかはようやく人間の言葉を獲得した。
琢磨は面食らったように顔を硬直させ、風も止んだ。聞こえるのは畑を耕す耕運機のうるさいエンジン音だけだ。
まるで時間が止まったかのような錯覚を覚える。
少し時間を置いて、のどかの言葉を咀嚼し終えた琢磨が柔らかな笑みを浮かべた。
「ぼくも……大好きだよ。ぼくから言おうと思ってたのに先に言われちゃったなぁ」
「付き合ってもらえますか?」
「ああ、こんなぼくでよければ」
「よかった……」
安心した途端、涙が溢れてきた。温かな雫が頬を伝う。
周りから祝福の声が上がる。
「よかったね」「おめでとう」「末永くお幸せに」
それと同時にかけられる言葉は、
「さようなら」「のどかちゃんと話せてよかったよ」「頑張ってね」
という別れの言葉だ。それが何のことを指しているのか、のどかにはまったくわからなかった。
一呼吸置くと、あたりの喧騒はすっかり消え失せて、植物の声などまったくしなくなった。
そこで気付いた。自分にはもう植物と話す力がないのだと。
「どうして……?」
「どうかしたのかい?」
「植物の声が聞こえなくなったんです」
琢磨は小さく唸り、
「もしかしたら人間の言葉を得たせいかもしれないね。今までは人間の言葉が話せない代償に植物と話せた。そういう理屈かもしれない」
と自分の考えを話す。
「それってもう話せないっていうことですか?」
「きみが人間と話すことを棄てればまた話すことはあり得るかもしれない」
「そんなのイヤです。わたし、琢磨さんと話していたいです」
「じゃあぼくは責任を取らなくちゃ。のどかちゃんが植物と話せなくなった分、ぼくが補うよ」
「本当ですか?」
「ああ、本当だ。いつまでも一緒にいるよ」
琢磨がのどかを抱き寄せ、優しく口付けをした。のどかの流した涙で初めてのキスは少ししょっぱかった。
それから二人は離れることなく、ずっと寄り添うように暮らした。小さな花屋を経営し、花が他店より元気だと評判を受け、せわしない毎日を送っている。辛いときも、苦しいときも、どんなときも二人一緒で暮らしたのだった。
読了ありがとうございました。




