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キラキラ  作者: るうあ
キラキラ 本編以後の小話
9/54

たとえばの話

 魔女の眷属は、猫や鳥の姿をとることが一般的だと思われているらしい。

「ね、リプ?」

 夜、食後のことだった。

 森の魔女と呼ばれる黒髪の少女が、唐突に問うた。問われたのは、森の魔女の眷属だ。

「リプはなんでネズミの形をとってるの?」

 リプというのは愛称だ。正式な名は、リフレナスという。

「お前の師匠に聞け」

「死んだ人には聞けないでしょ」

「なら、聞くな」

 リフレナスは自分専用の小さなティーカップを手に取った。ネズミだと、手を使って食事を摂れる点だけは便利だ。

「リプ、ねえってば」

 二代目の森の魔女は、リフレナスの長い尻尾を掴んだ。

 じき十八歳になるはずだが、言動は年齢以下だ。

「リフレナスだと、何度言ったら憶えるんだ、お前は」

 この少女とは、今は亡き森の魔女に弟子入りした時からのつきあいだが、その間に、ただの一度も正式な名で呼ばれたことはない。まだ幼い時分はしかたないとおもっていたのだが、今ではこの少女が主なのだ。勝手につけた愛称で呼ぶなと、何度頼めばきいてくれるのか。

「で、なんでネズミなの?」

 人の話を聞かないところも、相変わらずだ。

「知るか」

 これは、本当だ。

 眷属の生成は、自然の精霊を魔術によって召喚し、契約を結んだ上で生き物の体内に精を宿らせるという場合が、ほとんどだ。ゆえに、召喚された精霊は、自らの意思で体を選ぶことはできない。

「でも、ネズミの姿だけじゃなくて、別の形をとることもできるんでしょう? 師匠がそんなようなことを言っていたけど」

「できるが、それは主の力による。この姿も仮の姿には違いないからな。この姿にとらわれているわけではない」

「つまり、主の魔力が強くないと変化は無理ってこと?」

「そうなるな。お前の師匠が生きていた頃は、別の姿で過ごすことも、ままあった」

「そうなの? でも、わたし見たことないよ?」

「ずいぶん昔のことだからな。お前が生まれる前の話だ」

 魔女の眷属は契約に縛られているため、寿命は契約が破られない限り、続く。

 小さなネズミなのに、自分よりうんと長生きをしているなんて……と少女は可笑しそうに言う。

「別の姿って、何になってたの? 猫? 犬?」

「いや、人間の姿だ」

「えええっ!」

「なんだ、その奇声は」

「人間になれるの、リプ? すっごい! 見てみたい!」

「…………」

 これ見よがしに、リフレナスはため息をついた。好奇心旺盛なのは悪いことではないが、必要以上の期待を持たれるのは、勘弁してほしかった。

「あ、でも、魔力足りない、わたしじゃ? でも、リプの人間の姿って、見てみたいなぁ。きっと王子も見たいって言うよ。ていうか、見せてあげたいかも!」

 この土地の領主で、国王に認知されためかけ腹の王子と、二代目の森の魔女たる少女の関係は、幼馴染みから恋人同士へ変わった。しかし、二人の間には微妙な隙間が残っていて、見ていて歯がゆいほどだ。

「……できないことは、ない」

 リフレナスは、尻尾を手繰り寄せた。何か思案する時にはこうして尻尾を抱くのがリフレナスの癖だが、本人は気づいていないようだ。

「できるってこと?」

「ああ。だが、短時間だけだ。お前の魔力が動力になるからな。無理はできない」

「へえ、そうかぁ」

 嬉しそうに、少女は瞳を輝かせる。

 リフレナスは、人間だったらあったであろう肩を「やれやれ」と落としたい気分だった。






 小鳥のさえずりと梢を渡る風の音、そして窓から射し込む朝の陽光が、いつものように少女を眠りから揺り起こす。

 寝起きはよいはずの少女だったが、今日は珍しく覚醒がしっくりとこない。

「そろそろ起きろ」

 聞き慣れた声が、近くでした。

 けれど、いつもより高い場所からその声は聞こえる。

「今日は忙しいんだろう、色々と」

「う~ん……」

 ようやく、少女は体を起こした。寝ぼけ眼は、まだ開ききっていない。腕をあげ、大きな欠伸を一つし、自分を起こしにきた眷属に朝の挨拶をしたのだが……

「おはよ、リプ…… ――って、誰っ!?」

 もっともな疑問だろうと、問われた人物は腕を組み、困惑し慌てふためいている少女を見やる。

「俺だ。人間の姿が見たかったんだろう?」

 冷静な口調で答えたその声は、確かにリフレナスだ。

 しかし目の前にいるのは、金褐色の長髪と金色の瞳が印象的な、美々しい青年だ。ネズミの時の名残は、せいぜい金褐色の髪くらいしかない。

「い、いきなりおどかさないでよ。もぉ……」

 少女は毛布に顔をうずめた。

「悪かったな。それよりさっさと支度をしろ。今日は町へ行くんじゃなかったのか?」

「そ、そうだけど、リプも一緒に行くの?」

「この姿だからな。荷物くらいなら持ってやれる。大荷物になるだろう?」

「それは、ありがたい、けど」

 今日は、王子の誕生日だ。

 王子への贈り物は手作りの料理と決めていた。今までは主に手作りケーキを贈っていたが、今年は夕食に招くことにしたのだ。

「さっさとベッドから出て着替えろ。飯は作っておいてやったから」

「ちょっ、リプッ!」

 リフレナスは毛布をはぎとろうとし、少女は慌ててそれをとめた。

「着替えるから、リプ、部屋出てってよ!」

「何故だ?」

「何故って! だってそんな……っ、おっおとこのひとの前で着替えるなんてっ」

「おとこのひと? なんだ、今さら。いつも平気で着替えてるじゃないか」

「それは、リプがネズミなわけで!」

「まぁいい。さっさと着替えてこい」

 傲慢というか、鈍感というか、そういう点はネズミの姿だろうと、人間の姿だろうと、変わらないようだ。

 深いため息をついてから、ようやく少女はベッドから降りた。

 朝から心臓に悪いったらない。

 今日は「特別な日」だというのに。

 少女は何か起こりそうな予感を、ひしひしと感じていた。



 リフレナスの作ってくれた朝食を済ませた後、二人は舘を出た。

「町の人には、眷属だってこと内緒にしてほしいって?」

「ああ」

 いちいち説明するのが面倒だから、だという。

 仏頂面ではあるが人目を惹く美しい容貌だ。町の娘達に騒がれるのは想像に易い。魔女の眷属という神秘性まで加われば、さらに好奇の目で見られることは間違いないだろう。

「……いいけど、王子には言ってもいい?」

 少女にとって、王子は今はもう「ただの幼馴染み」ではない、特別な存在だ。できるだけ嘘をついたり、隠し事をしたりはしたくない。それがたとえ些細なことでも。

「好きにしろ」

 リフレナスはそっけなく応えた。



 町へ着くと、やはりリフレナスは行きかう人々の目をひいた。

 肩より長い金褐色の髪が風になびき、リフレナスは鬱陶しげに髪をかきあげ、物憂げにため息をつく。

 人間の姿になるのは、もうずいぶんと久しぶりのことだ。体の動かし方には慣れてはきたが、やはりまだぎこちない。

 最初は遠巻きに見ていた娘達だったが、一人、また一人と近寄ってきて、小柄な魔女と長身美形の眷属は、気がつけば数人の娘達に囲まれていた。

 リフレナスはいかにも迷惑そうな顔をし、憮然としている。そんなリフレナスに直接素性を訊く度胸のある娘は一人もおらず、同行者の少女が質問攻めの的になった。

 少女はというと、巧くごまかすこともできず、浴びせられる質問にあたふたとするばかりだ。

「行くぞ。時間がなくなる」

 リフレナスは少女の腕を引っ張り、女達の群れから脱した。

「いちいち相手になるな」

「……ごめん」

「適当にあしらえ。鬱陶しい。まったく、今も昔も、女の物見高さは変わるもんじゃないな」

 心底辟易した口調のリフレナスだ。少女は小さく笑う。

「師匠とも、こうやって町に来たりしたんだ?」

「荷物持ちにな」

「鬱陶しいとか言っててもちゃんと付き合ってたんだから、リプって、なんだかんだいっても、優しいよね」

「…………」

 リフレナスは眉間の皺を深めた。

 褒められたことが照れくさいのではない。少女のこの無防備な笑顔が心配なのだ。

「さ、材料、買い集めなくちゃね!」

 無邪気というのは、往々にして、罪作りなものだ。

 まずはこの無邪気な主に、改めて自覚をさせなければ。

 リフレナスは軽く息をついた。



 女の子達の間で今話題に上がっているのは、領主である王子のことらしい。

 なんでも、王子に恋人ができたという。

「ってことなんだけど、魔女さん、知ってる?」

 立ち寄った粉屋で、跡取り娘とお喋りをしていたのだが、最新の話題に切り替わった途端、そう訊かれた。

「王子とは幼馴染みだって言ってたでしょ? なんか知ってるかなってさー」

「え……えーっと」

 少女は返事に窮した。

 それは、自分です。

 とは、なんとなく言いにくかった。別に隠す必要はないのだが、自分の口から言っていいことだとは、思えなかった。もちろん、照れくささもあってのことだ。

「ところで、そっちの男前は? 見ない顔ね? もしかして魔女さんの彼氏?」

 さっきの女の子達と同じくらいの好奇に満ちた目を向けられたが、あっけらかんとした口調はリフレナスを苛立たせなかった。粉屋の跡取り娘とは、ネズミの姿の時に何度か面識があり、人となりを知っていたから、ということもある。

「……そうだ、と言ったら?」

 リフレナスが、唐突にそう応えた。顔が、少し笑っている。

「へえ? これは初耳」

「いや、ちょっと、違うって! 全然ちがくて! これは、ええっと。知り合いっていうか、それこそ幼馴染みっていうか!」

 顔を真っ赤にして、少女は力いっぱい否定した。

「いやにムキになってるのがあやしいぞ。誰か他にちゃんといい人がいるってことかなぁ? ――おっと、いらっしゃいませ」

 ドアが開き、上部に下げてある銅のベルが鳴った。

「ちょうどいいところに」

 跡取り娘の言に、少女は今度は目を白黒させた。

 呆れたことに、店内に入ってきたのは、他ならぬ王子だったのだ。



 王子は、どうやら仕事で町へやってきたようだ。

「やあ、魔女殿。やはり君だったね」

 通りすがりに、粉屋の店内にいる少女の姿を見つけたのだが、見知らぬ男が、親しげに少女の横にいるではないか。

 そのまま通り過ぎるなど、できるはずがない。

「こちらの御仁は? 見かけない方だね? 魔女殿の知人なのかな?」

 王子は少女の名前を知っているが、二人きりの時にしか、その名は呼ばない。魔女が名を秘しているという事情もあったが、王子自身が少女の名を秘密にしたかったのだ。

「え、えーっと、ですね」

 少女は戸惑った。リフレナスだと知らせたかったが、粉屋の跡取り娘の手前正体を明かすわけにはいかなかった。リフレナスと王子とを忙しなく見やって、言葉を濁らせる。

「いやぁ、王子、なんでも魔女さんの彼氏らしいですよ~」

 余計な口を挟んだのは、跡取り娘だった。どうやら違うらしいとわかっているのに、少女をからかいたかったようだ。まさか、少女がこれほど青ざめるとは思わずに。

「…………」

 王子は眉根を僅かに寄せた。

 冷や汗をかいている少女の横で、リフレナスは不敵に笑う。そして、徐に少女の肩を抱き寄せ、のたまった。

「そう。深い仲さ、俺と彼女は、ね」

「……っ!」

 少女は口をぱくぱくさせるのが、精一杯だった。

「彼女にとって、俺は特別なのさ。もう、ずっとな」

 挑戦的なリフレナスの口ぶりと、表情だ。

「…………」

 王子は一度瞼を閉じたが、開いたと同時に少女の腕を掴み、思いきり引き寄せた。

「君が何者かは知らないが、魔女殿は、私の恋人だ」

 少女は青ざめていたかと思うと、次の瞬間には真っ赤になった。否定するような野暮をしなかったのは、口を挟める余裕が、単に少女になかっただけだ。

「恋人、ね」

 皮肉げに、リフレナスが繰り返した。

「本人がどう思っているか、あやしいもんだな。……名を、知らされただけだろう?」

「私は魔女殿の心を疑ったりはしない」

「たいした自信だと言いたいところだが、それは不安の表れってやつだろうさ」

「……君は、ずいぶんと失敬だな」

 不穏な空気が店内に流れ、話題をふった店の跡取り娘もさすがにばつの悪そうな、気まずい顔をしている。

「とにっ、とにかくっ」

 店内で言い争うのは迷惑になるから、外に出よう。少女は慌てふためきながら、まっとうな提案をした。

 粉屋の跡取り娘に、王子の恋人が自分であることが知られてしまったことなど、もはやどうでもよかった。

 一刻も早く、王子の誤解を解かなくては!

 力を振り絞って、少女は、王子とリフレナスを店外に引っ張り出した。




 勢いづけて、少女は金褐色の長髪の青年が、実は眷属のリフレナスであることを王子に説明した。

 その間、リフレナスは傲慢とすら言える顔で少女と王子とを見やっていた。

「リプ、王子にちゃんと謝ってよねっ」

「俺が? 何故?」

「何故って、つまらない冗談言ったことをでしょ!」

「冗談など言っていない。本当のことだ。……王子のことにしても、お前はその場の雰囲気に流されやすいからな」

「何言って……っ」

 やっと王子の腕から逃れたと思ったのに、今度はまたリフレナスに腕を引き寄せられてしまった。

「ちょっと、リプ!」

 リフレナスは主の頬に手をかけた。

「人間の姿でいるのも、いいものだな。こうして触れられるのは、新鮮だ」

「リッ……」

 唇が、少女の頬に近づく。

 それを、王子が阻止しようと手を伸ばしたのだが、それより早く少女はリフレナスを突き飛ばした。

「いい加減にしないと本気で怒るからねっ、リプッ!」

 雷光のような激しさと、美しさだ。

 頬を上気させ、怒りに声を震わせる主を、リフレナスは少し伏せた瞳で見つめる。

「わたしは王子が好きよ! それをさも嘘をついたみたいに言わないで!」

 感情表現が豊かな少女は、怒りにも素直だ。少女の心根が真っ直ぐなことを、リフレナスは知っている。

「わたしの気持ちを、リプはわかってくれてるって思っ……」

 突然、眩暈が少女をおそった。喉がつまり、言葉が続かない。目の前が歪み、体が傾いた。

「……っ!」

 とっさに王子が少女の体を支えたおかげで、その場に倒れこまずにはすんだが、意識が次第に遠ざかっていくのを少女は感じていた。

 ……リフレナスの声が、聞こえた。かすかな声だった。

 たった一言だったが、いつものリフレナスの、ぶっきらぼうだが優しい声だった。

「すまなかったな」

 口元に笑みを浮かべているような、そんな気がした。




 気を失った少女の額に、リフレナスは優しく触れる。

「限界がきたようだな」

 リフレナスは片膝をついていた足を伸ばした。

「リフレナス」

 王子はゆっくりと少女を抱き上げた。

「大丈夫なのか、君の主は?」

「心配ない。魔力の消耗が激しく、少しばかり疲れているだけだ。じき、目を覚ます。 ――さて、王子」

 リフレナスは軽く頭を下げた。

「非礼は詫びておく。試すようなことは、あまりしたくなかったんだが」

 リフレナスの律儀な一面を見たようで、王子はため息をつくより先に、苦笑をこぼした。

「俺は先に戻る。ゆっくりと休ませてから、舘に来てくれ」

「わかった、そうしよう。……リフレナス」

「礼は、まだ先にとっておくべきだな」

 魔女の眷属であるリフレナスは、主の想いを何より優先する。それが結果的に、王子の協力者としての立場をとらせているのだ。

 王子の腕の中で、ほんの数秒前までは苦しげに眉を寄せていた少女は、今では静かな寝息をたてている。

「主は、もう承知しているとは思うが、とてつもなく鈍感だからな」

「……たしかに」

「苦労をかける。その点も一応は謝罪しておこうか」

 王子は小さく笑い、頷いた。

 リフレナスは、二代目の森の魔女の眷属ではあるが、それよりもどうやら保護者として付き添っていたようだ。少女を奪ってしまったのだな。いや、リフレナスは手を放したのだろう。もはや、一人前の魔女として巣立てるように。

「じゃ、ま、後は頑張ってくれ」

 王子の返事を待たず、リフレナスは踵を返すと、ひらひらと片手を振って別れの挨拶を済ませ、歩き出した。






 少女は当然、不機嫌なままだった。

 王子の腕に抱かれて眠っていた時の安らいだ顔はとうに消え、しかめっ面で唇を尖らせている。

「少しからかっただけだよ、リフレナスは。だからもう、機嫌を直して」

「でも! 王子、ひどいこと言われたんですよ?」

「そうかもしれないけど、嬉しくもあったよ」

「は?」

 憮然としたまま、少女は聞き返す。王子だって、リプの態度に腹を立てていたではないか、と。

「まあ、真意を知らなかったからね」

「?」

「それよりも」

 少女の黒髪を手に取る。これは、王子の癖だ。少女を愛しみ、気障な台詞を吐く時の。

「君が、私を好きだと言ってくれたろう? とても嬉しかったよ」

「……っ」

 王子の甘い囁きをさらっと受け流すなど、少女にはまだまだ難題だ。

 紅葉した落葉樹に負けないくらい、少女の頬は赤い。王子の腕の中で目を覚ました時も、やはり同じように赤面していた。

「もう、体は大丈夫かな?」

「う、うん、大丈夫みたい。もうだるくないし、平気」

 休んだおかげで、調子はすっかり戻った。王子の腕の中ですやすや眠っていたなどとは、思いもよらなかったが。

「かえって迷惑をかけちゃったね、王子に」

「そうでもないよ。これも役得というものだ」

「……いや、えっと」

 少女は熱いままの頬を、指先で掻いた。

「リプのね、人間の姿を見てみたくって。それで、王子にも見せたいなって思ったの」

 魔力の消費量が思っていたより高かったことや、リプの笑えない冗談は、予想外だった。そのために王子に迷惑をかけてしまった。今日は、王子の誕生日だというのに。少女は落胆し、大きくため息をついた。

 天然の樹木という門をくぐり、王子の屋敷に比べたら質素このうえない古びた舘に到着したのは、夕日の眩しさが和らいだ頃だった。

 舘の内外のランプに、火が灯っている。そして温かく甘い香りが、ほのかに漂ってくる。

「これは?」

 ドアに挟まっていた小さな紙切れに気がついたのは、王子だった。

「リフレナスの手紙のようだ」

「リプの?」

 もしかして家出? と疑った少女を王子は笑う。思ったことをすぐに口にも顔にも出してしまう少女が、可笑しかった。

 紙には、短い文章がつづられてあった。

「すまなかった 飯を用意しておいた 今日は出かける 明日には戻る」

 見事な箇条書きで、固有名詞の一つもない。

 でも、どうやら反省はしているらしいし、家出をしたわけでもなさそうだ。

 少女は安堵したが、「飯を用意しておいた」の文に思わず情けない声をあげた。

 ほとんど駆け足になって舘の食堂へ向かった。

「あぁっ、もうっ、リプってばっ!」

 テーブルには、豪華な手料理が何点も並んでいる。調理場にも、まだ皿に盛っていないスープやデザートが用意してある。

「これはすごいね」

「もう、リプってばひどいよ! 今日はわたしが腕によりをかけようと思ってたのに~っ」

 リフレナスもそれを承知していたはずなのに、どうしてこうも完璧な夕食を用意してしまうのか。ケーキすら、これではもう作れない。

 うな垂れた少女の頭を、王子は優しく撫でつけた。

「そうがっかりしないで。せっかくの料理なのだから、ありがたくいただこう」

「…………」

「君の手料理はいつでも食べさせてもらえるから」

「でも」

 やっぱり今日は自分の作った料理を、王子に食べてもらいたかった。

 王子に促され席につき、リフレナスの絶品の手料理を食べても、少女は落とした気分を浮上させなかった。

 そんな少女を、優しく、愛しげに王子は見つめている。

 ふと、自分を見つめる王子の視線に気がつき、少女は顔を赤くしながら、首を傾げる。何かと問うても、王子は答えない。ただ優麗な微笑を浮かべるだけだ。

 嫌なわけではないが、居心地が悪い。心臓に悪い。

 王子の甘やかな雰囲気に、少女はまだ不慣れだった。



 せめて食後のお茶くらいは、とっておきのお茶を淹れよう。

 息巻いてお茶を淹れる少女を見ては、王子は愉快そうに笑う。

 誕生日に、君とこうしていられることだけで十分に嬉しいと言っても、少女は機嫌をなかなか直さない。

 照れ隠しもあって、膨れっ面を笑顔に変えてはくれなかった。

 けれど、少女はすぐに、王子が待っていた言葉を投げかけてきた。

「王子、何かほしいものがあったら、言ってください!」

 王子は、少女に気づかれない程度の失笑をこぼした。

 リフレナスのしかけた罠に、少女はまんまとかかった。もちろん、当人はそれに気がつかない。

 敵わないな、と呟いた。リフレナスにもだが、少女に対しても、そう思う。

「せっかくの誕生日なのに、何も用意できなかったなんて、すっごく口惜しいもの! 王子って、あまり物をほしがらなさそうだけど、何かあったら、教えてください」

 頑固だね、と王子は笑う。少女は口ごもる。何か口の中で言っているようだったが、それを聞きたいと言ったら、きっと怒るのだろう。

「物とかじゃなくても、わたしでできることとかあったら、それでもいいです」

 王子は少女の手を取り、引き寄せた。

 少女は座ったままの王子を、見つめる。自分より低い位置に顔があって、それだけでも照れくさい。

 王子の亜麻色の瞳に、今、自分だけが映っている。

「ほしいもの、あるよ」

「え、ほんとですか?」

「うん」

「何でも言ってください! わたしにできることなら、なんでもします。なんですか?」

「…………」

 そういうことを軽々しく口にするものではないよ。そう言いたかったが、それは後回しだ。

 王子はふっと笑い、そして―――

「キラ」

 立ち上がり、少女を抱きしめた。耳元で、甘く囁く。

「……っ!」

「キラ」

 もう一度、少女の名を繰り返した。

 まるで、恋の呪文のように。

「キラがほしい」

 ダメとは言わせない。王子の、少女を抱きしめる腕に力がこもる。軽く抵抗していたキラだったが、やがて、その目を閉じた。

 王子は、閉じられたキラの瞼の上に、口づけを落とした。





 リフレナスは、主に秘密の隠れ家でまどろんでいた。

 たとえば、いつの日か、少女が大人になり、母になった時も、きっと自分はまだ魔女の眷属で、もしかしたら人間の姿になれと命じられるかもしれない。「リプ、子守りお願いね~」と、あの主なら言いかねない。

「まあ、それもいいさ」

 リフレナスは苦笑まじりに、呟く。

 契約が続く限り、主を守っていくのが、魔女の眷属だ。

 リフレナスは目を閉じた。口元には、笑みが残っている。

 明日、主がどんな顔をしているかが、楽しみだ。

 王子は満足げに感謝の言葉を言うだろうが、主はおそらく「リプってば、ひどいよ」と責めるだろう。

 お膳たてをした甲斐があったというものだ。


 人間の姿になって、少女の華奢な肩を抱き寄せたことにささやかな満足感を得ていたことは、内緒だ。

 今はもうネズミの姿に戻っているリフレナスは、尻尾を巻き、丸まって眠る。

 見る夢は、きっと近い未来のこと。


 そして、キラの笑顔が、そこにあるだろう――……




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