透き間風
長い黒髪を指に絡め、誘うように撫ぜては時に軽く引っ張ってみせる。その小さな動きに、髪の主は戸惑ったり恥じらったりちょっと怒ってみたりと多彩な反応を示し、髪を絡め取っている青年の心を和ませていた。
青年は長椅子にゆったりと腰かけ、横に恋人を座らせている。半ば強引に座らせた。
お茶と焼き菓子を持ってきただけなのに、いったいどうして隣り合って座るはめになってしまったのかと、青年の恋人である黒髪の少女は困った顔をしていた。一方の青年は茶と菓子を堪能しながら、少女の表情を窺っては、口元を綻ばせている。
亜麻色の髪と瞳を持つ青年は、まだ二十をやっと越えたばかりの年齢だが、一領地を統治する立場にある。名をセレンという。
セレンは国王の庶子、認知された「王子」だ。王位継承権は放棄したが、代わりに領主という地位を与えられ、その仕事を誠実にこなしている。
執務室にある楢材の机の上には未処理の書簡が山積みになっている。今朝、セレンの補佐役であるハディスが積んだものだ。内容を確認し、承認の印を入れればいいだけのものがほとんどだが、一読するだけでも時間がかかる。セレンの仕事をより円滑に進めるため、ハディスもまた、今頃書簡の山と格闘しているはずだ。春先はどうしても執政に関わる雑務が多くなる。セレンはハディスともども、多忙な日々を過ごしていた。
仕事に追われているセレンだが、今は小休止中だ。ゆるりと寛いでいる。
「あのぅ、王子……?」
「うん?」
横に座る少女に声をかけられ、セレンはやや姿勢を直した。少女の髪を指に絡ませていたのだがそれをほどき、少女の顔を、小首を傾げて覗きこんだ。
少し開けられた窓からひやりとした風が忍びこんでくる。春まだき、午後の陽射しは暖かいが、風はまだ冷たい。透き間風は室温を下げ、温もりを求めさせる。
寒さからではなく、少女は身を縮こまらせている。気恥ずかしさに体を緊張させているようだ。
「……あのですね……」
少女は頬にほんのりとやわらかい紅の色がさしている。
セレンが優麗な笑顔を向けると、少女は大抵こうして顔を赤くし、時には口ごもってしまう。
セレンの繊細な美貌は春の陽光よりも眩しい。
髪の先から爪先まで、セレンは美神の恩恵を余すところなく受けている。秀麗な相貌と穏やかな口調、そして優雅な物腰を天稟として兼ね備えているセレンは、領地内の若い娘……だけでなく、幅広い年齢層の女性たちからの憧憬の的になっていた。黄色い声で大っぴらに騒がれることはないが、眩しいほどの美貌は、女性達の陶然としたため息を誘っている。
セレンの精美な麗容は年を経るごとにさらに熟していくようで、見慣れることもなければ、見飽きることもない。
セレンの美貌と甘やかな微笑を、幼馴染みとして過ごしてきた頃は、さほど意識していなかった。綺麗だなと思う程度の意識の持ち方で、胸をときめかせるには至らなかった。しかし今は違う。意識しすぎて、息すら苦しくなるくらいだ。
セレンの顔を上目遣いに見、少女はどぎまぎしながら、言葉を紡ぐ。
「休憩するのはいいんですけど、どうしてわたしも一緒に休憩しなくちゃいけないんですか? わたしは、そりゃできることは少ないですけど、何か手伝えることがないかなと思って来たんです。だから王子が休憩している間に、何か、できることをしたいんです」
森の魔女と呼ばれ、事実、魔力を有している少女は、魔法薬作りの名人だ。セレンや領地の人達から薬の調合依頼を受け、さまざまな薬を作っては、分け与えている。無償の時もあれば、多少なり対価を受け取ることもある。
少女の調合する魔法薬の効き目の高さには定評がある。先代の森の魔女がそうだったように、少女の住まう森の舘には、遠方からの依頼者もあるほどだ。
当然、薬作りに使う以外の魔法もそれなりに使える。とはいえ、実生活に役立つような魔法はあまり使えない。結局、魔女としての力を持ってセレンを手伝えるようなことは皆無といってよく、しかも領主の仕事を手伝えるほど、少女は政治上の事務に詳しくない。
少女にできることと言ったら、炊事洗濯といった家事くらいだ。しかし、セレンの屋敷には少ないながらも使用人がいるのだから、家事全般を手伝うといってもすることは限られてくる。せいぜいセレンのために特製の薬草茶や香茶を淹れるくらいだ。
少女ができることには限りがある。それは分かっているのだが、仕事に追われ、疲労をため込んでいるセレンのために、「何かしてあげられることはないか」と、少女は意気込んでセレンの屋敷へやってきたのだ。
しかし今、少女はセレンの横に何をするでもなく一緒に座り、ともに茶を飲んでいるというありさまだ。セレンが望んだこととはいえ、少女はどうにも釈然としない。
むぅっと口をとがらせ、拗ねている少女を見、セレンはくすりと小さく笑った。
「王子を手伝いたいんですっ!」とむきになって言う少女が可笑しくて、いとおしい。
少女は、昔からそうだった。
出会った頃、少女はまだ十歳にも満たない幼子だったが、それでも先代の魔女にくっついてセレンの屋敷内を忙しなく動き回っていた。今は亡きセレンの母のお喋りの相手をしたり、庭に出て一緒に花を植えたりと、少女は楽しげに笑いながら、先代の森の魔女やセレンの母のすることを手伝っていた。
一つ所にじっとしていられない性分であるらしい。それに世話焼きでもある。あるいはそれは、寂しさの裏返しなのかもしれない。
セレンは少女の気持ちを無碍に断りたくなかった。だからこうして少女の好意に甘え、「傍にいてほしい」と我儘を言っている。
ただ傍にいてくれるだけでセレンとしては大いに役立っているのだが、少女は「それだけじゃぁ……」と不満げな顔をする。
「ああ、そうだ」
ふと思いついて、セレンは何かをしたがっている少女の顔を改めて覗きこんだ。
「頼みたいことがあったのだけど、聞いてもらえるかな?」
「はい、なんでしょう!?」
少女はぱっと顔を明るくした。なんとも素直な少女の反応に、セレンは微笑んだ。
「少し前にシリンが屋敷に遊びに来てくれた時のことなんだが」
「シリンさん?」
「そう」
シリンは、セレンの異母姉のことだ。セレン同様国王の庶子で、現在セレンの治める領地の隣の領地に住んでいる。セレンの屋敷に遊びに来ることもあるし、逆にセレンがシリンを訪ねることもある。事情が事情だから、そう頻々とは訪ね合えないのだが、数多くいる異母の兄弟の中で、セレンが遠慮なしに会える血縁者はシリンくらいのものだ。良き相談相手となっている。
少女もシリンとは面識がある。……あるどころではない、というべきだろうか。初めてシリンを見た時、セレンの見合い相手かはたまた恋人かと疑った人物なのだ。シリンが既婚者であると知ったのは、それからしばらく経ってのことだった。
「この屋敷に泊まった時に使った石鹸と洗髪剤をいたく気に入ってね。できれば譲ってほしいと言っているんだ。用意できないかな?」
「すぐにってわけにはいきませんけど、用意します。けど、あの……、使ったのって、王子にあげた、あの石鹸と洗髪剤ですか?」
「うん、そうだよ? 君が作ってくれたものだと説明して、少しだけ分けてあげたんだが、何か不都合が?」
「えっと、その……不都合ってことはないんですけど」
少女は顔を俯かせ、言いにくそうにしている。両の指を重ね、落ち着かなげに動かしていた。
長い黒髪が少女の華奢な肩を滑り落ち、長椅子に流れている。少女の横顔を黒髪が隠しているが、ほんのりと赤くなっている頬を細い髪の隙間から覗くことができた。
「魔女殿?」
セレンは手を伸ばし、少女の長い黒髪を耳の後ろで抑えた。自然、セレンの手が少女の頬に触れる。少女はびくりと肩を上げ、驚き見開かれた目をセレンに向けた。
「なっ、なんですか?」
「それは私の台詞だね。どうかしたのかな? 無理を強いるつもりはないから、石鹸を作るのが難しいなら……」
「石鹸と洗髪剤は、日にちはちょっとかかりますけど、作れます。えっと、だからそういうことじゃなくて、その、王子、えぇっと……」
少女の頬がますます熱くなっていく。セレンの手が触れているからだけではないだろう。
「そういうことではなくて?」
セレンは穏やかに微笑み、少女を促した。
「……えっと、ですね」
少女は恥ずかしそうに話の先を続けた。
「あの石鹸と洗髪剤は、王子のために作ったものなんです。それは、わたしが使ってるものと同じで。その、つまり、わたしとお揃いのものなんです。お揃いの香りなんです」
少女は黒曜石の艶めきをもった瞳をセレンに向ける。一途で、純真なまなざしだ。セレンの心をとらえて離さない。
「だから、王子以外の人には、できれば使ってほしくないな、なんて。……いっ、いえそのっ、それはわたしの勝手な我儘なんですけど」
少女は「言っちゃった!」とばかりに、セレンの触れていない方の頬に手を押しあてた。赤くなっている頬を隠そうとしているのかもしれないが、こんな近距離にセレンがいては、隠そうとすること自体が無駄なことだ。
セレンは艶麗な微笑をますます深め、愛しげに少女を見つめる。
「えっと、なので、シリンさんには、シリンさん専用の石鹸を作ります。あ、それから、このお屋敷で働くみんな用に、このお屋敷用の石鹸も作って持ってきます」
「私のものとは別に」
「そう、です。王子のは、特別だから」
言うなり少女は立ちあがった。今すぐ森の舘に戻って、石鹸作りを始めます、と。
「待って」
当然のごとく、セレンは少女を引きとめる。
こんな時、突然姿を消したり空を飛んで逃げたりする魔法を使いこなせない「森の魔女」に、セレンは安堵する。魔女の手を掴み、引き寄せるだけで、いともたやすくつかまえられる。
もっとも、少女に逃げる気はなく、ゆえに魔法も使わない。恥ずかしがりはするが、セレンを本気で拒むことはない。
「そう急いで帰ることはないだろう? つれないね、魔女殿は」
「で、でも、王子もそろそろ仕事に戻った方がいいと思うんですけどっ! それに、えっと、お茶! すっかり冷めちゃったから、淹れなおしてきます」
立ち上がったのもつかの間、セレンに手を掴まれ、体を引き寄せられて、腰を落としてしまった。少女はさっきとは別の場所に座っている。セレンの膝の上だ。
座り心地は決していいものではない。しかも恥ずかしい。
少女は赤い顔をさらに赤くして、わたわたと慌てている。
「王子ってば! もぅっ!」
「あともう少し。もう少しだけ、こうしてお揃いの香りを抱きしめて、疲れを癒したいのだが?」
「もぅ……っ」
セレンは少女の黒髪に顔をうずめ、目を閉じた。
陽だまりの、温かな芳香がセレンの鼻腔を心地よくくすぐってくる。セレンと同じ洗髪剤を使っていると言うが、違うように感じる。それはきっと、少女自身がまとう香りなのだろう。
膝の上に座らされ、あげく抱きしめられているこの状態に、少女は頭のてっぺんから湯気でも立ちそうなくらい体中を熱らせている。だが、
「疲れを癒すのを手伝ってほしい」
と言われては、逆らえない。
「しょうがないなぁ、もうっ」
少女はセレンの背中に腕を回し、そこで軽く両手を組んだ。それからふっと息をつき、小声で呪文を唱えた。不思議な音律の、短い呪文だった。
少女の掌から白い光が発せられた。キラキラという音が聞こえてきそうな、明るく優しい光だ。それが弧を描いて、セレンと少女の体を包み込んだ。僅かに開いている窓から入りこんだ透き間風がその光に呑まれ、サラサラと光って上昇していく。清澄な空気と、温かな光が室内全体に広がり、やがて静かに消えていった。
「ああ……」
セレンは少女の体を少し離して、蕩心したような嘆息をこぼした。背後に回されていた少女の両手は、魔法が消えると同時にセレンの肩の上に移動していた。
「疲れ、ちょっとはとれましたか?」
どうやら、疲労回復の魔法だったようだ。問われ、セレンは微笑んで答えた。
「とても美しい、素敵な魔法だね。よく効いたよ」
「よかった!」
少女ははにかんだ微笑みを返した。
セレンは目を細め、腕の中にいる森の魔女を見つめる。
「今一度、疲労回復に絶大な効果を持つ魔法を請うてもいいかな? キラ、君の……――」
セレンは愛しい恋人の名を口にする。それがセレンの持つ魔法の“呪文”だ。少女の心をとらえるに十分な効果を持つ、特別な名という呪文。
少女は「キラ」と名を囁かれ、息を飲んだ。大きな瞳をさらに大きく瞬かせて、セレンを見つめ返す。
「キラ、どうか君の唇を」
「……っ!」
透き間風の入り込む余地のないほどに、セレンは己の唇をキラのそれへ押し当てる。呪文を紡ぐ舌を絡め取り、息すら奪う。
思う存分キラの“魔法”を堪能した後、セレンは律儀に礼を言う。だがいつも一言多い。キラの初な反応を愉しむのは、セレンの悪い癖と言えるかもしれない。
「ありがとう、キラ。この次はぜひ、君からお願いしたいものだが」
「もうっ、セレンってば!」
少女は照れくさがって、セレンの胸をぽかぽかと叩いて文句をつけるのだが、それすらもセレンにとっては心地好い。
どうやら蕩けるように甘い雰囲気に包まれている二人の間に、冷たい隙間風が吹きつけることはないようだ。
セレンは疲れを癒し、キラは疲れを得つつも、ほっと安堵している。
それはいつもと変わらない、他愛無く優しい、麗らかな春の日の出来事。