優しさのカタチ
魔女には内緒の王子の過去話。魔女×王子好きには向かない話かもしれません。
ふとめぐり逢い、交差し、別れる。
短い出逢い。けれど時にそれが、互いの心に深く残る出逢いになることもある。
そして、ともに生きることだけが、優しさの形ではなくて――
それは、別離に相応しい清しい風の吹く、秋の宵。
薄暗く狭い部屋に、女と男がいる。
ランプの灯りは温みを持つが、闇の深さを際立たせもする。
一つの影が、動いた。
ベッドから降りた女のものだった。
女は消えてしまっていた燭台のロウソク全てに火をつけた。
これから眠りにつくというのならば灯りは必要ないが、そういうわけにもいかない。
女は欠伸と背伸びを同時にし、それから床に落ちていた衣服を取り、はおった。
初秋、さすがに夜は冷える。身体はまだ少し火照っているが、熱はすぐに去ってしまうだろう。
肩にかけた上等な白絹のシャツは、うつ伏せて寝入っている男のものだ。
女がそうだったように、男も一糸まとわぬ姿だ。
普段男が包まっているものとは雲泥の差の肌触りであろう掛け布団を、肩までかけてやった。安らかな寝息をたてている男の、やや癖のある亜麻色の髪は、少し汗で濡れているようだった。
女は寝乱れた赤茶けた髪を手櫛で適当に整えると、男が持ってきた果実酒の瓶を掴み、椅子に腰かけた。
瓶にそのまま口をつけようとし、やめた。グラスを取り、そこになみなみと注ぎ、そして一息に飲み干す。女が普段好んで飲んでいる酒とは、味も値段も違う。高級そうな香りがたち、美味いが、慣れない味覚にかえって悪酔いしそうだ。
二杯目をグラスに注いでいると、背後から声がかかった。
「眠れない?」
振り返ると、男は横たわったまま、頬杖をついてこちらを見ている。
ぞくりと鳥肌がたつほど、艶っぽく美しい。
白珠の肌、細くしなやかな亜麻色の髪、柳眉の下の双眸は、甘やかな色を湛える明るい灰黄色。
一見華奢に見えるが、鍛えられた張りのある体躯は、やはり女とは違う硬さがある。
見慣れたはずの美貌だが、不意をつかれるとやはり動悸がおこる。……この男は、おそらくはなんの意図もなく、作戦でもなく、こうした不意打ちをかけるのが得意のようだ。
天然め。
女は舌打ちをなんとか堪えて、なるべく淡々とした口ぶりで答えた。
「眠れないわけじゃないよ。けど、今夜で最後だろ。これでもちょっとは感傷的になってるんだけどね? あんたも、飲むかい?」
グラスを差し出すと、男は上半身を起こした。
「もらうよ」
そしてグラスを受け取り、聞き返した。
「今夜が、最後?」
「だろ?」
「……そうだね」
男は否定しない。
最後とは、二人の逢瀬が今夜限りということだ。
女は言葉を続けた。
「頑張りなよね。あたしとのことが少しでも役に立ちゃいいけど」
「イリーナ」
「あのねぇ、そういう顔はなし。というか、するもんじゃないよ。そういう切なそうな色っぽい顔は、本命限定にしなって言ってるだろ?」
イリーナと呼ばれた女は、男を叱りつけた。
「……そう言われても、自分ではわからないんだけどね」
「ああもう、あんたは本当に天然だね!」
イリーナは赤茶けた髪をくしゃくしゃと掻く。せっかく整えたというのに、癖の強い猫っ毛はまた乱れて、あちこち毛先がはねあがっている。
「セレン! 気障台詞と甘やか雰囲気はもうちょっと自主規制しな!」
「…………自主規制?」
男は小さく笑う。叱られているという自覚がまったくない。
「あんたは誰彼構わずなところがあるからね。優しいのはあんたのいいところだけど、相手は特定しなよ?」
「イリーナには構わないだろう?」
「ばか」
初めて出逢った時から、この男はまるで変わらない。
若さに不釣合いな沈着ぶりと、無自覚に発する甘い台詞。
自分より五つも年下の男に、いいようにからかわれているようで、口惜しいやら照れくさいやら、その度にこうして叱りつけるのだ。
「気障台詞は、惚れてる魔女にだけ言え」、と。
狭い国土しか持たない小国に見合った王都は、それなりに栄えていて「都」として遜色はない。居住地区も広く、教育施設等も整えられている。王城へと続く大通りには、様々な店が軒を列ね、賑わいを見せている。
賑わう表通りがあれば、やはり「裏」の道もある。そしてその裏通りにも店は立ち並び、日が落ちる頃に賑わいだす。裏通りに点在する店のほとんどは、夜になってから看板をあげる。治安は少々落ちるが、やはり立派に栄えていた。
妓館もむろん何件かある。飲み屋の上の階がそのまま妓館に続いているという構えの店が多く、男達はこう口にする。
「あの店の酒は、質がいい上に種類も豊富だ」
酒と女は同義語だった。
酒の種類の豊富さを売りにしている店もあれば、質の高さを誇っている店もある。双方そろっている店はめったにないが、『青猫亭』の評判は上々だった。
「この店は、なかなかの美酒がそろっている。極上の酒に出逢えるさ」
男は陽気に笑い、連れの若者にそう言った。
亜麻色の髪の若者は、不器用な笑みを返す。
男の二人連れが行く先は、飲み屋と妓館だと、大抵相場は決まっている。
だがどうやら、二人のうち若い方の男は裏通りの店へ来るのは、初めてらしい。
若者は所在なげに辺りを見回している。
行き交う人々が自分に向ける好奇に満ちた視線は若干不愉快だったが、してみれば自分もそうした目をしているに違いないのだと、平静を装っている。
「せっかくハディスの目を盗んで来たんだ。せいぜい楽しもうや」
亜麻色の髪の若者を半ば強引に連れ出したのは、王都で騎士職に就いている二十代半ばの青年で、若者とは古馴染みの間柄だ。名をカイヤといい、血を溶かし込んだかのような赤毛がことに目を惹く。若者と身長はさほどかわらないが、一回りは違うであろう筋肉質のよく鍛えられた体躯は、大熊のような印象がある。
一方、均整のとれた痩身の若者の名はセレンといい、ようやく十八になったばかりだ。だがその若さで、辺境の地の領主という地位にある。現国王の実子であるがゆえに、過分な地位を与えられた。ただし、正妃の子ではなく、めかけ腹の王子の一人だ。
セレンは自ら王位継承権を放棄したが、余計な疑惑を周囲に抱かせないようさらに配慮したのは、父王だった。セレンに辺境の領地を与えたのは、宮廷内の争いごとからセレンを遠ざけるためだった。
カイヤはこの若者の身分を知っている。
知ってはいるが、「それがどうした」とカイヤは豪胆に笑い、年若い王子を友人の一人にちゃっかりと加えてしまったのだ。
セレンはカイヤを兄のように思い、何かと世話を焼いてもらっていると感謝している。カイヤからは、様々なことを教えられた。だから今夜も、誘いに乗ったのだ。……男としての誘いに。
どうやらカイヤは『青猫亭』の常連らしい。店主は上客の来訪を陽気な声で迎えた。
まずは下の階で酒と会話を堪能し、夜も更けた頃になって、カイヤは階を上がった。当然のごとく、セレンも連れて行く。
こうして、セレンは妓館の戸口をくぐった。そして、イリーナと出逢うことになったのだ。
妓館で働く女達は、同国出身の者ばかりではない。南海国出身の者もいれば、北山国出身の者もいて、国籍不明の者もいる。が、『青猫亭』にいる女達の大半は、同国の辺境が出身地だ。
イリーナもまた、同国の辺境地の出だった。
「イリーナ、ふるさとへ、帰りたい?」
ベッドから出ず、セレンが訊く。
イリーナは空になったグラスに再び酒を注ぎ、そして聞き返した。
「なんだい、やぶからぼうに?」
「物思いに耽っている風だったから、ふるさとのことでも思いだしているのかと思って。違ったかな?」
「違ったね。思い出に耽ってはいたけどさ」
「何の思い出?」
問われて、イリーナは悪戯っぽく笑って、答えた。
笑うと両頬にえくぼができ、ふっくらとした顔はさらに人好きのする子供っぽい表情になる。
太りすぎでも痩せすぎでもない。ふくよかといえるかもしれないが、だぶつきのない締まった体型で、肌の滑らかさ柔らかさを、セレンはよく知っていた。
「セレンが初めてこの店に来た時のことさ」
それは、二年ほど前のこと。
十八歳になったばかりだという、いかにも育ちのよさそうな、お坊ちゃん然とした若者と引き合わされたのは。
おそらくは「こんな場所」に来たのは初めてだろうに、侮蔑した風でもなく、かといって好奇に満ちた風でもなかった。
「訊こうと思ってたんだけどさ、なんであたしを指名したんだい? 別に卑下するつもりはないけど、あたしよりもっと似た娘がいたろ、黒髪のさ」
「…………」
セレンは小首を傾げ、答えた。
「イリーナがよかったから。それだけだよ」
「…………」
イリーナは口元を歪ませた。ため息がついついこぼれる。
機嫌をとろうとか、世辞だとか、そんなことはまったく考えていないに違いない。悪気のない、本音なのだ。だが、下手をすれば相手をその気にさせてしまう台詞だ。それを自覚しろと口を酸っぱくして言っているのに。
イリーナの不機嫌顔を笑いながら、セレンはぽつりと付け足した。
「似ている娘など、必要ないからね」
それこそが、本心だった。
セレンの身分を知ったのは、三度目か、あるいは四度目の逢瀬の時だったか。
セレンは『青猫亭』の馴染み客となったが、イリーナ以外を指名することはなかった。
そして、イリーナにだけ素性を明かした。
辺境の地の領主であるセレンは、ひと月かふた月に一度、王都に赴いていた。国王陛下への謁見が目的だったが、さらにイリーナに会う事も目的の一つに加えられたようだ。
「国王陛下に会いに来て、ついでにあたしにも会いにってのはねー」
複雑な気分で笑ったイリーナだった。
今までも、貴族や商家の子息などの相手はしたことがあったが、「王子」の相手はさすがに初めてだった。
お忍びでやってくる王子もいるらしい、という噂は妓館にはつきものだ。むろんそれはあくまでも噂だ。事実かどうかなど、確かめる術もない。
だいたい、王子なんて雲の上の人物で、顔を拝む機会など皆無だ。だからたとえ王子と名乗る者が来たとしても、それが本物かはわからない。逆に言えば、王子を騙ることもできるのだから。
それでもセレンを王子だと信じたのは、セレンが持つ独特の雰囲気からだった。
なるほど、本物の王族というものは、かくも気高く美しいものなのか。
イリーナは驚きとともにいたく感心し、そのくせ身分を知る以前と変わらぬ態度を、セレンにとっていた。
「イリーナは、気にならない? 私の身分のこと」
セレンにそう訊かれ、イリーナはおおらかに笑って答えた。
「身分? そんなもの関係ないさ。ここにいるのは、ただの男と女。そうだろ?」
こういう点を、セレンは好いていた。そしてまた、そうした女であることを、一目で見抜いていたのだ。
店の誰にもセレンの身分は明かさなかったが、「いいとこのお坊ちゃん」なのは隠しようもなく、イリーナは上客の気に入りになったということで、やっかまれることもあった。しかしそれも一過性のことだった。セレンという上客を得たからといって自慢げに振舞うということがなかったからだろう。
「いい客つかまえたじゃん。本気にならないよう、気をつけな」
心配してなのか、あるいはけしかけているのか、そう言ってくる同僚もいた。
イリーナは笑ってそれに応えたが、たしかに一線を越えてしまいそうな危うさを感じていたこともあった。
だが、セレンの心には、もう定まった娘がいた。
セレンを悩ませる、唯一の娘。
それは、黒髪の美しい、幼馴染みの魔女なのだという。
イリーナにしてみれば、セレンが片想いという状況にいるのが不思議でしょうがなかった。
「その娘、よっぽど鈍感なんだねぇ」
「……そうだね」
「ていうか、たぶん、セレンもはっきり言ってないんだろ?」
「……そうだね」
「なんで引っ込み思案になってるのか全然わからないけど。さっさと告白すりゃいいじゃないか」
「……そうだね」
セレンは苦笑するばかりだった。
いったい何がセレンをためらわせているのか、イリーナにはさっぱりわからない。
師匠を亡くしたばかりだという黒髪の魔女に遠慮しているのかもしれない。気弱になっているところに愛の告白など、不謹慎なのではないか、という具合に。
イリーナは折に触れ、セレンの片恋の相手である黒髪の魔女のことを聞いていた。セレンから話しだしたわけではなく、イリーナが聞き出したのだ。会話の糸口として、何気なく「好きな娘はいないのかい?」と。
返ってきた答えは、予想外のものだった。
もう十年も想い続けている娘がいるとは。しかも、現在進行形で片想いとは。
雛には稀なる美貌の持ち主で、気障台詞がさらりと吐ける、この男が片恋?
俄かには信じられないことだった。
しかし、セレンの人となりを知っていくにつれ、なんとなく、解かるような気がしてきたのだ。
無自覚天然気障男は、真面目だが、不器用であるらしい。
かつて、イリーナはこう言ったことがある。
「あたしのこと、惚れてる娘だと思って抱けばいい。ま、似ても似つかないだろうけどさ」
セレンは一瞬困った顔をしたが、すぐに笑んで、
「イリーナはイリーナだ。他の誰でもないよ」
そう返してきた。イリーナは柄にもなく赤面してしまった。
甘やかな微笑を向けられ、眩暈がした。
崖っぷちに立たされ、背中を押された気分だった。
すんでのところで崖から転落するのは免れたが、危うい一夜になったことは、背中を押した当人には内緒だった。
とにかく、セレンにはそういう自覚の乏しいところがある。誠意があるには違いないが、もっと言いようはないのかと文句をつけたくなるイリーナだ。
だがセレンはイリーナを抱きながら、ただの一度も想い人の名をささやきもつぶやきもしたことがなかった。想い人の名前を知らないという奇妙な事実があったにせよ、イリーナを、想い人の身代わりとして抱くことはしなかった。
稀なる美貌の持ち主は、稀なる誠実さを持った男だった。
純愛一直線をひた走らせるセレンの片恋の相手とは、いったいどんな娘なのだろう。
「魔女っていうくらいだ。男を惹きつける魔力を持った妖婦みたいな娘? それとも純真の化身みたいな絶世の美少女?」
イリーナのからかい半分の質問に、セレンはまったく動じず、赤面すらせず、さらりと答えた。
「ごく普通の女の子だよ。おおらかで優しくて、気立ての良い――」
ありきたりな答えだったが、セレンの亜麻色の双眸は愛しさに溢れ、嫣然とした微笑は輝くほどだった。多くを語らずとも、この王子がいかに幼馴染みの魔女を愛しく思い、焦がれているのかがわかる。
それほどの深さを持つ想い――イリーナは至極当然に、興味を抱いた。
そこまで惚れこんだきっかけは、なんだったのか。
「……さぁ、なんだったかな」
セレンはそう言って曖昧に笑む。ごまかしているのかもしれないし、本当にわからないのかもしれない。
ただ、
「母が亡くなった時――」
ぽつりと、語った。尽きることなく湧きでる黒髪の魔女との思い出。そのひとつを。
セレンの母親はもともと病弱な性質だった。辺境の地にて静かな療養生活を送っていたのだが、それも空しく天へと召されてしまったのは、セレンが十五の時だった。
その頃、師匠である森の魔女とともに屋敷に出入りすることの多かった黒髪の魔女はまだ「魔女見習い」だった。
幼い少女だった。
その少女は、とうに両親がいず、それゆえに森の魔女のもとに預けられていた。
だからセレンの寂しさを、誰よりも一番に、解かったのだろう。
けれど、少女はただの一言も、セレンに慰めの言葉をかけなかった。
ただ、静かに傍にいた。時には、手を握って。笑いかけて。――寄り添うように、傍にいた。
それだけのことが、どれほどセレンの心を慰め、安らげただろう。
自分もその心に寂しさを抱えていながらそれは見せようとせず、セレンが独りきりにならないよう、寂しさに沈まないよう、精一杯明るく振舞って、笑っていてくれた。
ひたむきなその優しさが、愛しかった。
……きっと、出逢った時から、惹かれていたのだろう。
陽だまりの温かさを、少女に感じて――
イリーナは笑って訊く。
「つまり、一目惚れなんだ?」
「そうだね。そうかもしれない」
めったに見ない、セレンのはにかんだ笑顔だ。
イリーナはわざとらしくため息をついてみせる。
「本人じゃなきゃ、こうもあっさり言えるのにねぇ」
我ながらそう思う。そう言ってセレンは苦虫を軽く噛んで、笑う。
初々しげなセレンの表情を、イリーナは眩しく眺める。
セレンが想い人のことを語る時、イリーナの心に湧くのは懐かしさと、温かさだった。
それはどこか、望郷の念と似ている気がする。
「いっそのこと、その魔女さんに惚れ薬でも作ってもらって、当人に飲ませたらどうだい? ま、邪道ではあるけどさ。ちょっとくらいズルをしたってよさそうじゃない、鈍感娘には」
イリーナは度々セレンをけしかけ、はっぱをかけてきた。
この王子には、幸せになってもらいたい。
自分でも不思議なほど、イリーナは心からそう思っていた。
「惚れ薬は作れないと言っていたよ、師匠殿が、だけどね」
「へえ? でも魔法薬作りの名人なんだろ、その魔女さんは? 作れるかもしれないじゃないか」
「どうかな。できないというより、作ってくれなさそうだ。師匠殿の教えを、よく守っているからね」
イリーナの冗談まじりの提案を、やはり冗談として受けていたセレンだったが、ふと思いつくことがあったのか、暫時黙り込んでいた。
「ともあれセレン、そろそろ潮時だよ。さっさとモノにしちまわないと、どこぞの馬の骨にかっさらわれちまうよ?」
「……そうだね」
セレンは何か思うことがあったのか、ようやく決意を固めたようだった。
浮かべた笑みに戸惑いはなく、そうして、まっすぐにイリーナを見つめ返していた。
ベッドから出、セレンは帰り支度を始めた。
まだ宵の口だが、明日は朝早くに出立しなければならない。王都での滞在期間は三日間だった。その半分の日数をかけて領地へ戻る。
生まれは王都だが、セレンにとって帰るべき「ふるさと」は、今自分が統治している辺境の領地だ。
「セレン、上着」
イリーナは肩にかけていた絹の上着を脱いだ。
床に落ちたままになっていた着衣を掴むと、さっさと着込む。
もう、身体のほてりはひいていた。
「イリーナ。よかったら、もらって。夜着くらいにはなるだろう?」
「記念ってやつかい?」
「というほどでもないけれど、そう思ってくれるのなら、嬉しいよ」
「じゃ、ありがたく」
夜着にするには高級すぎると思ったが、それは口にしない。
「イリーナ」
着替えを済ませ、あとは部屋を出るばかりとなったセレンは、イリーナの手を取り、その指先に軽く口づけた。
イリーナはぎょっとして、持っていたグラスを危うく落とすところだった。
「なっ、なにすんだいっ!? する相手を間違ってるよっ」
「間違ってはいないよ、イリーナ」
そして、セレンは優美な微笑をイリーナに向ける。
セレンという男は、どうしてこう気障なことがなんのてらいもなくできてしまうのか。
それがまた自然で、嫌味にならない。
イリーナは激しい動揺を上手く隠すこともできず、耳たぶまで真っ赤にしている。
セレンはそんなイリーナを優しく見つめ、だが手は離さず、そのまま言葉を続けた。
「イリーナと出逢えて、よかった。……ありがとう、本当に」
「いや、そりゃ、どういたしまして」
「私は、私が与えてもらったイリーナやカイヤの、もちろん他の様々な人達の、その優しさに応えるよう、そしてそれを私も他者に与えることができるよう、生きていきたいと思う。領民達が安んじて暮らしていけるように」
まだたった二十歳の年若い領主は、真摯なまなざしをイリーナに向け、そう語った。
セレンの手を、イリーナは握り返した。
「セレンの領地に住む人達は、幸福だね。……大丈夫、セレンならきっと、自分がそう望むように生きていけるよ。想いだって、伝わるさ。魔女さんにね」
セレンは目を細め、笑む。
「ありがとう、イリーナ。イリーナのことは、忘れないよ」
「そうだね、あたしもセレンのことは忘れられないよ、きっと。キョーレツだからね、セレンの印象は」
「それは、褒められているととっていいのかな?」
「そう聞こえなかった?」
「いや。このうえない賛辞としてありがたく受け取っておくよ」
セレンらしい応えに、イリーナは肩を揺らして笑った。
生真面目な王子のこの性分はおそらく変わらないままだろう。……いや、変わらずにいて欲しいと、願わずにはいられない。
どちらともなく、二人は手を離した。
「元気で、セレン」
「イリーナも」
そしてセレンは部屋を出た。イリーナは片手を振って、セレンを送り出した。
成功を祈ってるよ。
グラスを掲げ、イリーナは呟いた。
水際を濁すことなく飛び立っていった若い鳥は、イリーナにとって、かけがえのない想いのひとつだった。
その便りがイリーナの耳に届いたのは、数ヵ月後のことだった。
春の風は遠くの地に住む、「王子」と「魔女」の噂を運んできた。
妓館を出て帰郷したイリーナは、慣れない新たな仕事に従事し、張りのある、目まぐるしい毎日を過ごしていた。
そんな日々の中、生真面目な王子の恋の成就譚はイリーナの心をほんのりと優しく、和ませた。
イリーナは青空を仰いだ。
陽射しの眩しさに、目を細める。
幸福でいるんだね、セレン。
出逢った頃と変わらぬままでいるだろう。美しすぎる微笑と、不器用な誠実さを持った、あの天然気障男の王子は。
セレンに抱いていた想いは、母性愛のようでもあり、ある種純真な友愛だった。恋情に陥らなかったのは、セレンの危うい優しさのおかげだった。
愛にも、優しさにも、様々な形がある。
空を悠然と流れる雲のように。季節ごとに吹く風の匂いのように。
イリーナは深呼吸をし、大きく伸びをした。
着衣についた土埃を軽く叩いておとし、そして砂利道を歩き出した。
その先に小さな家屋がある。煉瓦の煙突からは煙があがっている。
みすぼらしい家だけど、それはイリーナが得た「優しさ」のカタチだった。
――待つ人がそこにいてくれる、ささやかな幸せ。そして、その人を守っていこうと思う、幸せ。
イリーナは笑う。その笑顔は変わらない。イリーナらしい、強く凛とした笑顔だ。
「あたしも、生きるよ。あんたが示してくれたその優しさのようにね」